第21話「負けるな愛夢!みんな悩んで大きくなった!!」
負けるな愛夢!みんな悩んで大きくなった!![Side:H]
赤い瞳が、二人の少女を捉えていた。
がたごとと揺れる電車。クロスシート式の座席、その対面。きらきらと輝く笑顔で会話をする、ふたりの少女達。有子、そして甘寧。またの名を、スイートシュークリームとスイートパンケーキ。
ふたりは今、不可能を次々と可能にしている。愛夢は、彼女達の正面でじっとふたりを見ながら、そう思っていた。
ふたりは今日も、スイートパラディンとして活躍した。午後の授業が始まってすぐ、東堂町でプリッキーが発生した。聖マリベル学院は中吉にあるため、直接被害を被ることはあまりないが、東堂町の空が赤く染まるのはここからでも観測できる。
ふたりは混乱の中でこっそり授業を抜け出し、屋上でスイートパラディンに変身。速やかに現場へ急行すると、プリッキーを退治した。ここまではいつも通りの展開である。
ふたりが今日妙に上機嫌なのは、その後の対応が上手く行ったからなのだという。
プリッキーだった中年男性を連れ、ふたりは人気の無い場所へ移動した。みだりに人の目に触れることを避けるためである。目を覚ました男ははじめ動揺していたが、やがて落ち着いてふたりの話を聞いてくれた。
それは、男がスイートパラディンの記事を読んでいたからである。美奈乃の書いた『週刊リアル』のインタビュー記事のお陰で、スイートパラディンの世間的信用は上がっていた。これまでは取り乱すばかりだった被害者達も、スイートパラディンの言うことならと耳を傾けてくれるようになったのだ。
ふたりは、自分がプリッキーとなってしまった時に相談できる場所を紹介した。カウンセラー、アチャラナータ、あるいは元プリッキー及びその家族が集うサークル『光の種』。
光の種。それは、先代スイートパラディンが活躍した少し後、二十年ほど前から地元で活動を続ける小規模な組織である。世間的にパッシングを受ける元プリッキーで集い、苦しみや辛さを語り合ったり、共に食事をしたり、あるいは元プリッキーの地位向上を目指したりと、その活動は多岐に渡る。しかし、周囲からの危険人物集団扱いに耐えきれず、活動を止めるメンバーが続出。残った少ないメンバーで細々と活動を続けていたのだという。
が、スイートパラディンの記事が流れを変えた。大切なものを失ってもなおスコヴィランと、そして差別と戦うふたりの姿勢に、彼らは大きく感動したのだという。彼女らが頑張っているのに自分達がこれではいけない。そう思った光の種会長は美奈乃の取材を受け、自分達の活動、メンバーは常に募集していること、苦しんでいるのはひとりではないこと等を訴えた。スイートパラディンのそれ程ではないものの、この記事も大きな反響を呼び、入会希望者は増え、今は頻繁に集まってミーティングをしているということである。
彼らと直接面識こそないものの、スイートパラディンはその活動理念に大いに賛同していた。今回の男にそれを伝えると、彼は何か安心したように「そこに連絡してみる」と答えたという。そして、「止めてくれてありがとう」と感謝の意を述べられたそうだ。
あれほど大きなプリッキーを次々、それも迅速に倒し。実力差は圧倒的であるはずのスコヴィランに一泡吹かせ。世論にまで影響を与え。黙っていることを選んだ人々をも立ち上がらせ。恐怖に震える者に希望をもたらした。
スイートパラディンは、確実に不可能を可能にしている。ふたりを間近で監視し続ける愛夢は、それをひしひしと感じていた。
「……どしたの? 愛夢」
「照れちゃうなぁ、そんなに見つめられたら」
愛夢は、ハッとして首を振った。もっとも、ハッとしたという事実すら、ふたりは読み取れなかったであろうが。
「なんでもございません」
「あ、そう?」
「そろそろ着いちゃうよ東堂駅」
