ネロ・パニック!パンケーキの新しい力!![Side:H]
……その日の空は、鬱陶しいほどに青かった。
「ねぇねぇ、仁菜ちゃん。ミニトマトいつ食べれるかなぁ?」
「気が早すぎですよ甘寧は……一昨日苗植えたばっかりですよ。これからやっと花が咲くとこですよ」
この日、珍しく目覚まし前に起きた甘寧は、余裕をもって朝の支度を済ませ、いつものように姿見の前で一回転し、ニコッと笑ってから登校した。遅刻ギリギリが嫌いな仁菜は、いつも一本早い電車で学校に向かっている。故に、下校はともかく登校を共にできる確率は、四分の一以下といったところだろう。
「なんで植物に関してはせっかちなのに朝の支度はゆっくりですかね甘寧は」
「それとこれとは別だよぉ……『毎朝時間通りに起きれたらアチャラナータのパンケーキプレゼント』ってシステム導入すべきじゃない? そしたら絶対起きるよ」
「うわ、太りそうですよ……ってかそれ誰がお金払うですか」
「夢が無いなぁー」
ぶぅと唇を尖らせながら、甘寧が抗議する。
「やっぱり一家にひとり蒔絵さんが必要だよ。おばあちゃんはパンケーキとか焼いてくれないし、作ってくれるのなんか茶色っぽいお料理ばっかりだし……」
「自分で作るですよパンケーキくらい、ホットケーキとどう違うですか」
「私が作ってもあんなふっくらしないもん。はぁーあ。お父さん、料理上手なお母さんと再婚しないかなぁ」
「……甘寧、笑うトコですかそれ」
今更言って直せるものではないのは充分承知だが、甘寧の冗談は時々あまりにも周囲をドキリとさせる。聖マリベル学院小学校で初めて出会ってから、仁菜はこの手の発言に最も近くでヒヤヒヤさせられてきた。同情を買おうとか周りを困らせようとか、そのような意図は甘寧に一切無い。純粋に思ったことがそのまま口から出ているだけ。それは分かっている。が、それが余計に困る点でもあった。何故なら、甘寧は何も悪いことをしていないのだから。
「……それよりですよ、ミニトマトですよ」
このような場合、仁菜は甘寧が勝手に話題を変えるのを待つか、あるいは自分で別の話を切り出すかで乗り切っていた。今回は後者ということになる。
「今はいいとして、これからちょっとずつ忙しくなるですよ。支柱も立ててあげないといけないですし、余計な葉っぱを落としたり、肥料をやったり。水はあんまりあげなくていいですけど、やることは色々あるですよ」
「大丈夫大丈夫、何でも博士の仁菜ちゃんがいるもん」
「まーた甘寧は何でも私に頼るですよ。自分でもミニトマトのことをもっと調べるですよ」
そうは言いながらも、仁菜はさほど嫌な顔はしていなかった。
「大迫博士、これからもご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
「まあ、よろしいですよ。ビシバシしごいていくですから、覚悟するですよ」
そんな冗談で笑い合うふたりの行方を、『工事中』の看板が阻んだ。
「ああ、っと、迂回しないとですよ」
そこは、最初のプリッキーが踏み荒らし、叩き割った道路。朝から作業着の男達が何人も集まり、復旧作業を一生懸命続けている。
「道路の工事って時間かかるんだね」
「まあ、道路だけじゃないですよ」
見れば、周囲の家屋も復旧の、あるいは取り壊しの工事が進んでいる。いずれもプリッキーが暴れまわった末、破壊したものである。そこにはひとりひとりの生活があり、命ある限りそれはこれからも続いていく。
「きっと困ってるよね、住んでた人達」
工事の様子を見る甘寧の視線が、ぼうっと遠くなったのに、仁菜は気付いた。
「……甘寧。こればっかりは一刻も早く元通りになるよう祈るしかないですよ」
「……だけど」
「甘寧が優しいのは知ってるですよ。困った人を見たら放っておけないのも」
例えば、迷子のお婆さんがいれば、道案内をしてやるように。泣いている子供がいれば、何があったのか訊ねてやるように。万引きをしてしまった先輩がいれば、何故そんなことをするのか声を掛けずにはいられないように。たとえプリッキーを飯の種にしに来たジャーナリストだったとしても、力になろうとせずにはにはいられないように。甘寧はいつもそうしてきた。仁菜はよく知っている。その様子を、常に隣で見てきたのだから。
「でも、変身解いたら私達単なる女子中学生ですから」
「……うん」
「私達は工事の仕事は全然分かんないですし、お医者さんでもないですし、心のケアの専門家でもないですし、全員にお見舞金を出せるほどお金持ちでもないですし」
「……そうだけど。しんどいよ、困ってる人がいるのに、何にもできないの」
仁菜はフゥームと唸り声を上げ、そして甘寧の頬をもちりと両手で押し潰した。
「ぶぅ」
「忘れてるですよ、甘寧。何だかんだ、変身してプリッキーをブッ倒せるのは私達だけですよ」
「……ぷぁ」
「お父様もおっしゃってたですよ。私達にしかできないことで、後は大人が何とかするって。要は役割分担ですよ」
「……みゃくまり、ぶーたん」
頬をもちもちといじられながら、甘寧が不明瞭な発音で仁菜の言葉を反芻する。
「少なくとも、プリッキー退治は私達にしかできないですから。何にもできないってことはないですよ」
甘寧の頬から手を離し、仁菜は腕を組みウンと頷いた。
「まあ、なるべく気を付けるくらいはできるかもですね……一秒でも早く駆けつけて、被害の拡大を防ぐとか。家とかを壊しそうだったら攻撃を逸らさせるとか。今度からはもっと真剣にその辺考えた方がいいかもですよ」
「……そっか。それなら私達もできるかも」
「ですよ。後で一緒に被害拡散防止プランを考えるですよ」
甘寧にほのかな笑顔が戻ったのを確認し、仁菜はホッと胸を撫で下ろした。
……実際、今の台詞は本心から言ったものではない。ほとんど思い付きである。仁菜とて、起きたこと全てを見ないふりできるほど強くもなければ、何もかもを助けられる全能も持ち合わせてはいない。自分の無力について、考え始めればいくらでも思考の泥沼に陥ることだろう。そして甘寧は、明らかに放っておくとその底なし沼にズブズブ沈んでしまうタイプである。そんな甘寧が必要以上に悩み過ぎないよう軌道修正するのも、仁菜は自分の役目だと考えていた。
「……さ、とりあえずは学校に――」
「だ、だめだリー。ふたりに聞こえちゃうリー」
その時である。仁菜のカバンの中から、女の裏声めいた甲高い声が小さく聞こえたのは。
「大丈夫だッチ、甘寧も仁菜もなんだか難しい話してるッチ。チョイスがカバンに入ったのも気付いてないッチ」
続いて聞こえたのは、男の裏声めいた声。これも仁菜のカバンから聞こえる。
「ああ、いけないリー、こんな朝から、こんなところでっ」
「そんなこと言って、マリーのマリーもマリィマリィになってるッチ」
「は、恥ずかしいこと言わないでリー」
「本当はチョイスのチョイスをチョイスしたいッチ? 正直に言えたら――」
「ごるぁ!?」
仁菜は迅雷の如き速度でカバンを開き! 教科書の上に横たわるマリーと、それに覆い被さるチョイスをむんずと掴み! 思い切り歩道へと叩き付けた! ポヨンポヨンと地面近くで何度か跳ね、二匹は無傷!
