第25話「闇の力をはね返せ!スイートパラディン新たな力!!」

闇の力をはね返せ!スイートパラディン新たな力!![Side:B]

 ……思えば、ネロ・レッドサビナの人生は、常に戦いであった。

 物心ついた頃には、彼は自分が弱い生き物だと理解していた。痩せた土地を耕し、僅かな水を運ぶ。ヤクサイシンの民なら子供でも当然できることが、体の弱いネロにはできなかった。他の仕事ができればまだ良かったが、動きは鈍く、不器用で、頭も悪い。相互扶助を是とするヤクサイシンの民に、彼が貢献できることは何も無かったのだ。

 ヤクサイシンには食料が少ない。僅かなジャガイモと唐辛子を収穫し、皆で分け合って暮らしていた。全体の為に何の貢献もしないネロにまで飯を食わせるのは無駄であると、非難するものは少なからずいた。彼は周りの子供からも苛められていたし、大人からも嫌な顔をされていた。ネロ自身も、自分などは『真理の魔物』に食われて死ねばいいのだと思っていた。

 彼が人生で初めて戦ったものは、他ならぬ無力感と絶望であった。

 そんな彼の人生を変えたのが、九十九代目の魔王、ジョロキアであった。力が強く、魔導に秀で、スコヴィランを率いて外敵を打ちのめす。誰より喰らい、犯し、圧倒的な力を振るう。ヤクサイシンの全ての民にとってそうだったように、ジョロキアは彼の憧れであった。

 そんなジョロキアが、ある時。幼きネロの禿げ頭をひと撫ですると、こう言ったのだ。「この者は、魔導の扉を開ける資格を持っておる」と。ジョロキアは魔王、即ち魔導を統べる王である。その魂に魔導の回路を持つ者を見定め、スコヴィランの戦士として育て上げ使役する、魔導戦士の王である。その彼が言ったのだ、ネロにはたったひとつ、その才能があると。

 ネロは直ちに『ソース』を注がれ、魔導の才能をこじ開けられた。常人なら灼け死ぬこれを飲み干し、なおも生き残った彼は、紛れもなく選ばれし者、戦士の有資格者であった。それは、民の中でも片手で数えるほどの者しか持たぬ才能である。

 ネロには、器用な魔導の技は一切使えなかった。ジョロキアは恥じることはないと言い、ただそれを肉体の強化にだけ回せばよいと教えた。ネロは誰にも負けぬ強靭な肉体を手に入れ、それであらゆる外敵を粉々に砕いた。腕力だけで言えば、ネロに勝てる者はジョロキアしかいない。最早、ネロを正面から貶す者は無かった。

 そして始まったのは、ジョロキアによる厳しい稽古の日々。ネロの次なる戦いは、ジョロキアとの実戦稽古であった。

 同じように稽古を受けていた戦士は、ネロの他にも二人。それがカイエンとモルガンである。カイエンは歳の近い先輩として、ネロの無知と非礼を正し、戦士としての名乗りをはじめ最低限の生活習慣をつけさせた。モルガンは魔王になる為の修行と称し、力の有り余るネロの修行相手を夜遅くまで買って出た。

 ネロは、二人のことが大好きになった。自分を見出してくれたジョロキアや、貶されてばかりだった自分に優しく接してくれるキャロライナも当然そうである。一緒にいたいと思える者を、ネロはようやく見つけられた。

 そして、外敵との戦いが始まった。

 信頼のおける仲間の元でネロは存分にその力を振るい、何体もの真理の魔物を殺した。やがて外敵は増えた。ショトー・トードやファクトリーを攻めることになったからである。ネロはそれを喜んだ。自分に唯一あった壊す才能を、もっと広い世界で発揮できるのだと。ネロはファクトリーで、壊し、壊し、壊し、そして壊した。外敵を壊せば壊すほど、ヤクサイシンの民は辛いお菓子にありつける。どん底にいたはずのネロは、いつしか尊敬の対象となっていった……スイートパラディンが、ジョロキアを倒すまでは。

 ジョロキアが倒れ、魔導の力を奪われ。そこにはただの醜く弱い男が残った。

 あとは、はじまりと同じ。絶望との戦いが始まった。

 ファクトリーと戦おうにも、勝負にすらならない。幼い頃と同じである。破壊を除けば、ネロに才能など何もないのだから。力仕事もできない、手に職をつけることもできない。残飯を漁り、縄張りを荒らされたホームレスにリンチされ。盗みを働き、あっけなく捕まり。ファクトリーで暮らし始めてからの彼には、ぞっとするほど冷たい敗北と、狭い檻の記憶しかない。塀の中に突然キャロライナがやって来るまで、それは続いた。