甘寧の言う通り、電車は既に東堂駅の手前でブレーキをかけているところだった。
「わー、雨降ってるぅ」
「ホントだ。傘持って来てて大吉だったわ」
「えっ、私持ってきてない! 入れて有子ちゃん!」
「ウソでしょ、夕方から雨って言ってたじゃん……まあ、いいよ。相合傘してこ」
電車が駅で停まり、ドアが開くと同時に、ふたりは立ち上がった。
「じゃ、愛夢。また明日ね」
「バイバーイ」
「はい。また明日お会いしましょう」
ふたりが手を振りながら電車を降りてゆく。愛夢はぺこりと頭を下げて、それを見送った。ドアが閉じ、電車が発車しても、甘寧はいつまでもこちらに向かって手を振っていた。愛夢も小さく手を振り返すと、甘寧は大いに喜んだようであった。
電車はすぐに駅を出、ガタゴトと次の駅へ向けて走ってゆく。藤影川にかかる鉄橋を渡り、田畑の中をしばし走ると、電車はやがて住宅密集地へと入ってゆく。そこにあるのが、愛夢の降りる上北駅であった。
ざあざあと雨の降る中、電車を降り、駅の南口から外へ出る。そこに黒い車が停まっていた。『迎え』が来ている。アナハイムは傘を差し、車へと近付いていった。運転席に座っているのは、妖しい笑顔を纏った貴婦人めいた格好の女。
「只今戻りました、キャロライナ様」
「お帰りなさい、アナハイム」
車の助手席に乗りながら、愛夢は淡々と挨拶を済ませた。キャロライナは車を発進させ、自分達のアジトへと向かってゆく。
「今日は? 学校はどうだった?」
「特に変わったことは」
「そう。今日はセブンポットがプリッキーを出したと思うけど」
「問題なく倒していました。その後、プリッキーだった男に元プリッキーのサークルを紹介したと」
「ふぅん。あの『光の種』? あまり愉快な話じゃないわね」
キャロライナはファクトリーの情報に敏感であり、当然『週刊リアル』の記事もチェックしている。あくまで笑顔のままだったが、キャロライナの目だけは笑っていなかった。
「ファクトリーの人間に希望なんて持ってもらっちゃ困るもの。そう思わない?」
「まことにその通りでございます」
「そろそろ邪魔ねぇ。殺した方がいいかしら? どう思う?」
「ジョロキア様がそうお望みならば」
キャロライナの顔が、ほんの一瞬だけ面白くなさそうに引きつった。
「……ううん、やっぱりダメね。こうなっちゃうとただ殺してもダメなのよ」
「左様でございますか」
「ええ、そうよ? 死んだ人っていうのはね、ある程度神格化されちゃうの」
それは、アナタにとってのモルガン様のようにですか。
喉元まで出かかった台詞を、愛夢は抑え込む。キャロライナは特に気にする様子も無く、自身の見解をぺらぺらと述べた。
「ここであのふたりを血祭りにあげたとしても、きっと連中こぞってスイートパラディンを持ち上げるわ。素晴らしい人を失った、しかしこれからも彼女らの意志を継いで戦わなきゃ、って。希望の偶像として扱うのよ」
車は市街地を抜け、店が時たまぽつぽつと並ぶだけの寂しい道を走ってゆく。
「奴らにはよく分からせないといけないわ。救いなんて無いって。あるのは死の絶望だけだってね」
「……はい」
「そろそろ着くわ。ちょっと仕事溜まってるから、お願いね」
「承知いたしました」
車はやがて、高い生垣に囲まれた一軒の建物へ近付いてゆく。外目には廃墟と化した城のようにしか見えまい。実際、キャロライナがこの建物を買い取るまで、この建物は長らく放置されていた。営業していた頃の看板は色褪せ、入り口のアーチには壊れたネオンサイン。辛うじて読み取れるかつての名前は『
入り口前で降ろされ、愛夢はホテルの自動ドアをくぐった。ロビーを通り、エレベーターに乗って三階へと向かう。三階には女達の部屋が集められていた。キャロライナ、セブンポット、そして愛夢。ちなみに愛夢の部屋も、他の者と同じ広さである。
