最高速度を犠牲にするとそのぶん低速域ではトルクが太い



 わたしはツーストロークディーゼルエンジンです。



 河野唯は正しく言葉を使う。

 正直というのとも少し違う。唯は比較するのであれば相対的には正直な性質であろうとは思うけれど、当然、嘘もつく。つくと思う。どれが本当でどれが嘘かなんて、本気で検証してみたことはないので分からない。まあでも、明らかな虚言癖というようなことはないから、基本的には本当のことを喋っているのだとは思う。でも、わたしの感じる唯の言葉の正しさというのは、その言明の真誤とはあまり関係がない。

 それは喩えるならば、分量が正しいという感覚が近い。それぞれの言葉が持つべき正しい重みというものを守っているというか、適切な重みで言葉を使うというのか。往々にしてそれは、重すぎないという方向性で現れてくる。人というのはどうにも、言葉にその本来の意味以上の重みを持たせすぎる傾向があるらしい。

 唯が「それいいね」と言ったなら、それは彼女がそれはいいと思っているということで、そこにそれい以上の意味は含まれていなかった。彼女の言う「それいいね」は適切な重みで空気を振動させ、わたしの耳に届いた。適切な重みで発せられた言葉というのは、ただそれだけで耳に心地が良い。唯が「え~? ヤだ」と言ったとすれば、それは彼女がそれを嫌だと思っているということであり、その嫌だは「それ」以外のなにものも指示してはいなかった。その言葉は適切に対象を指示し、ただそれのみが嫌であることを表明していた。そして、彼女の言葉には常に、その言葉が持つべき適切な重さが付与されていた。軽くもなく、重くもなく、丁度いい。ブロンディー・ノックスのように、それはしっくりとしていて、丁度よかった。まだ普通の女子高生になったばかりで、他の女の子たちが使う言葉にはその言葉が本来持つ意味以上のさまざまな思惑が相乗りしていて、それらは表面を上滑りするばかりでサッパリ意味が取れないわたしにとって、そのことはとても助かることだった。

 唯が「わたしはリッコのことが超好きだよ」と言ったとすれば、それは彼女がわたし、及川律子のことを超好きであるという意味で、そしてそこにはやはり、適切な重さしか感じられなかった。超好きであるというのは超好きであるという、ただそれだけの意味で、そこにはそれ以上の意味は乗っておらず、春風に吹かれれば飛んでしまいそうなほどに軽快な響きを持っていた。だからこそ、わたしはそうか唯はわたしのことを超好きでいてくれているんだなと素直に受け取ることができたし、そんな唯のことを超好きだなと素直に思えたから、わたしも素直に「わたしも唯のことが超好きだよ」と言うことができた。それがちゃんと、適切な重みで響いていればいいなと、わたしは思う。

 そんなわけで、わたしたちはお互いのことが超好き同士なのだった。

「リッコはいいよね。なんか重心の低い感じが」

 お昼休み、一緒にお昼ごはんを食べながら唯がそんなことを言ったから、わたしは「なにそれ。ケツがデカいとかそういう話?」と、目を細めて問い返した。

「いやまあ、比較的ケツはデカいけどそれはそれで隠れセクシーポイントでいいと思うけど、そうじゃなくて。人格の重心が。多少のことでは横揺れしない安定性というか、回転数低めで安定した馬力が出る感じというか」

 あまり年頃の女子高生っぽくない唯の比喩は、わたしには分かりにくくて褒められているのか貶されているのかは微妙なのだけど、もちろん、年頃の女子高生っぽい比喩であれば分かりやすいということでもないのだけれど、でも唯は正しく言葉を使うから、彼女が「いいよね」と前置きして言っている以上はそれは褒め言葉なのであろうと思う。そう素直に受け取ることができる。