「アナタの大好きな戦いを、もう一度用意するわ」

 ある晩、眠れなかったネロの前に突然現れたキャロライナは、あの頃と全く変わらぬ笑みでそう告げた。

「全部壊すのよ。思い出しなさい。栄光を。勝利を。誇りを」

 ネロはキャロライナと共に東堂町へ戻り、『ソース』を受け。そして、取り戻した。破壊を。戦いを。生きる意味を。

 目の前にいる小娘。スイートパンケーキ。自分の体に傷をつけ、戦いを、破壊を、自分の生きる意味を奪おうとした存在。こいつが嫌いだ。破壊を邪魔するこいつが嫌いだ。ネロの中にある単純な快不快の原則が、このちっぽけな存在を不快だと認識していた。

 だから、次に会ったら粉々にする。スイートクッキーをそうしたように。そう決めていた。のだが。

「ウガァ……!?」

「くうぅ……うッ!」

 ネロが全霊で放った拳を、パンケーキはそのホイッパーで受け止めていた。魔導武者鎧の対魔導力とホイッパーの聖なる魔導エネルギーが弾き合い、バシバシバシと雷のほとばしるような音が響き渡る。二人がぶつかった際に生じた衝撃波は、周囲の道路を煎餅のように砕き、ガラスを割り、ギャラリー達を転倒させている。それだけの威力の攻撃を、この聖なる武器が、この小さな体が。受け切ったというのか。体格差と彼の魔導強化筋力を考えれば、それは本来有り得ないことである。

「ウガガガガガガァッ!」

 だが、それがどうした。一発で殺せないなら無限に殴り続けるだけ。細かな戦略的思考を持たぬ彼にとって、それが唯一のプランであった。ネロは目にも留まらぬ速さで拳を次々と繰り出す。パンケーキは後方へ滑るように移動し、紙一重でそれを回避し続ける。成す術も無く全身に拳を浴びせられていたあの時からは想像もつかぬ、繊細な動き。何かがおかしかった。

「ウッガァアァッ!」

 ネロはその大きな手で、割れた地面をパワーショベルのようにすくい上げ、そして壊すべき敵へ投げつける。

「パンケーキィッ!」

 その背後からようやく駆けてくるのは、どうやらパンケーキの新たな相方。キャロライナやセブンポットから話には聞いていた。驚きやら困惑やらで参戦が遅れていたか。彼女はクリーム袋をこちらに向けて構え――。

「あぁあぁッ!」

 しかし、パンケーキはシュークリームを振り返りもしなかった。眼前に迫る瓦礫を、ホイッパーで横にひと薙ぎ。更にあろうことか、大地をミシと砕きながら前方へと跳躍。未だ空中にある瓦礫を足場と蹴り、ネロの眼前へと迫ったのだ。幾つもの細かな破片がパンケーキの肌をかすめ、小さな切り傷を作ってゆく。が、それはミシミシと煙を上げながら即座に回復していくのだ。

「ウガッ!?」

「あぁああーッ!」

 前方から真っ直ぐやってくる攻撃を素直に喰らう程、ネロも鈍くはない。ホイッパーを振り上げるパンケーキを、ネロは咄嗟に両腕をブロック姿勢にしてガード。パンケーキのホイッパーはネロの魔導武者鎧と弾き合い、ビシシと音を立てる。彼女の後ろでは、シュークリームが空中に撒いたクリームで瓦礫を防いでいた。

「ぱ、パンケーキっ!?」

「あぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁ!」

 パンケーキは∞の形にホイッパーを振りながら、更なる追撃をかける。ビシビシと両腕でこれを防いでいくネロ。生身のままならまだしも、これなら防ぐのはそう難しくない……とはいえ、防戦一方というのは気に食わない。

「ウガアッ!」

 ネロはホイッパーの先端を掴む。鎧が聖なる魔導力でバシバシ悲鳴を上げるが、数秒触れた程度でどうということはない。ネロはパンケーキごとホイッパーを放り投げた。はずだった。

「ウガ?」

 投げた感覚は、いくら少女とはいえ軽すぎた。次の瞬間、パンケーキの脚が顔にめり込んでいた。ミシリと折れる鼻。同時に少し遠くでドガシャンと派手な音、そして悲鳴。立ち上がり観戦を再開した観衆へと、ホイッパーが突っ込んだのだ。

「ウッ――」

「あぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁーッ!」

 パンケーキは続けざまに顔へ蹴りを入れる。蹴りというより、それは地団駄であった。欲しいものが手に入らない子供のような、聖なる魔導エネルギーを伴う地団駄。ネロは激痛に顔を歪めながら、顔の前で虫を叩くように手をパンと合わせる。それに挟まれる直前、パンケーキは顔を蹴ってくるくると空中後方回転、地面に着地した。

「み、皆さん、危ないから! 逃げて!」

 少し遠くで、シュークリームが人々に避難するよう声を掛けるのが見える。放り投げられたホイッパーの直撃した数名は、少なからぬ傷を負っていた。命の危機を感じ逃げ出した者もいないではなかったが、多くはその場に残り、歓声を上げながらパンケーキを応援している。