「ちょちょ、何するッチ!?」
「びっくりしたリー」
「何するはこっちの台詞ですよこの淫獣共! 人のカバンをホテルにするなですよ! アナタ達の頭にはそれしかないですか! その節操無さにこっちがびっくりしたですよ!」
「なんだ、聞こえてたッチか」
「だから言ったリー」
「でもマリーだってノリノリだったッチ、チョイスは悪くないッチ」
「どっちも悪いに決まってるですよドアホウ!」
チョイスとマリーを掴み上げ、尋常ならざる勢いで怒鳴りつける仁菜!
「大体アナタ達は!」
「に、仁菜ちゃん! すごい見られてるよ!」
朝から人形を虐待し怒鳴りつける風変わりな少女に、通行人や工事の人間の視線が集まっていた。仁菜は下唇を血が出るほどギリギリと噛みしめ、潰れるのではないかというほど二匹を握りしめつつ、ずんずんと裏道へ入って行った。
「あ、待って仁菜ちゃん!」
「うぐぐぐ、ごめん、ごめんだッチ」
「苦しいリー、やめるリー」
「に、二匹とも放課後覚えてるですよ……!」
ショトー・トードからやって来た二匹の妖精達は、別々のカバンに再度厳重に詰め込まれ、そして学校に着くまで決して出してはもらえなかった。
……そして、その時は来た。
「うわー! これ絶対美味いやつですやん!」
「甘寧、それ誰のモノマネですか」
それは、昼休みのチャイムが鳴ってから五分後。甘寧と仁菜はマリベル・カフェ――つまり食堂にいた。休み時間にあらかじめ食券を買っておいたふたりは、日替わりランチ『A定食』に無事ありついていた。ご飯に汁物、メインの品が一品に副菜が二品。品数の多さに対して値段はワンコイン。加えて毎週金曜日、つまり今日の主菜は、生徒に大人気の一品『鶏唐揚げの甘酢ソース』ときている。食券は毎回争奪戦となることで評判であるが、今日は運良く購入することができた。
「こんなあっさり買えるなんて思わなかったねー」
「タイミングが良かったですかね」
「もう今月の運使い切っちゃったかもねー」
「えぇ……たかだかご飯でそれは嫌過ぎですよ……」
左手で持った箸で甘寧は唐揚げをつまみ、それを持ち上げた。からっと揚げられた大きな唐揚げに煌めくソースが絡み付き、食欲を激しく刺激する魅惑的な香りを漂わせる。
「それでは、いただきまーす」
口に入れた途端、口の中に鶏肉の脂がじゅわりと広がる。
「あちっ、あふ、あふ」
表面のサクサクした食感と、ソースで柔らかくなった部分が絡み合い、食感に変化が生まれている。胡椒のよく効いた唐揚げは、しかし甘く酸っぱいソースによって脂がしつこすぎず、さらりと食べやすい味わいになっている。そこに更なる香りを加えるのは、甘酢ソースに大量に混ぜられた万能ねぎ。小さく刻まれたそれが薬味として機能し、この味を完成させるための最後のピースを埋めていた。口の中で噛むほどに多幸感が広がり、病みつきになりそうなこの味わい。ホカホカの米をかき込まずにはいられない。これを毎週金曜日に食べられるとは。
「なんでまだ来てないの、ミシュランの人……!」
「いや美味しいですけど。どういうリアクションですかそれは」
独特過ぎる語彙でその美味を表現した甘寧を、仁菜は同じく唐揚げを食べながら呆れ顔で眺めていた。
「久々に食べたけどやっぱ最高だねー」
「普通に毎日出してほしいですよね」
「あ、でも月曜日のチーズハンバーグも捨てがたいしなぁ」
「たまに出るから有り難いって側面もあるですよね実際」
米と唐揚げを無限ループしながら、ふたりは舌が目覚めるようなこの味について語り合った。
「ねぇ、仁菜ちゃんはさ、もし人生最後のご飯ならどっちが食べたい? 唐揚げとチーズハンバーグ」
「えぇ、急になかなか難しい問題をブッ込んでくるですね……唐揚げか? チーハンか? むむむ」
ふたりは腕組みをし、静かに考え始めた。
「……この唐揚げは確かに美味いですよ」
「だよねぇ」
「しかし月曜日のチーハン。あの豪快で濃厚な味わい。アレも捨てがたいですよ」
「わかるぅ」
「むむむ……これ厄介な問題ですよ。多分学内でアンケート取っても割れると思うですよ」
「うーん……迷っちゃうねぇ」
ふたりはそのまま五秒ほど唸り続けた。
「じゃあ、せーのでどっちか言おうよ」
やがてそう提案したのは、甘寧である。
「え、マジですか。今決めるですか」
「私も五秒で決めるから、ね」
「うおー、こりゃえらいこっちゃですよ」
「行くよ」
「あ、ちょちょちょ」
「いち……にぃ……」
「うわ、もう始まってるですよ! えー、えーっと……」
仁菜は思わず頭を抱え、このあまりにも大きな問いと向き合い始める。
「さん……しぃ……」
「だあぁ、一体どうすれば……」
「四と二分の一……四と四分の三……」
「めっちゃ悩んでるじゃないですか甘寧も」
結局甘寧は『四と十分の九』まで数え、そして目をカッと見開いた。
「よし私決めた」
「あーとうとう来たですか。分かったですよ、私も覚悟決めるですよ。何てったって最後の晩餐ですから」
「お昼だけどね……そういえば晩餐の昼バージョンって何て言うの?」
「……昼餐? いや、分かんないですよ、今度調べとくですよ」
「仁菜ちゃん決めた?」
「……よっしゃあ、決めたですよ」
一瞬の緊張。
「せーので言うよ」
「分かったですよ」
ふたりはお互いの目をじっと見つめ合いながら、小さく息を吸う。やがて甘寧が合図を出した。
「……行くよ?」
「「せーのっ――」」
ふたりの最初の一文字が脳から喉に伝わり、それが声として吐き出されようとした……まさにその瞬間であった。死と破滅の予告めいた、ドゴォンという爆発音が外から響いたのは。直後に届くのは爆風。カフェの窓がガタガタと揺れる。途端にカフェ内は騒然となった。
「……これって」
「近いですよ」
ふたりは食事を残したまま立ち上がると、カフェを飛び出した! 廊下を駆け抜け、上履きのまま屋外へ出る! 案の定、空は血でも降りそうな赤色に染まっていた! そして、嗚呼、爆発の中心たるグラウンドにそびえ立つ、黒き影の巨人は!
『プリッ……キイイイィィィィイィーッ!』
校舎と同じほどの大きさを持つ、プリッキー! 影でできた竹箒を天に向かって掲げ、雄叫びを上げている!
「「プリッキー!」」
「何でここに!?」
「まあ駅前に出たくらいですからここに出るのも変じゃないですけど!」
ふたりは一瞬この状況に困惑したが、それどころではない! 爆風に巻き込まれたと思しき、グラウンドに転がる多数の男子生徒達! 怪我をしている者もいるように見える! このままでは彼らの身に何が起こるか分からない! 目の前にプリッキーがいるならば、自分達が果たすべき役割はただひとつ!
「変身しよう!」
「あったりまえですよ! ……って、あれ?」
手を繋ぐのに丁度良い場所を探そうとした甘寧と仁菜は、ここで気付いた。
「「……ブリックスメーター!」」
そう! 変身アイテム、ムーンライト・ブリックスメーターを、ふたりは持っていなかったのである!