部屋に戻り制服を脱ぐと、シャワーを浴びる。戦士達は炎で体表を浄化すれば汚れも全て消し飛ばすことができるが、戦士でない彼女にはそのような能力は無いため、こうして体を清めねばならない。
シャワールームの壁一面に広がる鏡は、彼女の未発達な裸体が映し出していた。筋肉質というほどではないがやや引き締まったその体には、服の上からでは分からない無数の傷跡。そして臍の下には、タトゥーめいた赤い模様が刻まれている。これこそ彼女がジョロキアの、スコヴィランの召使いである証。キャロライナが少しでも機嫌を損ねれば、即座にこの紋様へ魔導力を流し込み、内臓に向けて灼けるような苦しみを与えられるようになっている。
体を清めた彼女は、丹念に体を拭き、髪を乾かし、歯を磨き。やがていつものメイド服へ着替える。三鷹愛夢は本来の姿に、アナハイムになった。中学生ではなく、召使いに。召使いは召使いの仕事をせねば。掃除、洗濯、食べ物の在庫の確認、ゴミ捨て。やらねばならぬことは多くあるが……今はそれより優先したいことがある。
アナハイムは部屋を出、もう一度エレベーターに乗った。そして、階数の書かれていないボタンを押す。エレベーターはゆっくり上に向けて動き出した。上へ? この建物は三階までしか無いはず。ではこのエレベーターは、どこへ向かっているというのか?
エレベーターは上昇してゆく。どこまでも。どこまでも。それは瞬きの一瞬のようにも、あるいは宇宙が終わるほどの永遠とも感じられた。直後、チンとエレベーターの到着する音。少しだけ間を置いてドアが開くと、その隙間から熱気がもわりと溢れ出してきた。そこから感じられるのは、確かな魔導の圧。弱っていても確かなそれを放つ存在に会うのが、この階を訪れたアナハイムの目的であった。
エレベーターを降りると、そこは天井も壁も、床すらも無いように感じられる暗黒の空間。その中心にあるのは……一台の大きなベッド。
「……ジョロキア様。只今戻りましてございます」
そこに横たわる存在に向け、アナハイムは静かに挨拶をした。
「……おお、アナハイム」
やがて返ってきたのは、厳かな、しかしどこか弱々しい男の声。
「もっと、近くへ……ゴホッ、来るのである」
「失礼いたします」
距離という概念すら失いそうなその空間を、アナハイムはしずしずと歩く。遠かったように見えたベッドは、一瞬にしてアナハイムの目の前へ迫った。
「よくぞ、戻った」
ベッドの上にあったのは……歪な物体であった。人間らしき顔がついているが、パーツの位置が若干おかしくなっている。頭髪は無く、鼻と耳は穴があるのみ。目は片方が潰れ、口も奇妙に歪んでいた。アナハイムに向けて伸ばされる腕は枯れ木のように細く、また力無く震えている。裸で寝かされている彼は、まさしく生ける屍としか呼びようのないもの。
「私は戦士ではありません故。戻るのも不思議ではないかと」
「否、否。何が起こるか分からぬ。生はそれ自体が……コホッ、僥倖である」
歪んだ怪人……いや、かつてショトー・トードに戦争を仕掛けた恐るべきヤクサイシンの魔王、ジョロキアは、弱々しく微笑みながらそう言った。ただ、彼の崩れたその表情を微笑んでいると認識できる者は限られていようが。
「変わったことは、ないか。酷い目に遭ったりは」
「ご心配には及びません」
「おお、おお。そうか。アナハイムよ」
震える手を、ジョロキアはアナハイムに向けて伸ばした。
「お体に障ります」
「よい……アナハイム。お前を触れるのも、あと何度か分からぬ」
ジョロキアのおぞましき顔には、しかし憂いが浮かんでいた。
「そう遠くないうちに。我輩はお前に触れることもかなわなくなろう」
「ジョロキア様、そのような」
「否。お前にも分かっていよう。我輩にもお前にも、最早どうしようもないのである。口惜しいが」