「いいぞーっスイートパラディン!」

「悪い奴をやっつけろ!」

「やっちまえー!」

 ……不愉快であった。己の敗北が望まれているのが、いくらネロでも理解できる。ネロは奥歯をギリギリと噛みしめ、こめかみに血管を浮かび上がらせた。

 ネロが好きなのは戦いではない。破壊である。勝利である。破壊できるから戦うし、破壊すれば勝利でき、そこには賞賛が付いて回る。役立たずの馬鹿と罵られて生きて来たネロにとって、破壊の快感と勝利の栄光のみが生きる意味であった。

 ファクトリー暮らしで酷い扱いを受ければ受けるほど、その思いは強くなった。みすぼらしい自分の姿を見るだけで顔をしかめたファクトリーの民。ゴミを漁っていた時に襲って来た若い男達、あるいは縄張りがどうのと集団リンチしてきたホームレス達。檻の中で自分を怒鳴り続けた看守、馬鹿にし続けた周りの囚人達……。

 幼き敗北の日々を思い出し、ネロは小さく丸まって毎日泣いた。自分の生きる場所、勝てる場所、馬鹿にされない場所。それは戦いの中にしかない。彼は嫌という程思い知らされ、嫌という程絶望した。それでも、臓腑も灼ける憎悪の辛みだけを。決して忘れはしなかった。いつかもう一度戦えると、それだけを信じて。

 だから、破壊せねば、このふざけた小娘を。弱きファクトリーの民を。そして、全てを。

「壊ああぁあぁあーすッ!」

「ああぁあぁーあぁあァッ!」

 パンケーキはホイッパーを拾うこともせず、こちらへ向かってくる。その両腕のガントレットは、白く輝いていた。キャロライナの恐るべき魔腕のように。先程の蹴りといい、まさか真似をしたとでもいうのか。武器が無ければ何もできない少女だったのに、どうしてそんな器用な技を。

 漠然とした疑問が形になる前に……もっとも、彼の頭では何を疑問に思ったのかすら理解が難しかったが……ネロはそれを迎え撃つ。

「パンケーキっ、待って――」

「ウガガガガガガガガガガガガガガァ!」

「あぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁー!」

 シュークリームの声をかき消すように、魔導同士がぶつかり合う音がバシュシュと響き渡った。ネロのパンチは確かに早く、そして重い。が、その身軽さ故か、それとも女王の加護か。パンケーキの拳はネロ以上に素早い。そしてそこに、この体格からは本来有り得ない威力が乗っている。ネロとパンケーキは、完全に。正面から打ち合っていた。

 拳がぶつかり合う度に衝撃波が生じ、二人を中心に爆風が巻き起こる。舗装された道路や建物だったものの破片が飛び散り、観戦者達に降り注ぐ。

「待って! パンケーキ! 怪我してる! みんなが!」

 怪我を負って倒れている者もいる。しかし観客はアドレナリン過剰分泌めいてますます盛り上がっていた。

「「「スイッ! パラッ! スイッ! パラッ!」」」

 誰が言い出したか、観客達は一体感のある掛け声でスイートパラディンを応援している。彼らの目はギラギラと燃え上がっていた。あらゆる苦難を乗り越えてきた小さな正義の味方が悪を砕く。究極のエンターテインメントを。最前列で観戦したいと。

「マジで! マジで危ないって、怪我してる人いるでしょ、誰か止めてよコレ! 救急車とか呼んでないの誰か!?」

 シュークリームは懸命に訴えながらクリームを噴射し、少しでも彼らに被害が及ばぬよう力を尽くす。しかしあまりにも飛んでくる量が多過ぎ、またシュークリーム自身も爆風でまともに立っておられず、全ては防げない。

「パンケーキ、ストップ! ストーップッ!」

 ネロとパンケーキの周りには、拳と拳の小宇宙が生まれていた。そこにシュークリームの声は届かない。観衆を守る為、その場を離れるわけにもいかず。シュークリームは声を枯らしながらクリームを撒き散らすより他無かった。

「パンケーキィッ!」

 永遠に続くように見えたこの打ち合いにも、しかし変化が訪れた。聖なる魔導エネルギーとぶつかり続けたネロの魔導小手が熱を発し、限界を迎えピシピシとひび割れつつある。

「ウッガ……」

「ふうぅっ……!」

 しかし、パンケーキの状態はより深刻であった。彼女の目と鼻からは、鼻血が流れている。そればかりではない。振り回し続けていた腕の一部が縦に裂け、出血しているではないか。ジュウジュウと音と煙を立てながら高速回復してはいるが、既にそれが追いついていない。怒りに任せて彼女が振り回す魔導エネルギーは、彼女の肉体の許容量を超えているのだ。筋肉を魔導強化してもまだ足りないほどに。

 ネロにはそこまで考える余裕も頭も無かったが、これは当然である。かつてセブンポットが評した通りだ。多少鍛えたとはいえ、パンケーキ単体にネロと正面から殴り合う力は無い。腕や脚に魔導強化を施せば多少打ち合えるようにはなるが、それにも限界はある。それでも正面からぶつかりたいならば……限界を超えるしかない。己が肉体を崩壊させてでも、相討ちになってでも。ネロを殺す。そのつもりなのだ、スイートパンケーキは。

