ストレス限界!マドンナはつらいよ[Side:H]

「ねぇ、昨日の見た? 私ニュースでしか見てないんだけど」

「見た見た、私学校にいてさぁ」

「マジでビビったわ、俺夢でも見てんのかなって」

「目の前で動いてんのにさ、映画か何か見てる気分だった」

 その朝、中等部二年A組の教室に、その話題を持ち出さない者は存在しなかったと言ってもよかろう。

「あの巨人ってさ、やっぱアレだよな」

「ニュースで大臣が現時点じゃ断言できないって言ってたけど」

「いや間違いないでしょ」

「プリッキー」

「プリッキーが」

「プリッキーってさ」

 プリッキー。教科書で、ニュースで、インターネットで、資料としては何度も見た存在。写真の向こう、映像の向こう、文章や大人の話の中にのみ存在していた、災いが形を取ったような怪物。それが再び現れた。これが話題にならない方が異常だと言えよう。

「中吉駅の近くに公園あるじゃん、あそこが爆弾でも落ちたみたいにメチャクチャになっててさ。前の道路も、家も」

「また出んのかなアレ、ウチの近くに出たらどうしよ」

「不発弾的に生き残ってたプリッキーって説もあるらしいけど。でも心配だよね」

 教室中を伝わっていたその雰囲気を構成していたのは、確かな恐怖と、そしていくらかの好奇心であった。誰もがプリッキーの恐怖を語りたがり、聞きたがり、共有したがる。まるで、十四歳の心が受け止めるには大きすぎる巨大な災いを、仲間達と共に一生懸命噛み砕こうとするかのように。

「でもさ、スイートパラディンがやっつけてくれたんだろ」

「「!?」」

 ……そんな教室の隅。とある単語が出るたびにびくりと体を震わせる、ふたりの少女がいた。

「そうそう、WeTubeの動画見た?」

「えっ何々見せて……うわ何これ、映画みたい」

「すげぇよな。教科書に出てるのと微妙にカラーリング違うけど」

「ホンモノかな? いやまあ、ホンモノじゃなきゃあんなバケモン倒せねぇよな」

「スイートパラディン」

「スイートパラディンが」

「スイートパラディンってさ」

 額に汗をダラダラとかきながら、ふたりは噂話に耳を傾けている。

「……なんか、落ち着かないね……」

「ですよ、こんな話題になってるとは……」

「バレてないかな、私達がス――」

「甘寧、声が大きいですよ」

「ご、ごめん仁菜ちゃん」

 誰が想像するだろうか。話題の中心、スイートパラディンが、まさか同じ教室にいるなど。つい昨日、成り行きからスイートパラディンとなり戦ったふたり……甘寧と仁菜は、スイートパラディンの正体に関するおかしな噂話が流れていないか、先程からこうして耳をそばだてていたのである。

