それは高校の合格通知なんかよりもよっぽど重要なことだった



 わたしはイワシの缶詰です。





 洗面台の前で髪になんどもブラシを通す。黒目を大きく見せるサークルレンズのコンタクトはもう鏡を見なくても一発で入る。入念に歯を磨いて、眉毛をチェックする。制服のスカートはお腹のところでクルクルと二回巻いて、上から少しだけオーバーサイズのラルフローレンのニットベストを着る。家を出る前に玄関の靴箱にくっついている縦長の姿見で最終確認をする。大丈夫、今日もちゃんと女子高生できている。

 駅についてからも、電車に乗ってからも、たとえばコンビニのガラス窓とか、券売機の横の鏡面仕上げのステンレスの部分とかに自分の姿が映っているのをふと見つけると、不安になってついつい見てしまう。前髪を触って整えるのは、もう癖みたいになってしまっている。

 電車を降りて、レンガ敷きのケヤキ並木を歩く。

 美容師さんにガシガシ梳いてもらって強力なストレートパーマをかけてボリュームを抑え、生活指導の先生に怒られない程度に適度に微妙に染めたダークブラウンの髪は、おだやかな春風にも軽くなびく。「おはよーリッコ!」と、後ろからとびつかれて、わたしはよろめきながらその子を顔を見る。

「おはようユイ」

 首に回された腕をほどきながら、口角をクイッと上げて、わたしも挨拶を返す。

 唯は高校に入って以来のわたしの一番の友達で、わたしが思い描く理想の女の子の要素を全部詰め込んだような最高の女子高生で最高にかわいい。

「あれ、シャンプーかなんか変えた?」と、唯がスンスンと鼻を鳴らしながら言う。

「よく分かるね、そういうの」と、わたしは笑う。「変えたっていうか、やっぱブワブワになっちゃって髪質に合わないみたいだからノンシリコンやめたの。もとに戻したの」

「あ、分かる。ノンシリコンとかオーガニックとかくそ食らえだよね。やっぱシリコンですよ。ビバ科学の叡智」香りもこれくらいわざとらしいレベルで女の子の匂いしてるほうがいいよ、女の子っぽい。そう言って、唯はシャンプーのCMみたいにわざとらしく髪を振り払う。ふわっとパステル系の女の子の匂いが一瞬拡がる。

 女子高生らしい、科学にも政治にも社会にも一切関係がない、頭のおかしい天才だったら絶対にしなさそうな、一瞬の後には意味ごと朝のそよ風に流されて消えてしまうような、どうでもいいような話題だ。

「今日は?」と、唯が曖昧に言って、わたしは「おかん亭」と返事をする。今日のお昼ごはんはどうするのかを聞かれているのだ。校門直前の商店街にはエトワールというパン屋さんとおかん亭というおにぎり屋さんがあって、わたしたちはお弁当を持ってきていない日はそのふたつのどちらかでお昼ごはんを行きがけに調達していく。たまに、新商品が出た時なんかは敢えて駅前のファミマを利用することもある。

 おかん亭のおばちゃんに元気に挨拶をして、ショーケースからシャケとわかめごはんを選らんで包んでもらう。おかん亭のおにぎりは見た目のわりに脅威的に身が詰まっているのでふたつで十分お腹いっぱいになってしまう。商品を受け取るときに、おばちゃんは「あんたたちそうして並んでるとほんと姉妹みたいね」と、笑う。

「ん~?」「そうかな?」と、わたしと唯は顔を見合わせて首を傾げる。わたしが左で、唯が右で、鏡写しのようにシンクロした動きをする。

「まるで双子みたい」と、おばちゃんにまた笑われる。

 唯に似ている、と言われて、わたしは素直にうれしくなる。そうか、わたしは唯の隣に並んでいても別に変じゃないのかと安心する。

 入学式の日、あたかも女子高生の仮装をしているみたいな違和感を自分自身で感じてしまって、それを誰かに指摘されてしまうのではないかとビクビクしながらも、なるべく表面上は平静を装っていたわたしの肩を、斜め後ろからチョンチョンと指で突いて話しかけてきてくれたのが唯だった。「ね、どこ中なの?」とか、そんな特になんてこともないような話から始まったように思う。だけど、わたしにとってそれは、高校の合格通知を受け取った時よりも重要な瞬間だった。唯のような最高にかわいい最高の女子高生が、数居る他の女子生徒たちを差し置いて、少なくとも両隣や前後ではなく斜め前のわたしの背中をわざわざ突いてきてくれたということ。誰とツルもうかなとお互いがお互いの出方を伺いあっているような、入学直後の居心地の悪いそわそわとした状況で、まずわたしに声を掛けてきてくれたということが本当に嬉しかったのだ。唯はわたしの理想通りの最高の女子高生で、そして、わたしはその隣に居ても別におかしくない、ちゃんとした女子高生に化けられていた。

 それはまさに、このわたし及川律子が高校デビューに成功した瞬間だった。

 わたしは中学での成績は良かったから当然のように志望校は県内で一番の進学校にしたし、まずまず順当に合格をしたし、そして、県内で一番の進学校に進んだわたしの学内での成績は特に見るべきところのない上の下くらいのポジションに収まった。入学前の春休み期間中に美容室と眼科に行って主たる装備を整え、お腹のところで巻いて下品でない程度にやや短くしたスカートとクリーム色のラルフローレンのベストを手に入れたわたしのことを「頭のおかしい天才」扱いする人はもう誰も居なかった。唯と同じクラスになって、すごくかわいいなー、ああいう子と友達になれたらいいなーと思っていたら、いつの間にか友達になっていた。誰もわたしと唯が友達同士であることに疑問を抱かないようだった。

 唯はわたしの隣に居そうな女の子で、わたしも唯の隣に居そうな女の子になれていた。イワシだって、缶詰にしてラベルを剥してしまえばもう他のものと区別がつかないだろう。ピーチのラベルを貼ってピーチの缶詰の棚に並べられてしまえば、見る人はそれがピーチの缶詰だと思うに違いない。誰かに買われて缶を切られてしまうまでは、イワシも見かけ上、ピーチでいることができるのだ。

 つまり、そういうことなのだ。

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