人は見た目が9割(特に中学生の社会においては)
物心がつくころには「及川律子は天才的に頭の良い子だ」ということになっていた。及川律子というのは、つまりわたしのことだ。もちろん、頭が悪いということはなかったと自分でも思う。たとえば、学校の勉強なら小学校の間はたまの凡ミスを除けばほとんどのペーパーテストで100点満点を取っていたし、中学校に上がってからもだいたいの教科で80点以上をキープしていたし、100点満点こそ滅多になくなったけれども、95点ぐらいのスコアならそう珍しいことでもなかった。だから、人並み以上には勉強に適性があったことはあったのだろうとは思う。でも、なにしろ小中共に普通の公立校だったので、それぐらいの成績を出している子はどの学校にだって数人ぐらいは居るものだろうし、事実、わたしの通っていた中学校にもわたしよりテストの点数がいい子は居た。けれど、その子たちがわたしと同様に「天才的に頭が良い」と言われているということはなかったと思う。だから「及川律子は天才的に頭の良い子だ」という評価は別に、テストの成績に依る評価だったわけではないのだ。なぜわたしに限ってそのような評判が立っていたのかと言えば、それは要するに見た目の問題のようなのだ。
背中まで長く伸ばした黒髪は量も多いうえにクセもあってまとまりが悪く、ふたつの三つ編みにして垂らしていたし、肌は血色が悪く病的に色白で、そのうえド近眼なせいで分厚いレンズのグリグリ眼鏡をかけていたから、あとは白衣を着せて変な色の液体の入ったフラスコでも振っていれば、それは誰しもが思い描くようなステロタイプの理想的「頭のおかしい天才科学者」そのものの見た目だった。だから、わたしは「頭のおかしい天才」ということになった。そういうことらしい。
頭のおかしい天才には頭のおかしい天才なりの所作が求められるものなのだけれど、困ったことに実際にはわたしは天才ではなかったので、天才方面でその期待に正面から応えるというのはなかなか難しかった。それで、「頭のおかしい」のほうに救いを求めることにした。だから、廃屋の写真を撮り始めた。そういうことなのだ。廃屋が好きだからとか、廃屋のことが気になったからとかではなく、誰も廃屋になんて興味がない、というコンディションが重要だったのだ。凡人には理解できない頭のおかしい天才特有の高尚な趣味。ちょっとエキセントリックな美的感覚、というのが必要だったから、それで廃屋の写真を撮ることにしたのだ。幸い、ちょうど老後をむかえた祖父が「なにか趣味を持たなくては」と追い立てられるように様々な趣味に手を出して道具を買い揃えては続かずに投げ出す、ということを繰り返していて、その中に写真もあったために、中学生が持つにしてはかなり高級なデジタル一眼レフも難なく手に入れることができた。廃屋のほうはタダなので、これでもう準備は万端だった。
誰もわたしの趣味に興味を示さなかったし、理解もしなかった。母親はわたしが自分には理解できないようなものに興味を示したということに安心したようだった。そうなんですよ、この子、廃屋の写真なんかばっかり撮って、いったいなにが面白いんだか、そう、昔からちょっと変わっているところがあって、天才的と言うのかしら、学校の勉強ができるっていう天才じゃなくて、孤高なんですよ、ほんと困ってしまいますわ……。困ったものだと思う。
わたしの他には誰も廃屋の写真を撮って集めている人は居なかった。わたしには他の人たちと一緒にやるような趣味だったり、競い合ったりするような趣味は必要ではなかった。自分ひとりで逃げ込める、安心できる空間、外界を遮断する防壁としての趣味が必要だったのだ。
もともとは、ただそれだけの話だった。
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