「スイートパラディンってどんな人なんだろ」

「可愛かったって言ってたよ、実際に見た人が」

「でも絶対目立ちたがりだよね、こんな派手な服で」

「きっと正義感の強い女の子なんだろうなぁ、一回会ってみてぇよ」

「政府が秘密裏に作ったサイボーグって噂もあるよな」

 ……幸いにも、今のところ正体に近付いている者はいないように思えた。

「誰がサイボーグですか」

「妖精がいるんだし、サイボーグくらいいてもおかしくないかもよ?」

「……その妖精は今何してるですか」

「さあ……多分屋上にいると思うけど」

 女王ムーンライトの治める世界、ショトー・トードからやって来た妖精。昨日戦いを終えた後、チョイスとマリーは改めて自分達をそう紹介した。

「チョイス達は二十三年前、スイートパラディンと共にスコヴィランと戦ったッチ」

「スコヴィランはヤクサイシンっていう不毛の世界の戦士だリー。自分達の為ならファクトリー……つまりこの世界がどうなってもいいと思っている、悪い奴らだリー」

 変身を解いたふたりに向けて、チョイスとマリーが始めた説明が思い出される。

「二十三年前、スコヴィランはショトー・トードにある奇跡の泉、スイートファウンテンを奪って行ったッチ」

「スイートファウンテンは、ファクトリーの人間の幸せな気持ちを吸い取って、甘いお菓子に変換して出してくれる泉なんだリー」

「スコヴィランの魔王ジョロキアは、そのスイートファウンテンを『人間の不幸を吸い取って、辛いお菓子に変換する』泉に変えてしまったんだッチ」

「ショトー・トードの妖精の主食は甘いお菓子だリー。ショトー・トードのみんなは、スイートファウンテンを失って危うく飢え死にするところだったんだリー」

 流石の仁菜も、スイートパラディンの裏事情まで知っていたわけではない。初めて明かされる真実に、仁菜は興味深げに聞き入っていた。

「ジョロキアは、スイートファウンテンを奪い取るだけでは飽き足らなかったッチ。ファクトリーをもっともっと不幸にして、辛いお菓子がどんどん出るようにしようとしたんだッチ」

「その為に奴らはプリッキーを作って、ファクトリーで暴れさせたんだリー。そんなアイツらの野望を止めて、スイートファウンテンを取り戻すために、女王様はスイートパラディンを目覚めさせることにしたリー」

「チョイス達の支援によって、スイートパラディンは見事ジョロキアを倒し、スコヴィランを滅ぼしたッチ」

「……でも、今になってそれが何故か復活したんだリー。だから、再びスイートパラディンの力が必要になったんだリー」

「突然スコヴィランに襲われて、今のショトー・トードは壊滅状態だッチ。しかもスイートファウンテンまで破壊されて、あの泉はほとんどお菓子を出せない状態になってしまったッチ」

「その上、ファクトリーで再び悪さを働いて、スイートファウンテンを完全に枯らしてしまうつもりなんだリー」

「……考えてみれば、ヨソの世界の争いに巻き込まれたこっちはたまったモンじゃないですよ」

 昨日の説明を思い出して冷静になった仁菜が、やや不満げに甘寧へ言った。

「私達ファクトリーの人間は何も悪いことしてないですよ、それなのにここを勝手に戦場にして」

「確かに困っちゃうよね……でも、出るのは事実だし。私達がやっつけないと、みんな困っちゃうよ」

「分かってるですけどね……ハァ、また出るですよね、アレが……」

「大丈夫! 何とかなるよ、頑張ろっ」

 仁菜の肩をポンと叩き、甘寧は笑顔でVサインを作ってみせた。

「……ま、まーたそれですか……甘寧に言われるとなんかマジで何とかなる気がするから不思議ですよ」

「というか、何とかしなきゃ。じゃないと、園芸部の活動もできない世の中になっちゃうかもよっ」

「そ、それは困るですね、パクチーも収穫ですのに……まあ、できる限りやってやるですよ」

 ふたりは隣同士、くすりと笑い合った。担任の女教師、竹ノ内が教室に入ってきたのは、それとほぼ同時であった。

「はい、ホームルーム始めるよー。席に戻った戻った」

 ……竹ノ内がそう号令をかけても、教室の奇妙な熱気はなかなか冷めない。

「プリッキーって人間なんだよね」

「怖いなぁ、私もされたらどうしよ」

「うっかり人とか殺しちゃったらさ――」

「ほらぁ静かに! さっさと座る!」

 結局、竹ノ内が得意の大声でそう怒鳴るまで、話し声は続いた。無邪気に語らう彼らの話の内容に、甘寧が一瞬顔を曇らせたのを、仁菜は見逃さなかった。




「へぇ~、ふたりは本なんて読むッチか」

「勉強熱心だリー」

「別にお勉強の本じゃないよ」

 放課後。園芸部の活動を終えた甘寧と仁菜は、学校の側にある古本屋チェーンに足を運んでいた。本の他にもゲームやトレカ等が置いてあり、聖マリベル学院の生徒もしばしば利用している。ふたりもその一部であり、園芸部の活動後しばしばここに立ち寄っては、立ち読みをして時間を潰していた。

「ショトー・トードの妖精は本なんてあんまり読まないッチ」

「だからスイートパラディンやスコヴィランのことにも詳しかったんだリー?」

「いやそれは関係ないですよ、どうせ読むの漫画とかですし……っていうか静かにするですよ、騒いだらバレるですよ」

 授業中はどこかに行っていた二匹の妖精は、園芸部の活動を終えて教室に戻ってくると、既にカバンの中で待機していた。そして当たり前のようにチョイスは甘寧の、マリーは仁菜の家に帰ろうとしている。「ふたりを見守るのが使命」という名目らしく、昨日もいつの間にやらそのような流れになっていた。