アナハイムの頭を、ジョロキアは二度撫でた。
「お前だけは。助けてやりたかった」
「ジョロキア様」
「キャロライナが勝つにせよ、ムーンライトが勝つにせよ……ハァーッ、ゴホッ……我輩も含め、誰も助からぬ」
ジョロキアはむせ返りながら、絶望的な展望を口にする。彼が咳をする度、全身から軋むような音がした。
「傷付いた今の我輩では、キャロライナは止められぬ。我輩は単なる……ハァッ、使い勝手の良い、魔導力の発電所に、過ぎぬ」
「そのような」
「我輩が悪いのである。あの娘の……フゥッ……否。ヤクサイシンの死んで行った全ての民の為に。戦に勝利して。幸せな未来を築いてやれなんだ。つらい畑仕事で体を壊さず、『真理の魔物』も恐れず、一生菓子に困らぬ……嗚呼、幸せな、未来」
ジョロキアの赤い瞳に、血の涙が滲んだ。アナハイムがハンカチを取り出し、それを拭き取る。
「ジョロキア様。魔王の瞳に涙は似合いません」
「……アハ、ハ、ハ」
力無く笑ったジョロキアは、アナハイムに両手を伸ばした。
「もっと近くで。お前を見たい。アナハイム」
「ご覧ください、ジョロキア様。何もかも」
アナハイムは靴を脱ぎ、ぎしりと音を立てながらベッドに乗った。そして、ジョロキアの上に体重を掛けぬよう覆い被さると、直視すら耐えがたいようなその顔に、唇に……己が唇を重ねた。
「んん……」
アナハイムはその舌を、ジョロキアの中へとねじ込んでゆく。ジョロキアもまた、弱りながらもなお燃えるような舌でそれに応えた。ジョロキアはアナハイムの頭を撫でる。アナハイムはそれだけで全身をぞくぞくと悶えさせた。
「……ふはぁ」
口を離すと、血の混じったような赤い唾液が糸を引く。アナハイムはとろりととろけるような目つきになり、だらしなく口を開きながら息を荒くし始めた。それは、ジョロキア以外には決して見せぬ表情である。
「ジョロキア様。いえ、あなた様。もっと。もっと……ご覧ください」
「嗚呼……お前が、望むように」
「あなた様。あなた様っ」
アナハイムはつつと涙を流しながら、もう一度狂ったようにジョロキアの唇を求めた。ぎしぎしとベッドを軋ませながら、獣のような息音を立てて……。
……アナハイムがジョロキアに体を捧げたのは、共に過ごした時間を考えれば、そう昔ではない。
ヤクサイシン在りし頃。アナハイムは単なる下女に過ぎなかった。ジョロキアに特別気に入られていたわけでもない。特筆に値するほど仕事ができたわけでもない。愛想も良くなく、感情表現に乏しく、常に黙々と仕事をしているだけ。魔王への忠誠心が人並み以上にあるだけの、ただのメイドでしかなかったのである。
対して、九十九代目の魔王であるジョロキアは、絶対的な強者としての振る舞いを続けた。強大なスコヴィランの戦士を指揮し、外敵を打ち払い、憎き女王から、ショトー・トードからスイートファウンテンを奪い取ると力強く宣言した。誰よりも喰らい、何人もの妻を娶り、あらゆる面での強さを見せつけ続け……。
それらは全て、民に安心を与える為である。王は誰よりも強く、無慈悲で、そしてその力で民の望みを叶え、地獄のようなこの世界に希望をもたらす、憧れの存在であらねばならない。そう考えた彼は、外面を保つためにそのような行動を取り続ける必要があった。かつて九十八人の魔王達がそうしたように。
本当の彼は、そう多くを望まぬ男であった。実際の彼は食が細く、かなり無理をして大喰らいに見せかけていた。女を複数人抱くのも、王は精力の面でも他者を圧倒すると見せつける為のパフォーマンスであり……少なくとも、召使いに手を出すほど無節操ではなかった。邪悪な笑い声やわざとらしい尊大な話し方も、魔王として人の上に立つために身に着けたものである。