「あ、え、きょ、教室!?」
「カバンの中ですよ、だあぁ、一旦教室経由して来ればよかったですよ! まさかこのタイミングでここに来るとは……あーもう、こんな時にあの淫獣共は何やってるですか!」
「と、とにかく一旦教室に……」
『ウオォッ! コノッ、カネモチノガキガァーッ!』
ふたりが動き出そうとしたその矢先! プリッキーが、その竹箒で……グラウンドを掃く! たちまちのうちに大風が起き、再び吹き飛ばされる男子達! いや、そればかりではない! 掃き飛ばされた物体は、何も人間だけではなかった! 砂利、木の枝、尖ったものが様々! 倒れて抵抗できぬ子供達に雨あられと降り注ぐ! 各所で上がる悲鳴!
『コンナッ、ヤツラノ! ウオォッ、ウォレノ、ジンセエェーッ』
「ちょ、これヤバいですよ!」
仁菜の言う通りである! これまで七体ものプリッキーを相手にしてきたが、公庄タマミのプリッキーに代表されるように、攻撃が広範囲に及ぶこのタイプが一番厄介であった!
「は、早く取りに戻らないと」
「ですよ、すぐ――」
「甘寧ぇー!」
「仁菜ぁー!」
その時、上空から声! 空中を飛びながらやって来たのは、チョイスとマリー!
「プリッキーが現れたッチー!」
「今すぐ変身だリー!」
「見れば分かるってぇ!」
「さっさとブリックスメーターを渡すですよ!」
ふたりは同時に手をバッと差し出し、二匹の妖精にブリックスメーターを渡すよう促す! が!
「えっ、持ってないッチか」
「そっちが持ってるだろうと思ってたリー」
「「……えぇ!?」」
そう、何ということか! 目の前の妖精二匹は、その身ひとつでこの場に現れている! ブリックスメーターを持って来ている者は、この場に誰一人いなかったのである!
「いやそこはアナタ達が持ってこいですよ!」
「いやいやチョイスは悪くないッチ、フツー自分で持っとくものだッチ」
「聖騎士としての自覚が足りないリー」
「アナタ達こそイチャこくか食うか寝るかしかしないんだからそれくらいサービスしろですよ! どうせ今までだってどっかで盛ってたに決まってるですよ!」
「まあそれはそうッチけど、そもそも――」
「もう、いいから早く取って来てよ! みんなが危ないの! ふたりが飛んで行った方が早いでしょ!」
妖精と仁菜の論争を止めたのは、意外にも甘寧の怒鳴り声だった。彼女がこうまで声を荒げるのは滅多に無い。それこそ、タマミを説得しようとした時くらいではないだろうか。
「……ハァ、まったく世話が焼けるッチ」
「急いで行ってくるから、次からは気を付けるリーよ」
しぶしぶといった様子で、二匹は開いた窓からするりと校舎へ入っていく。廊下は既にパニック状態となっており、妖精二匹など視界に入っていないようであった。
「……ぬあぁ何ですかあの態度!」
全く悪びれる様子の無い二匹に、仁菜は地団駄を踏んで怒りを露わにした。
「そりゃ私達に非が無いじゃないですけど! 何もしないくせに態度ばっかりデカいんですからあの淫獣共! ねぇ甘寧、どう思うですかあの――」
憤りを隠せない仁菜は同意を得ようと甘寧を振り向き、そして見た。俯き加減でブツブツと何かを呟き続ける彼女の姿を。
「……甘寧?」
「何とかしなきゃ、早く、早く何とか。しないと」
「甘寧、どうしたですか」
『プリッキィイィイーィッ!』
逃げようとする少年達に追い討ちをかけるように、二度目の掃き掃除! つむじ風が巻き上がり、少年達が大きく飛翔! そのまま地面に叩き付けられる! 死ぬほどの高さではないが、それでも立てなくするには充分過ぎるほどのダメージである!
「……だめ。だめ。早くしないと。何とか。できるのに。どうしよう、私じゃなきゃできないのに」
甘寧は震え始めていた。このような状態の甘寧を、仁菜は見たことが無い……いや、ある。つい最近。初めてスイートパラディンになった、あの屋上。ここまで酷くはなかったが、甘寧はあの時も呟いていた。何とかしなきゃ、と。
「甘寧、落ち着くですよ」
「だめ。どうしよう。助けなきゃ。何とか。お母さん。私が、私じゃなきゃ」
「甘寧、甘寧――」
仁菜が甘寧の肩を揺さぶった、その時である!
「ウッガアァアアァァアァアァァァァアーッ!」
プリッキーの鳴き声にも勝るとも劣らぬ咆哮が、辺りに轟いた! 甘寧はびくりとして顔を上げ、音の方向を向いた! 仁菜も音源を探し、そして気付いた。目の前にいる影の巨人、その肩に! 人間のようなものが乗っていることに!
「スイートッ、パラディーンッ! 出てこぉーいッ!」
それは上半身裸の、いやに筋肉質な坊主頭の男であった。
「……ひ、人?」
我に返ったらしい甘寧は、確認するように言った。
「いや、確かに人ですけど……おかしいですよ。プリッキーがデカ過ぎて気付かなかったですけど。アレの肩に乗ってあのサイズって明らかにデカすぎるですよ」
その通りであった! プリッキー程ではないが、彼はどう考えても巨躯が過ぎる! 仁菜が目測したところでも、三メートルはあるように見えた!
「大体フツーの人があんなトコいるわけないですよ」
「それに今、私達を呼んで……」
「スイートパラディーンッ! いるのかァーッ!」
大気をビリビリと揺らし、男が再びふたりを呼ぶ!
「オレ! お前ら! 会いに来たァーッ! 出てこォい! 出たら壊すゥ! 出なかったら、いっぱい壊すゥ!」
「な、何なんですかあの人……」
理解できぬ状況に、ふたりは思わず後ずさる! その時であった、二匹の妖精が、ムーンライト・ブリックスメーターをにまたがって飛行しながら戻ってきたのは!
「おーい、持ってきたッチー」
「さあ、急いで変身だ……リィッ!?」
先に異変に気付いたのはマリーだった! プリッキーに乗る彼を視界に入れた瞬間、驚愕の表情のまま凍りついている!
「えっ、どうしたッチ……あぁっ、あれは!」
「な、何なの!?」
「奴を知ってるですか!?」
同じく悲鳴めいた声を上げたチョイスに、ふたりは訊ねる!
「……スコヴィランの戦士だッチ」
「「!」」
スコヴィランの戦士……つまり、プリッキーを作る存在。二十三年前に東堂町を襲った、テロ組織の構成員。今や教科書にすらその存在が載っている、人類の敵。二十三年前に死んだとも、日本のどこかに潜伏しているとも噂されたが、結局誰にもその行方は分からなかった、人ならざる力を持つ怪人達。そのひとりが……今目の前にいる、あの男だというのか?
「あれが……」
「とうとう直接お出ましですか。まぁいつか出るとは思ってたですよ」
「スイイィトパラディイィン! いないのかァ!? いるのかァ!? ウガーッ、分からん!」
スコヴィランの戦士は、苛立たしげにスイートパラディンを呼ぶ。それに呼応するように、竹箒のプリッキーもその場で地団駄を踏んだ。ズシンズシンと地響きがし、辺りの大地が揺れる。
「うわっ……早く変身しよ、あの人達止めなきゃ!」
「応ですよ!」
本来なら恐ろしいであろう存在。ふたりはしかし、その程度で今更震えることはしない! 何故なら彼女らには、他の誰にも無い戦う力があるのだから! 七体ものプリッキーを倒し、町の平和を守ってきた、聖騎士の力が! ふたりは妖精からブリックスメーターを受け取ると……強く手を繋ぎ、指を絡める! そして叫んだ! マジックワードを!