「えーと、途中まで読んでたんだけどな、どこだっけ『魔導士のクズ』。魔王退治を生業とするチンピラ魔導士の主人公が女子高生魔導士の家庭教師をすることにした結果とんでもない事件に巻き込まれていく小説『魔導士のクズ』を読みたいんだけどなぁ、あれー、マルヤマBOOKSから出版されてる『魔導士のクズ』――」

「突然ステルスマーケティング的口調になるのはやめろですよ。本の場所が分からないなら店員さんに……ん?」

 妙にうるさい甘寧を注意しかけた仁菜は、ふと気付いた。店の奥の方に、一瞬見覚えのある顔があったことを。

「……今の、公庄くじょう先輩じゃないですか?」

「えっ? 公庄先輩?」

 その名を聞いた甘寧は、急いで顔を上げ辺りを見回した。

「どこどこ」

「あっち、あっちですよ」

 ふたりは本棚の間をこそこそと移動し、物陰からそっと顔を出した。その先には、いた。眼鏡をかけた長い髪の少女。制服は同じだがカバンの色が微妙に違うので、高等部の生徒だと分かる。横顔からすらも清楚さが感じられ、男女問わず見る者を思わずハッとさせる。彼女こそ、

「ホントだ、公庄先輩だぁ」

「しっ、声が大きいですよ」

 公庄タマミ。学内に知らぬ者はいない有名人である。

「間違いないですよ。容姿端麗品行方正、成績トップで歌も上手く声楽のコンクールで入賞すること数回、実家は東堂町の伝統ある公庄神社、中等部高等部問わず人気者で誰からも頼られ、生徒会長筆頭候補と言われる、あの公庄タマミ先輩ですよ」

「仁菜も説明口調だリー」

「へぇー。公庄先輩って古本屋に寄ったりするんだぁ」

「あの人が寄り道なんて意外ですよ」

 口を挟んだマリーを無視して、ふたりは続ける。

「声かけてみる?」

「いやいや、そんな――ん、なんか様子がおかしいですよ」

 仁菜の言う通り、タマミは先程から雰囲気が妙であった。そわそわと落ち着かぬ様子で、周囲を何度も見回している。何か見られたくないものがあるかのように。

「……どうしたのかな」

「あっ、動くです……えぇっ!?」

 驚愕の声を、仁菜は何とか押し殺した。というのも、タマミが向かったのは、自分達中高生が決して入るべからざる場所。黒いカーテンに『18』の数字が描かれた、禁断の地。カーテンの前でしばし立ち止まったタマミは、やがて決心したようにそれを……くぐった!

「……に、にに、仁菜、ちゃん?」

「ああ、あ、あそこ、って……!」

 ふたりは口をあんぐりと開けたまま、ゆっくりとお互いに顔を見合わせた。

「そん、え……公庄先輩って、十八歳以上だったのかな……?」

「んなわけないですよ、同じ学校だから分かるですよ? というか、そんな、い、意外過ぎるですよ……」

「あの公庄先輩が……」

「じゅ、うぅ……」

「え、どうしたッチ? あの子がどうしたんだッチ?」

「うるせぇですよ、ちょっと黙るですよ……え? ど、どうするですよ甘寧」

「どうするって、仁菜ちゃん……」

 ふたりはしばし、小さく震えながらその場で見つめ合った。

「……今私達、多分マリ学の最重要機密に立ち会ってるですよ……」

「う、うん……これ知ってるの私達だけだよね、中高六学年合わせても……ねえ、あそこって何があるの仁菜ちゃん?」

「わわわ私に訊くですかそれ!?」

「水着のお姉さんがちゅってする本とか? 先輩それ見て鼻血出したりするの?」

「あ、甘寧の想像するエロいことのレベルかよく分かったですよ……うぐ、お、追うべきか、追うべきですか?」

「え、ええ……でも気になるよ、公庄先輩が鼻血出してるとこ……」

「いや鼻血は多分出してないですけど……うぅー、分かったです、あくまで公庄先輩の様子を見るですよ。周りの棚に何があるかとかは見ないですよ、分かったですか」

「う、うん! 見ない! 分かった! 行こ!」

 ふたりは意を決し、先程タマミがくぐったばかりのカーテンへ一歩一歩足を進めた。先程のタマミではないが、ふたりとも自然と周囲を警戒してしまう。こんなところを誰か他の生徒に見られでもしたら、怪しまれるのはこちらの方。慎重に行動せねば。異様な空気を察したか、妖精達すらも緊張した面持ちでじっとしている。ふたりは静かにカーテン前まで近付き、もう一度顔を見合わせ、頷く。そして、仁菜が先頭を切る形で静かにカーテンをめくり……。