ショトー・トードとの戦いも、ジョロキアはできることなら避けたかった。負けるとはじめから思っていたわけではないが、全面戦争となればただでさえ弱い国力の疲弊は避けられぬと踏んでいたのである。しかし、ショトー・トードへの復讐は、ヤクサイシンの民にとって悲願であった。ジャガイモや唐辛子の不作が続き、食糧難に陥っていたことも大きな原因だったと言えよう。
結果として、ジョロキアはショトー・トードを襲撃。お互い必要以上に傷付かぬよう、スイートファウンテンのみを奪い……一年と経たぬうちに取り戻された。スイートパラディンという兵器を過小評価し過ぎていたのも原因のひとつであろう。魔王は限りなく死に近い状態となり、スコヴィランの戦士は全滅。ショトー・トードがそれ以上攻めて来ることはなかったが、ヤクサイシンは外敵に襲われ、あっけなく壊滅状態に陥った。
辛うじて生き残った民は、ふたつの派閥に分かれた。ひとつは、ほとんど死んだような魔王を中心に再びまとまろうとする派閥。もうひとつは、こうなったのは魔王の責任であり、彼を中心にまとまることなどできないという派閥である。明日食べるものすら危うい中、内輪での争いはしばらく続き……勝利したのは、魔王を中心とする派閥であった。魔王に責任を求める者達は、皆惨たらしく殺されていったのである。
内輪揉めで数を減らしたヤクサイシンの民は、その後も少しでも不満を漏らす者があれば、即座に粛清していった。餓死、外敵からの襲撃。そして身内の殺し合い。屍は次々と増え、そして、偶然にも、本当に偶然にも。アナハイムが最後まで残った。
アナハイムは、召使いとして有能だとは言えなかった。だが、この極限状態で生き延びる才能だけは、不思議と持ち合わせていた。彼女は魔王に対して不平を一切言わなかった。魔王に歯向かう者があれば、その粛清に平気な顔で加担した。小柄故に身のこなしは素早く、外敵が襲って来た際の逃げ足は早かった。少ない食料でも腹を満たせる燃費の良さがあった……。
どれも、ほんの少しだけ。死んで行った他の民よりほんの少しだけ。生き延びられる要素を少しずつ持ち合わせていた。ただそれだけの理由で、アナハイムは最後まで生き延びた。
それら全てを、ジョロキアはただ見ていることしかできなかった。キャロライナによる治療を受けていなかった当時のジョロキアは、今よりずっと弱っていた。腕も足も動かない、声も出せない。魔導など無論操れぬ。ただ、命だけがしぶとくあり続ける。魔王を継いだ者の、これはほとんど呪いのようなものであった。呪われた生命をただ保持し、民が滅ぼされ、また自滅していくのを、ただ傍観するしかなかったのである。
「あなた様に最後までお仕え申し上げます。早く元気におなりなさいませ」
アナハイムはそう言って、たったひとりでジョロキアを守り続けた。動きもしゃべりもしない、生きているだけのジョロキアを、永遠とも思える時間の中で。自分とジョロキアの為だけに、食べていけるだけのジャガイモと唐辛子を育て。襲い来る外敵から身を隠し。返事も無いジョロキアに話しかけながら。いつまでも、いつまでも。
「……殺せ」
長い時を経て、僅かに回復したジョロキアが、最初に発した言葉がそれであった。
「我輩は、無力である。殺せ」
自殺すらできぬジョロキアは、切れ切れになった声でアナハイムに懇願した。魔王という立場にありながらヤクサイシンの滅びを招き、その決定的な瞬間を眼前に見ながら何もできなかった。ただ、民を豊かに、幸せに過ごさせたかっただけなのに、それだけのことがついに叶わなかった。その苦しみはアナハイムにとて想像できぬほどである。
それでも、アナハイムは彼の願いを聞き入れなかった。
「ジョロキア様は、今もわたしの希望でございます。あなた様が居てくだされば、他に望みはございません」