 ネロは思った。

 勝てると。こいつの強いは、強いフリだと。

「ウガハーッ!」

 ネロが笑いながら大振りの一撃を叩き込むと、パンケーキもそれに応え……両の拳でこれを受けた。そこが限界であった。ゴゥンと衝撃波。吹き荒れる風。それと同時に、パンケーキはぐらりとよろめいた。

「アぁっ」

「ウハハハァーッ!」

 そこを見逃すネロではない。ネロはパンケーキの右腕を掴むと……振り回し始めた。ヌンチャクのように。クッキーを守れなかった、あの日のように。

「ウガウガウガウガァーッ!」

「あ゛ぁぁあ゛あ゛ぁあ゛ぁあ゛!?」

 最早砂利と化した地面に、ネロは高笑いながらパンケーキを幾度も打ち付ける。振り回され。ぶつけられ。パンケーキはあまりにも無力に、それを受け続けていた。

「ウガウガウガウガァーッハッハッハッハッハッハァーッ!」

 高笑いながら、ネロはそれを繰り返す。見守っていた者達が悲鳴を上げる。逃げ出す者もある。パンケーキは最早抵抗を見せない。悲鳴すら上げなくなった。

「ウガハハァーッ……!」

 ならば、仕上げである。ビルの上でキャロライナが見ている。彼女は言った。「アナタの残酷さを見せつけなさい」と。スイートパラディンを可能な限り痛めつけ、そして残虐な方法で殺せと。ファクトリーの弱き民に見せつける為に。お前達が縋る聖騎士とやらは、これほどまでに脆い存在だと。

 彼の究極の殺し方といえば、これしかない。ヌンチャク攻撃をストップしたネロは、背中のフードプロセッサーの蓋をがぱりと開いた。ジョロキアから提供される大いなる魔導エネルギーが、この中に閉じ込めたあらゆるものを砕くのだ。この世で一番硬いものであっても。女王の魔導力に守護された聖騎士であっても。

「ウオォーッ! オレをッ見ろォッ!」

 大気を震わせながら、ネロは高らかに宣言した。

「スイートパラディン、弱いッ! オレッ! とてもとてもッ! 強おぉお――!」

「ネロ!」

 ネロの声は、事態を見守っていたキャロライナの声で。

「放さんかぁーいッ!」

 そして、真横から襲って来たもうひとつの声で、中断された。直後。ネロの右半身を、大量のクリームが包み込む。ジュゴゴォと尋常でない音が鳴り、クリームが沸騰。ネロの右半身に、この世のものとは思えぬ熱が伝わった。

「ウガアあぁあぁああ!?」

 ネロが思わず右手を放した次の瞬間、ネロの顔面にクリーム袋が直接叩き込まれた。ネロがバランスを崩している間に、クリーム袋の主はネロの喉を蹴り。そして、ズタボロと化したパンケーキを抱きかかえると、大きく距離を取って着地した。

「ウゴオォンアオォッ!?」

 何が起きたか分からぬままネロは地面に倒れ、その灼ける痛みにのたうち回る。

 ネロには想像もつかぬ話であったが、この魔導武者鎧と聖なるクリームは、相性が信じられないほど悪かった。魔導エネルギー同士が反発を起こせば、そこに熱が生じる。パンケーキの聖なる拳やホイッパーとて例外ではないが、それが鎧と触れ合うのは基本的に一瞬。殴り合いを続ければ当然高熱が生じるが、一瞬で許容できぬ威力にはならない。

 ところが、クリームは違う。クリーム自体に殺傷力は皆無であり、ネロが生身で受けたところで即座に死ぬようなものではない。その代わりに、鎧にベタベタとまとわりつくのだ。それも消えるまで、何秒もの間。

 クリームと鎧の反発は熱エネルギーに還元され、クリームを沸騰させ、鎧を地獄めいた高温にするのだ。今のネロは、全身を焼肉の鉄板で包まれて焼かれているようなものである。

「アッガアアァアァアァアァア!?」

 パンケーキにとどめを刺す為、攻撃を止めたのが失敗であった。観衆を守り続けていた聖騎士が……シュークリームが。その隙を、そして相棒のピンチを見逃すことは有り得ない。彼女はパンケーキを取り戻すと、ゆっくりと地面に寝かせる。

「チョイス、マリー……いないし! どこ行ったのあのアホ!」

 シュークリームは、そのクリームをパンケーキの全身へかけてゆく。

「お願い神様、女王様……これで何とか……」

 シュークリームが直感的に行ったその行動は、この場においては正しかった。スイートパラディンの肉体に傷がつきにくく、また回復力が高いのは、聖なる魔導エネルギーのお陰である。ならば、聖なる魔導エネルギーの塊であるこのクリームを浴びせれば、怪我の塗り薬めいて回復を早めるのではないかと思ったのだ。