「う、うお、これは……甘寧、かか、顔を伏せるですよ。突入するです。入ってすぐ曲がり角になってるですから、そこからそーっと覗くですよ」

「うん、わ、分かった」

 ……突入! 一歩、二歩と足を進め、本棚の陰から顔を……覗かせる!

「……いたですよ」

「う、うん……うわ、仁菜ちゃん、この人裸! なんで!」

「だから商品は見ちゃダメですよ! 公庄先輩だけ見るですよ!」

「そ、そうだった」

 声を押し殺しながら、ふたりは改めてタマミを見る。今ここに、タマミ以外の客はいないらしい。棚の前で、彼女は間違いなく商品をじっと見ていた。

「……み、見てる……あそこにあるのDVDだよね、立ち読みできないよ? まさか買うのかな」

「待つですよ、何か様子が」

 仁菜の指摘は正しかった。タマミは確かに棚を見ているが、それは明らかに好みの商品を物色しているという様子ではない。目の前に商品があり、目は確かにそちらを向いているのに、心はここに無いかのようである。それは、何かを決心しかねているという様子にも見える。

「……あっ」

 瞬間、ふたりは見た。タマミがその細い指で、棚から一本のDVDを抜き出すのを。そしてそれを……嗚呼、何ということか! 彼女はそれを、自分のカバンに素早く入れたのである! 彼女はそのまま間髪入れずカバンを閉じる! これは『間違えて入れた』等という言い訳は断じて通用しないレベル! そう、彼女は……!

「公庄先輩ッ!?」

「甘寧!?」

 瞬間、甘寧は思わず棚の陰から飛び出していた! 心臓が飛び跳ねたようにびくんと体を震わせ、ふたりの方を見るタマミ! その顔ははじめ驚愕の表情であったが、状況を理解するにつれ、徐々に恐怖、そして絶望へと変わってゆく!

「く、公庄先輩、今!」

「嫌あアァッ!」

 反対側の出入り口のカーテンをめくり、タマミは全速力で飛び出していく! そのカバンにDVDを入れたまま! 周囲の棚から商品をガチャガチャと落としながら!

「ま、待って! 公庄先輩!」

「ちょちょちょ、甘寧ェ!」

 甘寧もそれを追う! 周囲の棚から商品をガチャガチャと落としながら! 落ちた商品を慌てて拾い上げ、棚に戻していく仁菜!

「うわっ、これは――じゃない! ちょ、待つですよ、う、こんな、えぇ? あ、違くて!?」

 なんとか正気に戻り、騒ぎになる前にカーテンの中から飛び出し、ふたりを追って店の外へ飛び出す! 店から五十メートルほど離れたところで、甘寧が力無く膝をつき、ゼエゼエと息を荒くしているのを発見! タマミは既に見えなくなっている!

「見失っちゃったぁ……」

「体力無さ過ぎですよ甘寧! 若干引いたですよ! お店すぐそこですよ!」

「いやぁ、流石公庄先輩、足も速いなんて」

「それ以前の問題ですよ……はぁ。それにしても……」

「……今のって、、だよね」

「万引きって何だッチ?」

 甘寧のカバンから、先程まで黙っていたチョイスがひょいと顔を覗かせる。

「万引きって言ったら、お店の商品をお金を払わないで持っていくことですよ」

「えっ? ああ、今思い出したッチ。ショトー・トードには無いシステムッチから……って、えぇ!? つまり泥棒ッチか」

「そうですよ、泥棒と一緒ですよ……うぅ、どうしたもんですかね」

 仁菜はその場で頭を抱えた。仁菜のカバンから顔を出すマリーも、心配げにそれを見ている。

「あの子、悪い子だったリー?」

「いや……うーん、確かに万引きは悪いことですよ、フツーに犯罪ですよ」

「何か……何か事情があったのかな」

「AV万引きする事情ってどんな事情ですか……うあぁーッ軽い気持ちでえらいことしちゃったですよ、まさか万引きなんて、公庄先輩が、しかもAVを」

 ふたりとも、最早立ち読みに戻ろうというテンションではなかった。今見てしまったものをどうするか。その場で立ったまま座ることもせず、ふたりはこれからどうするか喧々諤々の議論を続けた。