人を生かす理由を希望と呼ぶならば、アナハイムのそれは紛れもなく本心であった。彼女の生きている理由は、最早ジョロキアにしかない。あらゆる力と威厳を失った王であっても、それが苦しんでいるならば手を取り、震えていれば抱き寄せて温め、涙を流せばそれをぬぐった。
一組の男と女は、長い時をこうして過ごした。
「ヤクサイシンが再興したならば、お前に褒美をとらせる」
共に過ごす中で、ジョロキアは繰り返しアナハイムにそう言った。有り得ぬ仮定なのは双方分かっている。ジョロキアとアナハイムだけで、国など、世界など成り立たない。それは単に、彼らが希望を失わぬ為の言葉であった。
「欲しいものを言うがよい。どんなものでも遣わす」
「謹んで遠慮させていただきます。わたしは当然のことをしているまでです」
アナハイムは、当初そう繰り返していた。欲の無い女だとジョロキアは笑ったが、そのやり取りが何度となく続いた時。アナハイムは突然望みを口にした。
「本当に、何でもよろしいのでしょうか」
「良い。好きなものを申せ」
「それでは、わたしは……ジョロキア様ご自身が欲しゅうございます」
アナハイムは、ジョロキアの手を握りながらそう言った。
「……アハ、ハ、ハ、ハ、ハ」
ジョロキアが高笑いをしたのは、その時がほぼ二十年振りであった。
「何でも良いとは言ったが、何たる大きな望みか」
口ではそう言ったものの、アナハイムが言わなければ、先にジョロキアがそう言っていただろう。
「良かろう。アナハイム。その時は、お前を我が妃とすると誓おう」
「有り難き幸せに存じます」
ジョロキアとアナハイムが初めて接吻を交わしたのは、その時である。
それからおよそ二年の後であった。死んだと思われたスコヴィランの戦士が……キャロライナが現れたのは。
「ジョロキア様。遅れて申し訳ございません。助けに参りましたわ」
キャロライナが深々と辞儀をする姿は、最早女神の降臨にすら見えた。魔導の力をほとんど失っていたキャロライナであったが、ファクトリーに存在する僅かな魔導の痕跡を必死に活用し、ジョロキアの下へ馳せ参じたというのである。
ジョロキアとアナハイムをファクトリーへ連れて来たキャロライナは、既に廃ラブホテルを買い取っていた。秘密の隠れ家で、キャロライナはジョロキアからソースを注がれ、再契約を果たした。その後、充分な栄養と魔導的治療の結果、ジョロキアの体力はみるみるうちに大きく回復。全快とはいかないものの、この二十二年間に比べれば大きくマシな体調になった。二人はキャロライナに深く感謝をし……そこで初めて、ジョロキアとアナハイムは夜を共にした。
この奇跡に感謝したジョロキアは、キャロライナにも何でも褒美を取らせると言った。アナハイムにかつてそうしたように。
「では、ジョロキア様。このワタシを、アナタ様の妃にしていただけますか?」
彼女の口から出てきたその言葉は、奇しくもアナハイムのそれに同じ。ジョロキアの良しという返事は、アナハイムを僅かに嫉妬させた。二十年もかけて自分が言った言葉を、再会からほんのひと月も経たぬうちに。とはいえ、魔王が複数の妻を持つのは、慣例から考えても何も珍しいことではない。魔導を失ってもなおジョロキアを助けようとしたキャロライナとなら、きっと上手くやっていけよう。この時までは、そう思っていた。
だが、そこまでだった。キャロライナは、建前だけはジョロキアに忠実に振る舞っていた。今もそうである。だが、彼女の狙いが何であるか、二人はすぐに気付くことになった。ジョロキアだけの部屋を用意したと言って、キャロライナは彼をこの部屋に押し込めたのだ。
魔導に詳しくないアナハイムには分からぬことだが、この奇妙な部屋のあちこちには複雑な魔導の術式が働いており、ジョロキアの魔導力を絶えず吸い上げている。加えて、あれやこれやと理由をつけて治療をこれ以上施さず、力が十全に発揮できない状態を維持。結果として生まれたのがこの状況である。