「「メイクアップ! スイートパラディン!」」
瞬間、ふたりを中心に光のドームが発生! ふたりを包み込んでゆく! ドームの中で手を繋いだまま、ふたりは一糸纏わぬ姿になっていく! ふたりは空中をくるくると回転しながら、体に聖騎士としての衣装を纏い始める! 鏡のように輝く手甲が右腕に、左腕に! 続いて鉄靴が右脚に、左脚に! 肩当てが右肩に、左肩に! 煌めく宝石付きの大きなリボンが胸に! 髪型がぞわぞわと変わり、甘寧はボリューム感の非常にたっぷりあるポニーテールに! 仁菜の髪も大きく伸び、両サイドで三つ編みに編まれた上に、円を描くよう超自然的に固定された!
そこでふたりは赤子のように身を縮め……勢い良く大きく開く! 体を覆っていた光のヴェールが弾け飛び、そこに現れるはフリルの付いたエプロンドレス! 短めのスカートの下にはスパッツ! 甘寧はピンク、仁菜は黄色! そのまま地面へ向けて落下したふたりは、大きく膝を曲げ、ズンと音を立てて着地した!
「膨らむ甘さは新たな幸せ! スイートパンケーキ!」
先程まで甘寧だった聖騎士は、可愛くキメポーズ!
「頬張る甘さは悩みも蒸発! スイートクッキー!」
同じく先程まで仁菜だった聖騎士は、知的さにどこか幼さを残したキメポーズ! そしてふたりは高らかに声を揃え、合体決めポーズと共に己が何者か宣言する!
「「メイク・ユア・ハッピー! スイートパラディン!」」
弾ける光と共に、女王ムーンライトが聖騎士、スイートパラディンが! 今再びその姿を現したのである!
「ウガッ!? いた! スイートパラディン! 出てきたぁ!」
変身時の発光は当然スコヴィランの戦士にも届いていた! 肩の上からこちらを指差し、男は叫ぶ!
「そこにいたぁ! いないと思ったら、そこから出てきたぁ! ウガァ!」
「スコヴィランの戦士!」
「アナタ達ですね! プリッキーを作っているのは!」
スイートパラディン達も怯むことなく、荒ぶる戦士をビシリと指差す!
「みんなが困ってるでしょ! 悪いことはやめなさい!」
「じゃなきゃやっつけちゃうですよ!」
「ウガァーッ!」
これを挑発と受け止めたか! 戦士は興奮し、己の胸筋を激しくドラミングしてみせた!
「スイートパラディン! 邪魔! ジョロキア様と、キャロライナの、邪魔! 壊す! 行け、プリッキー!」
『オマエラヲ! オオソウジーッ!』
戦士の号令で、プリッキーは再び箒を構える!
「どうしよう、みんなも助けなきゃ」
「ムムッ!」
クッキーはグラウンドを見渡し、改めて状況を確認した。自分達を探して叫んでいる間に、無傷または軽傷の生徒達は逃げ出しているようだ。動けないほどの怪我を負った生徒が、しかしまだ取り残されている。数にして七、八人といったところか。
「いけるですかね」
「何とかなるよッ!」
「ですねッ!」
決めるが早いか、ふたりは同時に色の筋となって走り出す! 箒が振り下ろされるよりも早く、パンケーキは近場にいた二人、クッキーは三人の怪我人を同時に抱え、後方に向けてジャンプ! 校舎の側に寝かせた! これで残りはたった三人!
『カネモチモ! シンダラ! ゼロエンジャーイ!』
あの女型プリッキーを思わせる風! 吹かれて再び舞い上がる怪我人達! ここで早まって跳躍すれば、ただ飛ばされるのみ! このような場合、敢えて最初は動かず……風の勢いが弱まった瞬間にスタート! 重力に従い落下し始めている彼らを、落下直前で受け止めるのが確実! 空から落ちてくる男子を、パンケーキがキャッチ! クッキーがキャッチ!
「あっ、あとひとり!」
「ぬぅーン!」
クッキーはめり込むほどに地を蹴り、落ちてくる生徒を……もう一度キャッチ!
「クッキーすごい! 力持ち!」
「フフン。舐めたらアカンですよ」
ふたりは再び校舎側へ戻ると、彼らを地面に寝かせる。
「すぐやっつけますからね」
「心配すんなですよ」
怪我人達に声を掛け、改めてプリッキーに向き直る。彼女らの行為に大いに不満があったか、戦士は牙をむき出して歯ぎしりしている。
「やっぱり! オマエら邪魔する! やれ! プリッキー!」
猛獣使いの野生児めいて戦士が叫ぶと、プリッキーはズンズンとこちらに向けて進撃を開始した!
「壊すゥ! オレ、壊すゥ!」
『ボンボン、コロスゥ!』
「ウガーァ!」
『プリッキーィ!』
明らかに狙いはスイートパラディン……いや、校舎か! 押し合いへし合いの大騒ぎをする生徒達と、それを何とか落ち着けようとする教師陣が、校舎の中にはまだ沢山残っている!
「クッキー! 最小限にしようね!」
「勿論ですよ! 校舎を守って、工事の人は呼ばせないですよ!」
朝の約束を思い出しながら、ふたりは巨大なプリッキーへと向かってゆく! プリッキーはゆっくりと前進しながらも、箒をもう一度構える! またしても嵐を起こすつもりか! 暴風に備えるふたり! だが!
『ウオォォウッ、ザッソウ! ザッソウガァー!』
プリッキーが取ったのは、思いもよらぬ行動だった! 雄叫びと共に箒を逆向きに構えたプリッキーは、なんとその柄の先から……暗黒の炎を噴射したのである!
「ぎゃっ!?」
「ちょちょちょ!?」
『ザッソウ、モエロォー!』
ふたりは、あっという間に炎に包まれる!
「あつあつあつあつあつッ!」
「あちゃちゃちゃちゃちゃちゃ!」
無論、聖なる魔導エネルギーの加護があるふたりは、炎に包まれたというだけで直ちに焼死することはない! 炎には持続力も無く、消えるのはすぐ! それでも何も感じないはずはなく、また長時間浴びれば流石に無事では済まない! たまらず炎の中から飛び上がり、最悪の事態を回避するスイートパラディン! そこに襲い来たのが……竹箒を投げ捨てたプリッキーの、蚊を潰すような無慈悲なる両掌であった!
「きゃあ!?」
「お、追いこまれてたですか!?」
空中では方向転換もできない! 最も無防備なこの時間を、巨人の手が見逃すはずもなかった!
「つぶれろぉーッ!」
『プリッキーィッ!』
巨人の両手はパァンと大きな音を立て、そこには潰れた害虫二匹が残る……かに思われた!
「ウガッ!?」
嗚呼、プリッキーの合わせられたふたつの掌が、段々と開かれてゆく! 両手両足をピンと伸ばして踏ん張ったふたりが、自身を突っ張り棒として潰されまいと抗っているのである!
「ウガァ! オマエ、力持ち!」
必死の抵抗を眺めながら、全く慌てる様子も無しに、戦士は賞賛の言葉を送ってみせた。
「でも、オレのプリッキー、もっと力持ち!」
『プリッ……キィイィーッ……!』
影の巨人の筋肉が盛り上がり、血管らしきものが浮かび上がる! 押し潰そうとする力がにわかに強まった! スイートパラディンの筋力は確かに魔導強化されているが、それにも限度というものがある!