 クリームが消滅した後、そこには、いくらか傷の塞がったパンケーキがあった。

「パンケーキ、パンケーキッ!」

「……うッ」

 シュークリームは甘寧を懸命に揺り動かす。全身に細かい傷は残っていたが、彼女は最早死にかけのボロ雑巾ではない。彼女はゆっくりと目を開け、声を絞り出した。

「シュークリーム」

 パンケーキがその名を呼びながら、ゆっくりと体を起こすと。

「馬鹿ッ!」

 起きたばかりのパンケーキに、シュークリームは思い切りビンタをした。

「……!?」

 パンケーキが驚きの表情を見せていると、シュークリームは周りを指差した。

「見なよ周り! 怪我してる! 倒れてる人もいる! 建物も壊れてる!」

「……あ」

「何やってんの! アンタが滅茶苦茶に突っ込んでいくから! みんな傷付いてるんだよ!」

 パンケーキの視界に、ようやく辺りの惨状が入ったようであった。パンケーキが鬼気迫る顔でネロと戦っていたように、今のシュークリームはこれまで見せたこともないような怒りを表明している。

「私」

「私もタワシもないでしょ! 憎たらしいのは分かってるよ、知ってるよ! アンタがずっと大迫さんのことばっかり見てたのも! 隣にいる私のことなんかッ……大迫さんの穴埋めみたいに思ってたこともッ!」

「そんな、そんなこと」

「見ないふりしてたけどッ! もう我慢できないんだから!」

 シュークリームは、泣いていた。パンケーキの肩を揺り動かしながら。涙を流していた。

「アイツが憎いのは分かってるよ! でも、大迫さんを殺したアイツをやっつければそれでいいの!?」

「シュークリーム」

「みんなを傷付けるスコヴィランをやっつける為に戦ってるんでしょ、アンタずっとそう言ってきたでしょ!? 嘘なの!? 考えてたのは大迫さんの敵討ちだけ!?」

「そんな」

「アンタの言う世界守るってそういうこと!? 正義の為ならっ、誰が傷付いてもいいって!? 応援してくれてる周りの人も、すぐ隣で一緒に戦ってる人も!?」

「……シュークリーム」

 パンケーキは反論もせず、ただ呆然とシュークリームを見ていた。シュークリームは涙を流したまま、力強くパンケーキを掻き抱く。

「…………」

……

 ……パンケーキは、唸るように泣き声を上げるシュークリームを。静かに抱きしめ返した。

「……ごめんね」

 パンケーキは、静かに呟く。

「ごめんね」

「……ウオッ、ウガァーッ」

 その時だった、ガロォンと金属の転がる音と共に、ネロが立ち上がったのは。ネロは鎧を脱ぎ捨て、その強靭な肉体を見せつけていた。いくらガードが硬くても、高温の鉄板を身に着け続けることはできない。少々厳しいが、この条件で戦うしかなかったのだ。

「壊すゥーッ……スイート、パラディィイィンッ」

 それに、鎧を脱ぐというのはそう悪いことばかりではない。関節の動かしにくさや重さが解消され、より身軽に動けるのだから。あの時は突然のホイッパーに驚いたが、来ると分かっていれば簡単だ。ホイッパーよりも早く強く、自分の攻撃をお見舞いすればよいのだから。

 先程の打ち合いで、パンケーキの限界は充分理解できた。体を破壊するほどの全力を出して、ようやく鎧の状態の自分と互角ということは。鎧が無ければ完封できる。筋肉で考えれば分かることだ。向こうとてそれは分かっていることだろう。

 だというのに、どうして。

 聖騎士達は、ああも安らかな顔で立っているのか。ネロの額を、汗が一筋つつと垂れてゆく。

「……帰ったら、いっぱい話そ」

「うん。トマトもとろうね」

「愛夢も取り戻して、三人一緒にね」

「ミニトマト使った辛い料理、蒔絵さんに作ってもらおうね」

 自分を恐れるどころか、この場に似合わぬ未来の話などしている。

 馬鹿にしているのか。自分など、取るに足らない弱者だと。二十三年間散々自分をいたぶってきた、ファクトリーの民のように。あるいは、幼き日、自分を役立たずだと罵ったヤクサイシンの民のように。

「……膨らむ甘さは新たな幸せ! スイートパンケーキ!」

 気合を入れ直すように、パンケーキは大声で己が名を叫ぶ。

「飛び出す甘さは織りなす平和! スイートシュークリーム!」

 それに呼応するように、シュークリームもまた自分の名を叫んだ。そしてふたりは高らかに声を揃え、合体決めポーズと共に見せつけてくる。自分達が何者か。何をする者か。


「「メイク・ユア・ハッピー! スイートパラディン!」」


 女王ムーンライトが聖騎士。ファクトリーの幸福を生み出し、守る者……スイートパラディンが。輝く光と共に、ふたり揃って。再びその姿を現したのである。その気迫にやや圧されながらも、ネロは目の前のふざけた者達へ怒りを募らせていた。