「わたしは全然ダメ。もう感情のジェットコースターだからね。浮き沈みビュンビュンだもの」

 そう言って、唯は手でビュンビュンのジェスチャーを入れる。肩から肘、手首から指先までがとてもしなやかに連動して、どこかしらセクシュアルな印象を抱かせる動きだった。

「そうかな? わりと唯も表にはそんなに出てないっぽい感じするけど。わりと抑えているよね」

 わたしが観察する限りにおいては、唯は規定された女の子の枠を出ないように、とても慎重に常に調整をしている感じがあった。やはり、わたしたちは若い女の子で、華の女子高生で、花も恥じらう華の女子高生なのだから、暗かったり大人しかったりしても全然ダメで、それなりに明るく快活でなければいけないのだ。でも、だからといって出力120パーセントでキャンキャン騒ぐとそれもそれで煩がられるし、それなりに聡くないといけないけれども賢すぎても鼻持ちならないからほどほどにバカでないといけなくて。

 社会からの華の女子高生に対する要求というのは思いのほか厳しくて多岐に渡り、わたしたちはそのいずれからも逸脱してはいけないのだ。ちゃんと正しく華の女子高生をやっていなければいけない。

 唯はたぶん、地はもっとお喋りで、賢すぎるくらいに賢いのだろうけれど、その60~80パーセントぐらいの理想的な「華の女子高生」の水準を逸脱することがないように、常に出力を自分でコントロールしている節が見受けられる。

「表向きはね。う~ん、出さないように気を付けていたら、気が付いたら自分でももう出しかたを忘れちゃって、出せないようになっちゃて、そのせいで行き場のない感情が出口を求めて内側でビュンビュンしちゃうっていうのかなぁ。この薄皮の一枚したではもう大変なものよ。トルネードでタイフーンでストーミングだから」

「ああ、そういうのは分かるかもしれない」

 と、両腕の関節をフルに駆使してトルネードとタイフーンとストーミングを表現する唯に、わたしは軽く笑ってそう答える。もっとも、わたしと唯ではその性質は真逆と言えるように思えた。

 唯が内側でグルグルとしている感情のストーミングを表に出さないように出力を絞っているタイプだとすれば、わたしは逆に内側に大した感情があるわけでもないのに無理矢理でっち上げて、それをアンプで増幅して外部に出力しているタイプだった。外側から出力された結果だけを観測した場合、そこにある表象はふたりとも60~80パーセントぐらいの出力の、社会によって規定された華の女子高生の枠組みに収まっているから、ひょっとするとそれらは似た者同士のように見えてしまうのかもしれない。

「リッコの感情が安定してくれているから、わたしも安定していられるみたいなところがあるからね。わたしにとってリッコはスタビライザーなわけ」

「スタビライザー?」

 知らない言葉だったのでわたしが首を傾げると、唯は「う~んと、電車のつり革とかにぎり棒だと思ってくれてもいいわ」と答える。

「外側から揺すられたときに、それを握って耐えるのよ」

 唯はそう言うのだけれど、わたしは果たして自分の感情が安定しているのかどうかが分からない。そもそも、自分の感情がよく分からない。廃屋の写真を撮るのもただの習慣みたいなもので、別に廃屋が好きでやっているわけでもなければカメラにも写真にもそれほど興味もないし、三つ編みも眼鏡もマキシスカートも、別にそのスタイルが好きでやっているわけでもない。ただなんとなく、そっちのほうが落ち着く気がするというだけだ。軽く風になびくサラサラのダークブラウンの長髪だって別に好きなわけじゃなく、そのほうが今風の女子高生っぽくて、これくらい垢抜けていたほうがむしろ普通だと考えただけだし、短いスカートが好きというわけでもない。むしろ、未だに脚の膝より上を衆目に晒すことには抵抗がある。なにしろケツがデカい。でも、それもやっぱりそれぐらいの長さのほうが一般的な女子高生としては適切だというだけのことで、必要だから対応して、習慣で続けているというだけのこと。つまり慣性だ。物体は外から新たに力を加えられない限り、慣性の法則に従って等速直線運動を続ける(ただし摩擦と空気抵抗は考慮しないものとする)。慣性で移動しているだけの物体は静止しているのと同じことだ。地球をグルグルと回る人工衛星と同じで、それ自身は別になにもしていない。衛星軌道に上がるまでのところで、ちょっと大きめの力が必要になるだけのことなのだ。

 高校デビューのためには第二宇宙速度を突破する大きな力が必要ではあったけど、軌道に乗った今となっては、それを維持することにそれほどの力が必要なわけでもない。

 そういう意味ではなるほど、わたしの心はもはや静的で安定的な物体なのかもしれなかった。

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