「どおぉおぉッ……こ、これは、絶体絶命ですよ……!」
「ぐうぅ……なん、何とか、何とかぁ……!」
嗚呼、徐々にスイートパラディンが押されてゆく! このままふたりは、プリッキーの手の中で圧死の最期を迎えるというのか!
「……クッキー!」
いや、声を上げたのはパンケーキ! 彼女はなんと、ただでさえ力の足りないこのタイミングで、右腕を離し! それを隣のクッキーへと差し出した!
「えっ……え、まさか! ここで!?」
「急いで! 何とかしなきゃ!」
「だあぁもう、やるですよ! どうにでもなれですよ!」
腕の力が一本分無くなったことで、ふたりを押し潰す力はますます優勢になっている! パンケーキの咄嗟の思い付きに、最早クッキーも乗るしかなかった! パンケーキの右手を、クッキーは! その左手で取り! 指をしっかりと絡めたのだ!
「ウガッ!?」
予想もしなかった行動に、戦士は若干の困惑を見せる! ふたりは手を通し、大急ぎで魔導エネルギーを循環させ……叫んだ!
「「スイート・ムーンライトパフェ・ミニ!」」
ドゥン! それはほんの一瞬の煌めきであった! ふたりの手から出たピンクと黄色のエネルギー波が、プリッキーの掌をゴウと焼き、貫いたのである!
『プリッキィッ!?』
思わず力を緩めるプリッキー! スイートパラディンはその隙を決して逃しはしない! ふたりはひらりとプリッキーの腕に乗り、そしてそれを踏み台に跳ぶ! 音のような速さで繰り出されるは……全身全霊の力を込めた聖なる飛び蹴りである!
「「ムーンライト……飛び蹴りィッ!」」
ネーミングセンスは皆無! しかしその威力は絶大!
『ブィッイアァアァ!? ヴォエ!?』
「ウガアーァッ!?」
プリッキーは悶絶しながら仰向けに倒れた! 肩の上に乗っていた戦士は、同時にバランスを崩して地面に落下! ふたりはバク転し、見事着地!
「やったッチ! 今だッチ!」
「スコヴィランもろともやっつけるリー!」
「アナタ達ホントにこういうタイミングにならないと出てこないですよね……」
苦言を呈しつつも、クッキーは、そしてパンケーキは倒すべき相手をしっかりと見据える。相手はまだ起き上がれていない。とどめの一撃を加える、これが最大のチャンス! ふたりは固く指を絡ませ、手を繋ぐ! 目を閉じて手に意識を集中すると、パンケーキがクッキーに、クッキーがパンケーキに、魔導エネルギーを流し込んでゆく!
「ふぁあ」
「ふぅうッ」
魔導が循環し、どこまでも高まる! パンケーキとクッキーの境界が曖昧になり、背後に強大なエネルギーを感じ始める! 自分達に力を与える大いなるものと、今ふたりは繋がった! 解き放たなければ! このエネルギーを!
「「はあぁッ!」」
ふたりは同時に目を開き、空いた片手を強く握りしめた! パンケーキの左腕にはピンク色のオーラが! クッキーの右腕には黄色のオーラがほとばしる! 大いなる力が、ふたりの背中をぐいと押した! 今だ! 一瞬のずれもなく、ふたりは叫んだ!
「「スイート・ムーンライトパフェ・デラーックスッ!」」
瞬間! 大きく突き出されたパンケーキの左腕からは、ピンク色の光の波が! クッキーの右腕からは、黄色の光の波が! ふたつは螺旋を描いてまざり合い! プリッキーへ、そして地面に転がるスコヴィランの戦士へと真っ直ぐに飛んでゆく!
「「はあぁーッ!」」
スイート・ムーンライトパフェ・デラックスはプリッキーを直撃! プリッキーの巨体が、そして戦士が光に包まれる!
『ブルジョアァアァーッ!』
「ウガアーッ!」
やがてその姿はぐんぐんと小さくなり……人間大まで縮むと、そこにはつなぎの中年男性用務員が残された。同時に空の不自然な赤も霧散し、そこには元の青い空が戻ったのであった。ふたりはハイタッチすると、早速用務員の元へ駆け寄る……はずであった。
直後、ふたりは見た。筋肉隆々としたスキンヘッドの戦士が、当たり前のようにその場で仁王立ちしているのを。
「……えっ!?」
「効いてない、ですか!?」
「「ひぃっ!」」
「ウガァ……オマエら、プリッキーより、強い。でも、オレ、プリッキーより……たくさん強い」
彼は牙を見せ、ニヤリと笑った。衣服が多少汚れてはいるが、八体ものプリッキーを倒してきたこの攻撃をまともに受け、あの程度のダメージとは。二匹の妖精が抱き合って怯える中、彼はジャリと音を立て、一歩足を踏み出す。足元で倒れていた用務員がハッと目を覚まし、腰を抜かし悲鳴を上げながら後ずさった。
「う、うわぁァ!?」
「おじさん、こ、こっちへ!」
「壊す……オマエらも、壊す……」
用務員の男は、緊張からか立てなくなっているようだった。戦士の放つただならぬ迫力、迂闊には動けぬ雰囲気。しかし用務員を放っておくわけにもいかない。ふたりが次の一手を模索し始めた、その時。
「……ネロ。そこまでたい」
別の男の声。同時に、黒い風がネロの両脇に形をとって着地する。ふたりから見て右側に、黒と赤のロングコートを着た眉毛の太い男。左側に、ゴシック&ロリータめいた服装の女。いずれも赤い瞳をしている。ネロと呼ばれた中央の男がそうであるのと同じように。
「キャロライナに言われたでしょ。直接戦闘はやめろって」
「また怒らるぅばい」
両脇から話しかけられ、ネロは左右を交互にきょろきょろと見た。
「ウガ……だ、ダメか」
「ジョロキア様の体調にも差し支えるんだからさ」
「今日はもう目的は果たしたけん。帰るばい」
「ウガ……うぅ」
ネロが明らかにしょんぼりしているのが、こちらから見ていても分かった。その間にパンケーキが用務員の男を立たせると、彼は大慌てで彼女の後ろに隠れた。
「あなた達が、スコヴィランですか」
パンケーキが静かに問うと、左端の女が威圧的な視線でふたりを睨みつけた。
「俺はカイエン。コイツはネロ。そっちの女がセブンポット。ジョロキア様のしもべ、スコヴィランの戦士とは俺達のことたい」
セブンポットと呼ばれたその女の代わりに、カイエンと名乗ったコートの男が全員分の自己紹介をした。
「お前らは名乗らんでん良か。スイートパンケーキと、スイートクッキー。そしてそこのが、ショトー・トードのチョイスとマリー……コソコソ隠れるだけが得意の腰抜け共。久し振りやね」
「な、何だとだッチ! 二十三年前チョイス達相手に手も足も出なかったくせに!」
チョイスの台詞に、セブンポットがフッと鼻で笑った。
「な、何だッチ! お前! 何がおかしいッチ!」
「――アナタ達」
息巻くチョイスを制し、スコヴィランの戦士達をキッと睨み返したのは、パンケーキであった。
「どうしてこんなことするんですか。人が、不幸になるようなことばっかり」
……誰も答えない。クッキーや妖精達、用務員の男も、口を挟もうとはしなかった。パンケーキは続ける。
「みんな困ってます。家を壊された人も、怪我した人も、プリッキーにされた人も……何のためにこんなことするんですか。辛いお菓子の為ですか」
「ハッ」