「……で、どうしようか」

 シュークリームはニッと笑いながらも、やや困ったようにパンケーキへ問うた。

「結局みんな守りながら戦わなきゃだもんね」

「そっか、どうしよう」

 パンケーキが辺りを見回しながら言った、その時である。

 キャロライナの拡声器より鮮明で巨大な男の声が、駅前に響き渡った。周りにいた者達は、ネロまで含めて一斉に声の方を向く。道の脇に、一台のバンがあった。まるで、芸能人が現場へと移動する時に使うような。その側面には、ロゴマークと英語が記されている。ネロには読めなかったが、そこにはこう書いてあったのだ。『Acala Naatha』と。

「ヨーヨーヨー。俺らアチャラナータ。お前らただ邪魔だ」

 電源内臓アンプを足元に置き、マイクを握っていたのは。熊のような大男だった。

「テレビで見たぜスコヴィランの急襲は。血まみれになった複数が。だから向かってる救急車、なのにお前らギュウギュウだ。俺がMC FUDOW、止めるぜ東堂町の暴走を」

 ……目の前男が何を言っているのか理解できず、ネロは立ち尽くす。一方、突然登場したラッパーに熱を冷まされ、群衆はやや冷静になったようだった。すぐ側で救急車のサイレン音がする。足元には怪我人が転がっている。周囲は荒れ放題。良くないことが起きていると。全体の何割かが認識し始めたらしかった。

「……お願いします!」

 直後に叫んだのは、パンケーキだった。

「スコヴィランは、私達がやっつけます! ですから皆さんは、怪我をしないように離れてください! 傷付いている人の為にできることをやってください! ……役割分担で!」

 奇しくもそれは、パンケーキが週刊誌の中で語ったことと一緒であった。文字もロクに読めぬネロに理解できるはずもないが。同時に救急車。降りてくる隊員達。

「救急です、道を開けてください! 道を開けてください!」

 どうしていいか困っている者も大勢いたが、

「ネロ、気にしないで! 早くスイートパラディンを殺しなさい!」

 キャロライナがそう命じたことが、結果的には大勢を救うこととなった。ネロはハッと我に返り、そして地面をバンバンと打ち付け始めたのだ。

「ウガオォッ! オマエら! 馬鹿にしてるなぁッ! オレに分からないこと言って! 馬鹿にしてるなぁッ!」

 一部の者達の心に、恐怖が戻って来た。目の前にいる怪人は、人殺しの怪物なのだと。足元で倒れている者達のように、近くにいれば怪我や死の危険があるのだと。

「――にっ、逃げろッ!」

 誰かがそう叫ぶと共に、群衆は大急ぎでその場を離れ始めた。警察がかろうじて抑えていた群衆は、逆の方角に向けてごった返し始めたのだ。新たな混乱が生まれたというのが皮肉な部分ではあったが、スイートパラディン達にしてみればその方が何割か都合が良かっただろう。戦う際の邪魔が減るのだから。

「ウガアァーッ!」

「パンケーキ! みんなが逃げるまで何とか守り切ろ!」

「うんッ!」

 ネロは怒りに任せて、何やら喋っているパンケーキ達へ突っ込んでいた。アイツらも、自分に分からない話をして馬鹿にするのか。自分を遠回しに馬鹿だと言いたいのか。ならば殺してやる、破壊を、生きる意味を邪魔して、その上自分を馬鹿にするスイートパラディンを。今度こそふたりとも粉々にしてやる。

「せいやぁッ!」

 そんなネロの前に最初に現れたのは、大量のクリームであった。

「ウオォッ!?」

「パンケーキ、あっちに落ちてるから! ホイッパー拾っといで!」

「うんっ!」

 ネロの体は、当然大量のクリームに突っ込む。確かにベタベタとくっつくが、これによる直接ダメージは無い。この程度なら。

「ウッガアァッ!」

 パァンと音を立て、クリームが弾け飛ぶ。全身から一瞬魔導エネルギーを放つことで、クリームを打ち払ったのだ。鎧と違い、生身ならば熱いのは一瞬で済む。だが。

「ネロ、後ろよッ」

「ウガッ!」

 キャロライナに拡声器で指示をされ、ネロは振り向く。すぐ後ろに、シュークリームがいた。

「ムーンライトぉ、キックッ!」

 その顔面に、再び聖なる魔導キックが叩き込まれようとする。ネロはその脚を右腕で掴み、

「ウガッ!?」

 その脚に流れる魔導エネルギーに思わず驚き、手を放した。シュークリームはバク転で再び距離を取り直し、瓦礫の山と化した駅を背にして立つ。逃げている群衆達を背にして戦うのは得策ではないと判断してのことだが、ネロはとにかく自分の手に魔導火傷を負わされたことに怒り狂っている。

「ウゴォッ……オマエ……」

 奇妙だった。自分の知っているスイートパラディンは、腕や足を掴んでも平気だったのに。いつの間にそれが駄目になったのか。ネロは混乱を憎悪で抑えつけると……無意識のうちに、最後のリミッターを外していた。脳を魔導で刺激し、大量の脳内麻薬を分泌。これなら痛みや恐れを忘れ、永遠に戦っていられる。ちょうど、先程のスイートパンケーキのように。