「い、言った方がいいのかな、店員さんとか……学校? 警察?」

「け、警察!? で、でも。そんな、あの公庄先輩を売るような」

「うぅ……でも悪いことだよ」

「ですけど」

「悪い奴はこらしめなきゃダメだッチ!」

「流石チョイスは勇ましいリー!」

「ちょっと黙ってろですよ」

「ほ、本人と何とか話せないかな。DVD返したら、お店の人も許してくれるかも」

「いや、うーん……でもどうするですか、明日学校で声かけて『すみません、昨日の件ですけど』って言うですか?」

「お、おうちに直接行くとか」

「ちょ、直接!? ま、待つですよ、わざわざ悪事を告発しに? 神社まで? それもちょっと」

「でもほっとけないよ、悪いこと見ちゃったんだもん」

「で、ですけどぉ……うぅ、なんで見ようなんて言っちゃったですか私の馬鹿……」

 ……今日は一旦解散し、明日また考えよう。その結論にふたりが至ったのは、それからなんと一時間も経過してからであった。

 ふたりは言葉もなく、とぼとぼと歩道を進む。途中で道が通行止めになっていた。昨日のプリッキー襲撃により、駅前の道や建物が破壊されていたのである。工事の看板にある通りふたりは回り道をし、中吉駅へとたどり着く。ふたりはそのまま、同じ下りの普通電車に乗り込んだ。甘寧は東堂駅まで。仁菜はその三つ先の快速停車駅、大出水駅まで。

「……元気ないッチね」

「しょんぼりだリー」

 彼女達から見て、仁菜が右、甘寧が左。いつもの順番で椅子に座ってゆらゆらと揺られながらも、ふたりは話す気になれず、ただ黙っていた。聖マリベル小学校で一緒になってから多くの秘密を共有し続け、昨日はスイートパラディンという最大の秘密を分かち合ったふたりであったが……まさか一日でそれと同程度の大問題を抱えることになるとは。

「ほらほら、元気出すッチ、別にふたりに何か起きたわけじゃないッチ」

「そうだリー。しょんぼりしてたら戦いにも身が入らないリー」

「…………」

「……電車の中では静かにするですよ」

 甘寧は俯いたまま何も言わない。代わりに仁菜が、空気を読まない二匹の妖精にまとめて返事をしておいた。既に二駅を過ぎた電車は町境を超え、甘寧の降りる東堂駅へと向かっている。ふたりとも、可能ならばこのまま別れたくはなかった。とはいえ、一緒にいたとてこれ以上どうしようもない。甘寧はスッと右手を差し出し、仁菜のスカートの袖を掴む。仁菜はその手を左手でそっと撫でた。

『間もなく、東堂、東堂です』

 アナウンスが響き、電車がブレーキをかけ始める。キキと不快な音と共に、電車は徐々に速度を落としていく。

「……じゃあ、また明日ね、仁菜ちゃん」

「ええ……また明日ですよ」

 重い空気の中、電車は完全に動きを停止し、ドアを開いた。仁菜のスカートから手を離し、甘寧が立ち上がった……まさにその時である! 昨日聞いたばかりのドゴォンという爆発音が、電車の外で響き渡ったのは! 少し遅れて、電車の中にゴウと吹き込む突風!

「これは!」

「まさかッ!」

「大変だッチ! 邪悪な魔導エネルギーを感じるッチ!」

「奴らが現れるリー!」

 ふたりはカバンを奪い取るように持ち、電車を駆け下りる! 改札に定期券を通し、階段を駆け下り、駅前ロータリーで顔をあげると、そこには!

『プリッ……キイイィィィイイイーッ!』

 昨日聞いたばかりの、ボイスチェンジャーめいた鳴き声! もうもうと上がる赤い煙、そして錆びたような赤色に染まっていく空! 煙の中に見える、黒い影の巨人!