セブンポットは鼻で笑い、くるくると髪をいじった。そちらをちらりと見、カイエンが答えた。
「……今更お菓子はどうでも良か」
「そーそ。ファクトリーにただ乗りする乞食の泉はとっくに潰れたんだから」
「じゃあ、なんで」
便乗したセブンポットに、パンケーキが低い声で、しかし力強く問う。
「いっぱい傷付いてる人がいるんですよ。何とも思わないんですか」
「アンタさ――」
口を挟もうとしたセブンポットを、カイエンが制した。
「余計なことは言わんでよか」
「何仕切ってんの」
「悪かばってん、こちらもジョロキア様の命令たい」
まだ喋り足りない様子であるセブンポットに代わり、カイエンがパンケーキに返事をする。
「今のネロば見たろうが。お前らの攻撃は、俺らには通用せん。俺らが本気ば出したら、お前らは絶対勝てんごつなっとったい。今までは手加減してやっとったばってん、これ以上盾突くなら命の保証も無かばい。分かったら、スイートパラディンやら無駄なことはとっとと辞めんね」
「辞めません!」
パンケーキは、叫ぶように宣言した。
「こっちももっと強くなります! 強くなって、アナタ達をやっつけて、みんなを守ります! 絶対、絶対! 何とかします! 頑張ります! だって、私達にしかできないことだもん!」
「……パンケーキ」
隣で聞いていたクッキーは、ただそう名を呼ぶしかなかった。
「……救いようがないわ」
大きなため息をつき、セブンポットが言った。
「ホンット、救いようがない」
「……なら、もう知らん。次会う時は、命のやり取りたい……帰るばい」
カイエンはそう言って踵を返した。ばさりと音を立て、そのロングコートがはためいた。
「だから仕切るなって言ってんじゃん……まあいいけど。ネロ、帰ろ」
「うが……壊したかった」
「いいから。また今度ね」
セブンポットはネロの手を引き、連れて行こうとする。ネロはそれにしぶしぶ従い、カイエンに続く。カイエンは空間の狭間に消え、残るふたりもそれに続く……そのはずであった。嗚呼、何ということだろうか。今回はそれで終わりだった。そのはずであったのに。
「オイ、待てよ」
その声を上げたのは……用務員の男であった。今まさに帰ろうとしていたセブンポットとネロに向け、スイートパラディンを盾にしながら、男は言った。
「……は?」
「お前ら、俺のことはどうしてくれんだよ……」
男は、声を震わせながらセブンポットに問うた。
「何、アンタのことって」
「俺、俺は。この坊ちゃん嬢ちゃんばっかりの学校で。ガキなんか嫌いなのによ。やっすい給料で。それでも何とか働いてきたんだよ……」
「……だから?」
「それをお前よぉ、俺はこんな歳で、給料も安いのによぉ……よりによってクソッタレのプリッキーになんかしやがってよぉ。給料安いんだぞ……」
セブンポットは冷めた顔で、男の主張を聞いていた。ネロは頭にクエスチョンマークを浮かべ、ただ男を見ている。
「お、おじさん」
「給料安いけど他に働けるトコ無かったから! それなりに真面目にやって来たんだよ!」
パンケーキが制止するのも聞かず、男はほとんど泣き叫ぶような声で続けた。
「俺、絶対クビになっちまうよ! 損害賠償とか求められるかもしれねぇ! 給料安いのに! どう責任取ってくれんだよォ!」
「知るわけないでしょ、アンタの負け犬人生なんか。残飯食って死んだら?」
大の大人が出すとは思えない声で喚く用務員に、心底軽蔑するような表情でセブンポットは言い放った。
「ふっざけんじゃねぇよ!」
「おじさん、落ち着くですよ」
「これが落ち着いていられるか! クソみたいな俺の人生、これでもう完全に終わりじゃねぇか! 何とかしろ! 何とかしろッてんだよ聞いてんのか馬鹿野郎!」
……それは、些細な言葉の誤りに過ぎなかった。
「……今。なんて言った」
だが、そのたったひと言が、既に萎れていたはずのネロの目に、邪悪な炎を宿したのだ。
「……えっ、嘘、やめなって」
「もう一度、言え」
セブンポットの制止も聞かず、ネロはその体を再びスイートパラディン達に、そして用務員に向けた。何かスイッチを入れてしまった。パンケーキとクッキーにも、それがハッキリと分かった。男とて、普段ならばそのただならぬ雰囲気を理解できたはずである。だが、タイミングが最悪であった。彼は絶望の中でやぶれかぶれになっており、そのようなことを気にする余裕も無かったのだ。
「ちょ、ネロ、帰るよ!」
「おじさん、それ以上は――」
「あぁ!? 俺の人生滅茶苦茶にしといてなぁ! タダで帰る気かって言ったんだよ馬鹿が! ふざけやがって! どうしてくれんだよ、この筋肉ダルマのド低能――」
「馬鹿に! するなァーッ!」
そして、起きてはならないことが起きてしまった。ネロを時空の狭間に引き込もうとしたセブンポットは、ネロに突き飛ばされ、あろうことか自分だけがその中に呑み込まれてしまったのである。それは、ネロを止める者が誰もいなくなってしまったことを意味していた。
ほんの瞬きほどの間に、パンケーキとクッキーを押しのけ、ネロは男の頭を掴んでいた。恐らくは、何が起きたか理解する間も無かったであろう。力いっぱい地面に叩き付けられた男の頭は、原型を留めぬ形にぐしゃりと潰れていた。まるで熟れ過ぎたトマトのように。
「きゃあッ!?」
「ひっ!?」
突き飛ばされて尻餅をついたふたりがそれに気付いたのは、既に彼が絶命した後であった。
……普段のネロであれば、この男を殺した時点で多少冷静さを取り戻していた可能性もある。ただただ、タイミングが悪かった。彼は溜め込んでいたのだ、フラストレーションを。欲していたのだ。かつてのように何に遠慮もせず、全てを破壊するその機会を。人間の返り血を浴びたその時、彼の中で決定的なスイッチが入ってしまったのだ。
「臓腑も灼ける憎悪の辛みいィ! 噛みしめよォ!」
ふたりの目の前でネロの体が燃え上がり、そして、その姿が変わってゆく。頭には山羊を思わせる二本の角。ますます膨れ上がり、唐辛子のように真っ赤に染まった肉体。そして背負っているのは……巨大な透明の筒状物体。
「魔王ジョロキアがしもべェ! 魔界より舞い降りし破壊の化身ン! ネロ・レッドサビナぁッ!」
地を震わすような声で改めて名乗ったネロは、背中の筒状物体に取り付けられた蓋を開けた。そこに頭部の砕けた用務員を放り込むと、再び蓋を閉める。見れば、その筒状物体の底には、何枚もの鋭い刃がついていた……!
「あれって――」
「そ、そんなッ――!」
ギャギャギャギャギャギャギャギャギャ! けたたましい回転音! それと時を同じくして、筒の内側に満遍なく飛び散る赤い物体、そして細かくなった肉片! そう! ネロが背負っているのは! フードプロセッサーであった! 僅か数秒のうちに、用務員は完全にその原型を失ってゆく!
「ウガアーッハァーッ! ウハッ、ウハーァッ!」
ネロが高らかに上げるは、愉悦の笑い声! 同時に響くは、魔導エネルギーで回転する刃の唸り声! それは、人の血を吸った喜びに打ち震えているかのようであった!