「ウオオォオォオォオオォオォアァーアアァアァッ!」

 ネロは絶叫すると共に、全身の血管を浮かび上がらせる。

「こわあぁああぁあぁああぁあぁーすゥウゥウウゥゥウッ!」

 ネロがシュークリームへ飛び掛かった次の瞬間。脇から割り込んでくる聖なる魔導ミサイル。だが、怒りに加えて脳内麻薬でリミッターの外れた今の彼は、全身に魔導エネルギーをみなぎらせている。キャロライナの腕めいて完全に無効化することはかなわないが、いくらか軽減することはできた。無理矢理腕で防ぎ、今度はパンケーキに向けて攻撃を――。

「ネロ!」

「ウガッ!?」

 キャロライナの声で気付いた。気を逸らしている間に、シュークリームがすぐ隣まで迫っている。

「ウゴモォ」

 顔にぶちまけられるクリーム、真っ白になる視界。それが払われた次の瞬間には、ホイッパーを上段に構えたパンケーキが顔面めがけて飛び掛かろうとしていた。

「ウガォーッ!」

 両腕でこれを防ぐネロ。ジュジュと腕の灼ける音。そして脇にはシュークリーム。クリーム袋自体を鈍器とし、狙うのはネロの膝裏。

「ウオァ! アァア!」

 同時にふたつが襲ってくると、途端にネロの情報処理能力は追いつかなくなる。ネロはやぶれかぶれ気味に両拳を横に突き出し、その場でコマめいて回転した。弾き飛ばされるスイートパラディン達。しかしその着地は無様なそれではなく、衝撃を殺しながらの軽やかな着地であった。

「ウゥーウッ!」

 馬鹿にしている、馬鹿にしている。一度に色々なことを考えられない自分を。許せない。ネロの怒りの炎に更なる油が注がれてゆく。壊さねば。壊して、勝たねば。自分を馬鹿にした全ての者に。

「ウガァウガァォオォーッ!」

 嗚呼、しかし、スイートパラディンは気付きつつあった。

「ネロ、右よッ!」

「ウゥ!?」

 キャロライナの号令で、右から襲い来るパンケーキから身を守る。

「左だよォッ!」

 すると、左から新たな声。慌ててそちらを向くと、そこにシュークリーム。これを弾き飛ばす。

「ウオアァア!」

「後ろだよッ!」

「違うわ、左からよ!」

「ウガ、ウガ!?」

 同時に違う指示。その刹那、ネロの腰に叩き込まれるホイッパー。

「今度は上から行くよ!」

「ネロ、左を見なさい!」

「後ろだァーッ!」

 今度は三つ同時。ネロがどちらを向けばいいか分からぬ間に、ネロの後頭部にホイッパーの一撃、そしてクリームで固められる足。

「ウオッオォッ」

 脚のクリームを払った次の瞬間、

「ネロ! ワタシの声だけ聴きなさい!」

「右ィ!」

「左だよッ!」

 ネロの腹に叩き込まれるホイッパー。そしてペストリーバッグ。両脇からの同時攻撃に、ネロは思わずよろめく。

 そう、同時に何かが起こると対応しきれないというネロの弱点に、スイートパラディン達は気付いたのだ。キャロライナが躍起になって正しい指示を与えようとしているのが、皮肉にも状況を悪化させていた。加えて。

「ヤクに厳しいが役には立たねえサツに勝つのは甲冑を着込んだ学生だぜ!」

 人々が逃げている中、FUDOWが残ってフリースタイルラップをしていたのが災いした。

「そろそろ逃げるぜ命は大事! 怒られたばっかだからな最近! でもお前ら怪人に言っとくぜ! お前らが砕いてきたこの大地! 今も俺らが暮らしてる毎日! 家族が第一! 万一何かありゃ承知しないぜ!」

 耳障りなそのラップは、ネロの集中力をわずかに削いでいた。極限の戦いにおいて、それが悪影響を及ぼしたのだ。

「この町を頼むぜスイートパラディン! 俺のこのマイクは武器と魂!」

「FUDOWさん! 行きますよもう! ヤバいですって!」

 車内から現れた派手な髪色の若者が、FUDOWのアンプを無理矢理片付け始めた。ネロの集中力を妨害する要因はひとつ失われたが、状況は既に取り返しのつかないレベルまで達している。ネロは出鱈目に腕を振り回しながら、なんとかふたりの連携攻撃を防ごうとすることしかできない。

「ウガアアァアァー!?」

「何やってるのネロッ!」

 キャロライナはヒステリックに声を上げ、ネロを叱責している。キャロライナは自分を可愛がってくれたのに。これでは嫌われてしまう。その焦る心が、ますますネロを焦らせた。

 今のネロの状態は、先程のパンケーキに近い。痛みも何も無いのに、体にはガタが来始めている。攻撃を防ぎきれなくなってきた。腕全体に火傷が広がり、脚もガクガクと震えている。視界も歪み始めた。周りから何を言われているのか、よく分からなくなってきた。

「ウガ! ウガ!」

 もう出鱈目であった。音のする方へとにかく腕を振り回し、何とか捕まえる。フードプロセッサーへ放り込む。そうすれば、そうすれば――!