ジョロキアは単なる魔導発電所とされ、ベッドの上から一歩も動けず、自殺すら許されない。キャロライナは、ジョロキアから供給される潤沢な魔導力によって、今のジョロキアを遥かに上回る戦闘力を持った。加えて、スコヴィランの最高幹部、及び魔王の妃という立場。これを利用し、キャロライナは次々とかつてのスコヴィランの戦士を呼び集め、また従わせた。自分の言葉はジョロキアの言葉であり、それに逆らうことは大逆であると。
忠義に篤かったカイエンは、そう言われれば逆らえない。暴れられればそれでいいネロは、ジョロキアの現状を気にもしない。次の魔王と呼ばれたモルガンであれば、キャロライナを諫められたかもしれないが……彼女はもういない。いないからこそ、キャロライナはこのような真似をしたのだ。
キャロライナは、形式上の妃であるにもかかわらず、この部屋に新たな細工をする時以外、ジョロキアに会おうともしないで魔導の研究に没頭している。実のところ、ジョロキアの提供する魔導力の大半は、キャロライナの行う何らかの研究の為に使われていた。彼女が何をしているかは、二人も知らない。ただひとつ、「全ての世界を滅ぼすための研究」であるということを除いては。
同じ妃という立場のはずであるアナハイムならば、この状況を何とかできるかもしれなかった。だがアナハイムは、引き続き召使いとして大変に軽んじられた。ヤクサイシン在りし日に、臍の下に彫られた魔導入れ墨が仇となったのだ。
「要らない混乱が生まれるといけないから。スコヴィランの子の前では、召使いの振りをしてもらえないかしら?」
ネロを再び仲間に迎え入れた日、キャロライナはそう言った。要らない混乱? 全く意味が分からないが、拒む権利は実質無いに等しい。少しでもキャロライナの機嫌を損ねれば、タトゥーに魔導力を注ぎ込まれ、全身を死の苦痛が覆うのだ。最初こそ抵抗の意思を見せていたアナハイムも、何度目かの魔導注入でその意志を折られた。
「ククッ。サカリのついた猫ちゃんを手術しとくの忘れてたわ」
その時のキャロライナの顔を、アナハイムは今も忘れられない。
「だって、勝手に増えたりしたら困るものねぇ?」
アナハイムの子宮や卵巣にあたる器官を、キャロライナは魔導力を流し込むことで破壊したのだ。
「もっと大事なモノも壊してあげましょうか。どうなの? えぇ、発情猫ォ? 返事はァ?」
……従順になったアナハイムを、キャロライナはペットめいて大変可愛がるようになった。二人の肉体関係についても、特に口出しはしなくなった。魔王を、己が復讐に必要な道具を今日まで生かした功労者に対する、これが最後の慈悲だとでも言わんばかりに。
最早、体を重ねる快感で、二人は絶望を紛らわすしかなかった。キャロライナを怒らせぬよう。あの女がショトー・トードに負けるか……あるいは勝利し、全てを滅ぼすその日まで。
「……復讐とは、空しいものである」
メイド服を脱ぎ散らかし、裸で横たわるアナハイムに向けて、ジョロキアは語り掛けた。
「今更女王を殺したとて、モルガンは……ゴホ、二度とは戻らぬ。混沌の泉に還った魂が、同じ形で同じ場所へ戻るなど……あらゆる魔導士をもってしても。決して有り得ぬのである」
絶頂の余韻でじんじんする頭で、アナハイムはジョロキアの言葉を聴いていた。
「生きる為の戦であれば……我輩とて、いくらでも力を惜しまぬ。だが、グゥ……この戦には。大義が無い」
ジョロキアは、実際にキャロライナへそう言ったことがある。が、返ってきたのはゲラゲラという笑いのみだった。あの目には、既に正気が宿っていない。どんなに筋の通った物言いをしようが、通じはしないだろう。
「嗚呼……キャロライナ。聡明なお前に、何故それが分からぬ」
ジョロキアは嘆き、アナハイムはそれを黙って聞く。それしか無かった。つい最近までは。
「あなた様。ご案じなさいますな」