……パンケーキは、クッキーは、スイートパラディンとして戦う中で、プリッキーを『恐怖』の対象として見たことはなかった。変身、及びそれによって上がった身体能力による高揚感、あるいは戦わねばという使命感。それらはふたりに、プリッキーを『倒すべき相手』と思わせることはあっても、恐れ、逃げ惑うべき存在と思わせることは無かったのだ。そんなふたりが、スコヴィランの戦士を前にして……今、確実に『恐怖』を味わっていた。あまりにも理不尽な、圧倒的暴力。厄災の名に違わぬ、不要なほどの残虐さ。
形を成した暴力が、今。ぎろりとふたりに顔を向けた。
「オマエらも、壊す……!」
次の瞬間! その巨体からは想像もできぬ機敏さで、ネロはパンケーキの眼前に迫っていた!
「ひっ――!」
「ウガガガガガガガガガガガガガガガガガガァーッ!」
その両拳による連撃! 連撃! 連撃! 地面がえぐれ、石が砂になるそのパンチを、パンケーキは正面からまともに受ける! 手甲を着けた両腕でガードしようとするも、そんなものは問題にならない! たちまちのうちに吹き飛び、グラウンドを転がるパンケーキ!
「きゃあぁあ!?」
「ぱ、パンケーキっ!」
我に返ったクッキーが、パンケーキを助けに飛び掛かる! が、ネロは両腕を横向きに突き出し、その場でコマめいて回転! 脇腹に直撃を受け、横向きに飛んでゆくクッキー!
「う゛っ!?」
「クッキー……っ!」
立ち上がったパンケーキが、ネロに向けて震える足で駆け出す! 聖なる魔導エネルギーを腕に集め、拳の一撃を放つのだ!
「ムーンライト・パーンチ――!」
が! その腕をネロは躊躇なく掴み! そして!
「ウガウガウガウガァーッ!」
「あ゛ぁぁあ゛あ゛ぁあ゛ぁあ゛!?」
なんと、その体をヌンチャクめいて高速で振り回し始めたのである! 失われる平衡感覚! 繰り返し地面にぶつけられる痛み! 上も下も分からぬまま振り回され、やがて地面へ叩き付けられるパンケーキ!
「お゛っ、お゛あえ゛ぇ」
血の混じった吐瀉物を、パンケーキはうつ伏せのままドボドボと吐き出した! 命こそあるものの、前後左右の感覚を完全に失調している!
「オマエ、ウハッ、オマエ……ウハハ。弱い。オレ、強い。ウハッ……」
その背後には、既にネロが立っていた。赤い瞳をギラギラと光らせて。背中のフードプロセッサーの蓋を、もう一度開きながら……!
「だから、オレ、オマエ……壊す!」
そのあまりに大きな手が、パンケーキへと伸びる! 視界がぐらぐらと定まらぬパンケーキは、これを避けるために立ち上がることすらできない!
「あ、あ、ああ」
邪悪な熱を帯びた手が。人の形をした死が。迫る。迫る。迫る。逃げ方が分からぬパンケーキは、己の吐瀉物の上に手をべしゃりと置いた。その目から涙が溢れる。
「あ、ああ! あああ!」
「――うりゃああぁァあァああアァ!」
……その叫び声は、クッキーのものだった。歪む視界の中で、パンケーキは見た。ネロの半分ほどしか背丈の無いクッキーが、砲弾のような勢いでネロに掴みかかるのを!
「やめるですよ! パンケーキをッ、パンケーキをぉ!」
「ウガッ! ウゥガァ!」
「うぅあ私の! 私の友達ですよ! お前なんかに! ひき肉にさせたりわあ゛あぁあ゛ぁ!?」
たった数秒。クッキーが抵抗できたのは、たった数秒であった。
「や゛あぁあぁあ! はな゛しでえェエ゛ェェ! あ゛ァーははハあ゛ァーァ!?」
パンケーキの視界が徐々に戻りだす。そこには、頭をしっかりと掴まれ、宙ぶらりんのクッキーがいた。手足を必死にバタつかせ抵抗しようとするが、リーチが違い過ぎて胴体には届かず、また腕自体を狙おうにもまるでダメージが通っていない!
「クッキーっ!?」
「あま゛ね゛ェ! あ゛ま゛ね゛え゛ェーえ゛ェ!」
仁菜は、甘寧の名を呼んだ。そしてその次の瞬間には……血と肉の池と化した背中のフードプロセッサーに放り込まれていた。ネロはフードプロセッサーに、しっかりと、蓋をした。
「だめっ」
パンケーキは立ち上がる。クッキーは内側から懸命に容器を叩く。
「だめだよっ、だって」
ネロはニタリと笑い、全身に魔導力を充満させる。
「ウゥーガァアァアァーッ!」
「仁菜ちゃんは、私の――!」
ギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャギャ!
……あまりにも、現実感が無かった。
……血と、骨と、肉になった。
「……あ、あ゛あぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁあああぁぁあぁァーァァアァアァアァァアァァァアァ!?」
長い、長い、長い。パンケーキの絶叫。ネロの高笑いと魔導モーター回転音をかき消すほどの。絶望にまみれた、人生でただ一度も上げたことのないような悲鳴。
「あぁ、あ゛あぁあーぁあ!? クッキぃい゛ぃ!? 仁菜ちゃあァあァぁん!? や゛だッ! や゛だあ゛あぁアぁァァあァああァァーァあぁあぁぁあぁあァッ!」
「ウハ! ウハハァ! 壊したァ! スイートパラディンんん! 壊したァアァ! ウッガアァーッ!」
ネロは激しくドラミングを繰り返し、喜びの雄叫びを上げる。パンケーキは膝から崩れ落ち、声にならぬ声を上げ続けながらその場にうずくまっていた。
「あ……ああ……ぅ」
「フッ! フッ! フゥーッ! ウガァ……あぁ、アァー……あとは、オマエだァーッ……!」
脳内麻薬が異常分泌された怪物は、目の焦点が定まらず、口の端をひくひくと吊り上がらせながら、よだれをだらだらと垂らしていた。
「フハッ、フハァーッ……オマエ、壊すッ……」
ずしん、ずしんと音を立て、ネロがパンケーキへ迫る。
「……フハァーッ……」
「……て」
地に這いつくばる小さな娘から、ほとんどかすれて消えるような声。
「ウガァ……アハァ」
「……してよぉ」
今や殺戮以外何も考えられぬネロは、その小さな声など気にも留めぬ。
「アハァ、ハァーッ!」
「ねぇ……返してよぉ」
巨大な壁か柱めいて目の前に立つネロに……パンケーキは、くしゃくしゃの顔を向けた。
「仁菜ちゃんをぉぉッ! 元通りにして返してよおぉッ!」
「ウガァーッ!」
痛ましき叫びを無視し、ネロがその太く逞しい腕を伸ばした……まさにその瞬間であった! パンケーキを中心に、まばゆい光の柱が立ち上がったのは!
「ウガッ!?」
それに指先で触れてしまったネロは驚愕した! 右手人差し指と中指の先が! 火傷を負ったようにただれているではないか! まさか軽く触れただけで即これほどのダメージを受けるとは! 何たる高密度の聖なる魔導エネルギーか! まるで、そう、スイートパラディンの変身時に現れる光のドームのような……!
「ウガ!? わ、分からん!」
極度の興奮状態から急激に冷静になり、ネロは困惑する! 一体目の前で何が起きているというのか! 彼の頭ではとても想像することができない!