「「スイートっ……!」」

 嗚呼、だが。体が追いつかない。体格で勝っているのに。筋力で勝っているのに。残酷さで勝っているのに。こいつらは素早いだけなのに。ふたりいるだけなのに。あんなに簡単に壊せたのに。勝てたのに。どうしてこんな。全力なのに。どうして……!

「「ダブル・キィーックッ!」」

 よろめいたネロの胸の辺りへ向け、全速力の聖なるキックが、一秒のずれも無く、同時に叩き込まれた。ネロは遂に吹き飛ばされ、仰向けに地へ倒れる。フードプロセッサーがガゴンと音を立て、ネロは横倒しになった。

「隙アリぃ!」

 そこに降り注ぐ、大量の白いクリーム。だが、たかだかクリームではないか。これを弾けば、弾けば。

「ウ、ガ」

 弾けない。どうして。自分には偉大なるジョロキアの魔導力がある、それをもってすれば、どんな攻撃にも耐えられるのに。何でも壊せるのに。もがくネロの頭上、迫る夕日を背に受けて。

「スイートッ……」

 スイートパンケーキがホイッパーを振り上げ、致命的な一撃を、今、叩き込もうとしている。どうすればいい。このままでは、自分は、自分は。負けたくない。勝ちたい。壊したい。キャロライナに、スコヴィランの戦士達に、ジョロキアに、自分の破壊の才能を褒めてくれた全ての者に。

 惨めな思いはもう嫌だまけたくない怖いのも嫌だまけたくない痛いのも嫌だまけたくない寒いのも嫌だまけたくない辛いのもまけたくない酷いのもまけたくない惨いのもまけたくない暗いのもまけたくない弱いのもまけたくない悲しいのもまけたくない苦しいのもまけたくない悔しいのもまけたくない虚しいのもまけたくない……!




!」




 ゴウと全身から放たれた最後の魔導エネルギーが、パンケーキを、シュークリームを、周囲に残った僅かな野次馬やカメラを後方へ吹き飛ばす。キャロライナすらも、バランスを崩して後ろに倒れかけた。

「ウオゥ、ウオッ、ウオォオォオーッ!」

 ネロは右腕を掲げ、ミシミシと音の立つほど握りしめた。その手の内から……暗黒の光が溢れ出す。

「オレはぁ! 魔王ジョロキアがしもべぇ!」

 そこに生じたのは……普段のそれとは比べ物にならぬほど、爛々と美しく昏く輝く。

「魔界より舞い降りし破壊の化身ンン!」

 彼はそれを、あろうことか。

「ネロっ、よしなさい!」

「ネロ、レッドサビナアァアァアァアァアアアァアアァア!」

 キャロライナの制止も聞かず。自分自身の胸に、ねじ込んだのである。

 瞬間、それは始まった。

「ゴボォ、ゴボ、ゴボボオォッ!」

「えっ!?」

「うわっ、な、何!?」

 パンケーキもシュークリームも、ネロに注目をしていた。ネロの全身がごぼごぼと泡立つように変形し始めている。

「オレは、オレは、おれ」

「や、ヤバイっ!?」

「これって!」

「パンケーキ、できるだけ残った人捕まえて! 一旦距離取るよ!」

 危険を察知したか、シュークリームはそう言いながら走り出す。パンケーキもそれに倣い、ネロから全速力で離れ始めた。

「オレは、かつ。こわす。なににも、まけ。オゴッ、もう、よわいのは。きらわれるのは。ばかにされるっ、のは」

 ネロの中で、あらゆる負の感情が暴れ出す。先程のような怒りや憎しみだけではない。悲しみ。恐れ。絶望。劣等感。ネロの理性を、今にも炸裂しそうな闇が覆い尽くしてゆく。

「ガボォ! ガボッ、ガほぉうッ!」

 溢れ出す感情が止まらない。この莫大な負の感情を、暗黒の魔力を受け止めるには、この肉体では足りない。小さすぎる。となれば、どうなるかは決まっている。

「アアァアアァアァアアァアァアアアーォォォオォオォォォォオォォウゥッ!」

 理性が、意識が呑まれる直前。

 ネロはその証を遺すように、長い長い雄叫びを上げた。

 そして幻視した。六枚の翼であの頃のように飛び高笑いをする、栄光ある魔王、ジョロキアを。彼らに指揮を出すキャロライナを。カイエンを。モルガンを。そして、セブンポットを。

 そして、ドゴォンと体が炸裂し、赤い煙を上げ始めた瞬間。

 暴力で無力さを隠し続けた弱き男。ネロ・レッドサビナは。

 何も、分からなくなった。

 幸福も不幸も、何もかも。

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