だが、今日のアナハイムは、少しだけ違った。
「わたしが、きっとあなた様をお救い申し上げます」
「……アナハイム。気持ちは嬉しいが、お前は弱く儚い」
アナハイムはキャロライナに対抗する為、ジョロキアにソースを注ぐよう懇願したこともあった。答えは否。ジョロキアには分かったのだ、アナハイムには魔導の才能が皆無であることが。そうでなければとうの昔に戦士となっていたはずで、召使いにしかなれなかったというのは、つまりそういう意味なのだ。
「今度こそ、その心の臓を灼かれるかもしれぬ。そうなれば」
「あなた様。まだ希望はございます。きっと」
アナハイムは、ジョロキアの腕をそっと抱いた。そう、希望はある。鍵は、新たな風。セブンポット。
そもそもセブンポットは、このファクトリーの生まれである。更には、スコヴィランを滅ぼしたスイートパラディンであった経歴までも持っているのだ。根本的に、スコヴィランとは相容れぬ存在。忠義の男であるカイエンや、破壊の化身たるネロとは違い、ジョロキアやキャロライナに従わねばという根本的な意識が薄い。
加えて、召使いの振りをして観察する中で、アナハイムは気付いた。彼女の性質は、完全な邪悪ではないことに。死ねばいいなどと辛辣な言葉を振り回し、スイートパラディンに辛く当たりながらも、セブンポットはその実彼女らのことをとても気にしている。スイートパラディンであった過去を恥じるような物言いをしながら、聖騎士として戦ったことを誇りに思っている。
セブンポットは、ファクトリーにまだ愛着があるはずである。ファクトリーからの余りにも冷たい扱いに拗ねているだけで、本心から世界が滅んでほしいと思っているわけではあるまい。それがアナハイムの見立てであった。
アナハイムは、不器用なりにセブンポットに繰り返し働きかけた。資料室の存在を示し、資料を漁るきっかけを作った。キャロライナから密かに奪ったモルガンの形見を、セブンポットに横流した。セブンポットは、キャロライナが隠し事をしていることに気付いただろう。そして今、段階は後戻りできぬ場所まで来ている。セブンポットに暗殺の意志を伝え、巻き込んでしまった。ここまで来たならば、成功させるより他に無し。
キャロライナは、セブンポットを可愛がっている。愛するモルガンの代わりの慰み者ができて嬉しいのであろう。それが自身の暗殺に加担するとは、まだ考えていないはず。セブンポットの心をこちらに傾かせ、彼女も計画に加え、間違いなくキャロライナの首を掻き切る。急がねば。偽りの妃、キャロライナを殺し、ジョロキアに王の資格を取り戻させねば。キャロライナが全てを手遅れにする前に。
「……あるのです。希望は」
「お前がそう言ってくれるだけで……我輩は、あぁ。嬉しい」
ジョロキアはまだ信じていない。希望の存在を。アナハイムがもう一度勇気を奮い立たせ、方向性を違わぬように最後の努力を続けていることを。スイートパラディンが、甘寧が、有子がそれを教えてくれた。状況は変えられることを。絶望的な状況も、あるいは一息でひっくり返るということを。
「あなた様。わたしに全てお任せくださいませ」
アナハイムは、ジョロキアの傷まみれの頬に一度口づけをすると、ベッドから立ち上がって服を着始めた。ジョロキアの目の前で、アナハイムが妃から召使いに戻ってゆく。
「アナハイム。くれぐれも……我輩を独りにするような真似は」
「存じております。ジョロキア様」
ベッドの上のジョロキアに背中を見送られながら、アナハイムは雑事をこなしに下界へ戻ってゆく。
宙に浮かぶように存在するエレベーターの扉が、ベルの音と共に開き……アナハイムを呑み込むと、閉じた。まるで、ふたりを別つように。
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