やがて光が立ち消えると……そこには、立っていた。スイートパンケーキが……その左手に、身長の半分ほどもある奇妙な物体を持って! 例えるならば、そう! お菓子作りに使う泡立て器のような!
「な、何だ、オマエ!」
「許さない」
少女の目の下には、はっきりとした涙の跡があった。その目は真っ直ぐに憎むべき対象を睨みつけ、そして……恐怖の色が、消え去っている。
「絶対に。絶対に」
「う、う!?」
泡立て器の先端部は、まるで電気が漏れているかのように、聖なる魔導エネルギーがバシバシとほとばしっている。それは明らかに、武器。ネロを、友の敵を傷付け、打ち滅ぼすために存在する物体。そして、ネロは見覚えがあった。その恐るべき武器。二十三年前、自分と敵対したスイートパラディンが持っていた……!
「……『スイート』……『ホイッパー』……!?」
「らあぁッ!」
先に動いたのはパンケーキであった! ネロがスイートホイッパーと呼んだその武器を大きく振り上げ! その先端で光の尾を描きながら、ネロへと振り下ろす! 先程とは別人のような威圧感にわずかに気圧されたネロは、防御動作を一瞬遅らせてしまった! 慌てて腕で防ごうとするネロ!
「ウゴオォォッ!?」
バシュシュシュ! 電流でも流れたような音と共に、ネロの筋肉質な腕が焼けただれた!
「アァアーッ!?」
「らぁッ! らぁッ! らあァーッ!」
激痛に悶えるネロに、パンケーキは間髪入れず武器を振り下ろす! 振り下ろす! 振り下ろす!
「ウガッ! アァッ! アァアーッ!」
バシュシュシュ! バシュシュシュ! バシュシュシュシュ! 腕だけではない! 肩! 脇腹! 聖なる泡立て器のぶつかる場所全てが、酷い火傷を負ったように深く傷ついてゆく!
「このッ、オオォーッ!?」
先程までの圧倒的優勢から一転! 石ころで銃と戦うような理不尽さ! 肉弾戦を得意とするネロにとって、この武器はあまりにも、あまりにも危険であった! ホイッパーが触れる度、ネロの肉体を尋常ならざる魔導火傷と目を剥くほどの激痛が襲う! 向こうが武器を振り回している限り、こちらから近付くことすらままならない!
「うああぁーあッ!」
「ウガッ、フゥーンッ!」
再び振り下ろされるホイッパーを、ネロは軽いパニックを起こしつつ後方ジャンプ回避! ガードができぬ以上、距離を取りながら戦うしかない! しかし!
「『スイートホイッパー』ッ!」
距離が開いた瞬間、パンケーキは頭上にホイッパーを掲げ、両手を使って円を描くよう回転させる! ひと回しごとに先端に光が集まり、ホイッパーはその輝きを増していく! それは、パンケーキの内なる魔導エネルギーであり! 女王ムーンライトの魔導エネルギーであり! そして、このファクトリーに存在する幸福のエネルギーである!
「うがッ、オォーッ!?」
まずい! この攻撃を、ネロは二十三年前から知っている! 近付いても駄目、遠ざかっても駄目! どうすれば! ネロの頭では、このような決断を即時に下すことはできない!
「ウガァーッ! 分からんッ!」
「……たあぁーッ!」
パンケーキは掛け声と共に、ホイッパーを振り下ろす! 極限までチャージされた幸福なる魔導の力が、白い光の筋となって放たれた! 曲線を描きながら、それはネロめがけて迫ってゆく!
「ウガ、ウガァーッ!」
大急ぎで避けようとするネロ! しかし無駄! ネロの動きを、光の筋は追尾弾めいて追い駆けてゆくのだ!
「ウガーッ!」
逃走しようとしたネロの背中を、光の筋が直撃!
「ウガッウオオォオォオオォオオォオッ!?」
体の後ろ半分が、火あぶりに遭ったかのような惨状を示す! 地面を転がり、のたうち回るネロ! フードプロセッサーの蓋が開き、中を満たしていた血肉の塊がボドボドと溢れ出す!
「ウハッ、ウハァーッ!?」
今や、恐怖に怯えるのはネロの方であった! ホイッパーの先端に魔導エネルギーを集中させながら、スイートパンケーキはネロへと駆け足で迫ってゆく! パンケーキは助走と共に大きく跳ぶと!
「はああぁあぁーッ!」
スイートホイッパーをネロに向け、下突きめいて繰り出す!
「ああぁあぁあぁあぁぁあぁあ!」
「うがああぁぁぁぁあぁあぁ!?」
……ところが、スイートホイッパーがネロに命中することは無かった。パンケーキは確かに見た。ホイッパーが相手の胸を貫くその直前、何もない空間から突然黒い影の腕が現れたのを。それはネロの体を人形のように掴み、時空の狭間へ引きずり込んでいったのを。そして。
(――スイイィィィイイィト……パンケエェェェェエエェキ……)
得体の知れぬ、何かとても不気味な存在が、確かに自分を睨んだような気がしたのを。
……パンケーキは着地し、辺りを見回した。最早邪悪な気配はどこにも残っていない。そこには、静寂だけがあった。
「ハッ……ハッ……ハッ……」
呼吸を荒くしながら、パンケーキはごとりとスイートホイッパーを落とした。ホイッパーは光の粒と化し、空へ向かって蒸発していった。
「ハッ……ハッ……ハッ……」
横たわる怪我人。小石や枝まみれで、ところどころえぐれたグラウンド。そして、肉塊。パンケーキは少しずつ理解した。現実だと。奴らは消えてしまったが、今起きたことは紛れもなく現実であったと。
「……ハァ、ハァ」
パンケーキは、よたよたと肉塊に近寄り、その前で跪いた。
「ハァ……ハァ、ハァ」
パンケーキは、まだ生温かく生臭いその有機物の中に、その手を突っ込んだ。
「あぁ……はぁ。戻さなきゃ……あぁ、ハァ」
早く元に戻さないと。仁菜が死んでしまう。用務員のおじさんと混ざってしまった。どこが仁菜で、どこがおじさんだろう。早く。早くしないと。ぼろの布きれや切り刻まれた金属らしきパーツも混ざっている。全部仕分けないと。早く。早く仁菜を助けるのだ。でないと。そうしないと。
「うぅ、う……」
やがて肉塊の中から、やや大きめの塊が現れた。鉄をも砕くフードプロセッサーの中にいながら、傷ひとつついていない……ムーンライト・ブリックスメーター。つい先程まで、確かに仁菜と、スイートクッキーと共にあったもの。
「うあぁ、あぁ」
肉を集めても仁菜が元に戻らないことを、パンケーキは徐々に理解し始めた。仁菜は、もう肉だ。それは不可逆だ。友達が、いなくなった。大切な友達が、スコヴィランの手で、いなくなった。
「あぁ……ああ、あぁ……」
仁菜のブリックスメーターを握りしめ、パンケーキはぼとぼとと涙をこぼした。
「あ……う、あぁ……は、ぁ」
地に膝を着け、下を向き、しかしブリックスメーターだけは掲げながら。祈るように。パンケーキは泣いていた。事態が収まったと理解した人々が集まって来ても、彼らがあまりの惨状に悲鳴や嘔吐を起こしても、冷静さを保った教師陣のひとりが声を掛けても。彼女は。パンケーキは。佐藤甘寧はただただ、いつまでもいつまでも、泣いていた。
……その日の空は、鬱陶しいほどに青かった。
人がひとり、この世からいなくなったとは思えないほどに。
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