「「プリッキー!」」

「プリッキーが現れたッチ! このままだと昨日みたいに暴れ出すッチ!」

「今すぐ変身だリー!」

 カバンの中から叫ぶ妖精達! その手には、昨日も使った奇妙な筒状の変身アイテム、ムーンライトブリックスメーター!

「あ、待つですよ! ここで変身すると普通に――!」

「そんな時間ないよッ! 今あんまり人いないし、誰もこっち見てないって!」

 チョイスから迷いなくブリックスメーターを受け取る甘寧! 仁菜は咄嗟に周囲を見渡す! 確かに言われてみれば、この時間にしてはこの場に人は少ない! 加えて残っている人々はプリッキーに注目している……今がチャンス、なのか!?

「えぇいっ! やってやるですよ!」

 ふたりはがしりと手を繋ぎ、大きく息を吸い込むと、マジックワードを叫ぶ!


「「メイクアップ! スイートパラディン!」」


 瞬間、ふたりを中心に光のドームが発生! ふたりを包み込んでゆく!

(あ、また服と眼鏡が無いですよ……変身解いたら戻るからいいですけど)

(また裸になってる……裸といえば、あのDVDの……)

 若干気が散り気味であったふたりだが、大急ぎで頭を切り替えた! 今はとにかく変身である!

 ふたりは空中をくるくると回転しながら、体に聖騎士としての衣装を纏い始める! 鏡のように輝く手甲が右腕に、左腕に! 続いて鉄靴が右脚に、左脚に! 肩当てが右肩に、左肩に! 煌めく宝石付きの大きなリボンが胸に! 髪型がぞわぞわと変わり、甘寧はボリューム感の非常にたっぷりあるポニーテールに! 仁菜の髪も大きく伸び、両サイドで三つ編みに編まれた上に、円を描くよう超自然的に固定された!

 そこでふたりは赤子のように身を縮め……勢い良く大きく開く! 体を覆っていた光のヴェールが弾け飛び、そこに現れるはフリルの付いたエプロンドレス! 短めのスカートの下にはスパッツ! 甘寧はピンク、仁菜は黄色! そのまま地面へ向けて落下したふたりは、大きく膝を曲げ、ズンと音を立てて着地した!

「膨らむ甘さは新たな幸せ! スイートパンケーキ!」

 先程まで甘寧だった聖騎士は、可愛くキメポーズ!

「頬張る甘さは悩みも蒸発! スイートクッキー!」

 同じく先程まで仁菜だった聖騎士は、知的さにどこか幼さを残したキメポーズ! そしてふたりは高らかに声を揃え、合体決めポーズと共に己が何者か宣言する!



「「メイク・ユア・ハッピー! スイートパラディン!」」



 弾ける光と共に、女王ムーンライトが聖騎士、スイートパラディンが! 今再びその姿を現したのである!

「す、スイートパラディン!?」

「うわっ、ホンモノ!?」

 側にいた数名の目撃者からすると、突然光のドームが現れ、その中から決めポーズをとった二人が現れたようにしか見えない! まるで魔法!

「みんな、逃げて! ここは危ないから!」

「行くですよパンケーキ!」

「うん!」

 民間人に軽い注意を済ませると、ふたりは地面を蹴り……跳躍! 建物の壁を蹴り、更に前方へ跳ぶ! 民家の屋根に着地、更に前へ! 前へ! プリッキーの出現位置は、幸いにも駅とそう離れていない!

『プリッキーィ……!』

 今日のプリッキーは前日と違い、女型! 髪の長い全裸の女の姿を取った、影の巨人である! ただし顔にはピエロめいた仮面を被っており、編まれた髪にはしめ縄めいた紙垂が付いている! その上両手両足には囚人めいた枷までも!

「おっ、なんか今日のは動き辛そうですよ!」

「ハッ! そういえばまた女の人の裸見ちゃった」

「いいですよそれはこの際! プリッキーってこんないろんな形あるですか!?」

「元になる人間が違えば形も違うッチ!」

「今日は多分女の人だリー!」

「なるほどですよ」

 目標は目の前! 動けない故か、幸いにも建物にはほとんど被害が出ていない!

「何かする前にやっつけよ!」

「おうともですよ!」

 ふたりは同時に屋根を蹴り! ふたつの拳を同時に突き出す!

「「ムーンライト……パーンチ!」」

 やはり何の捻りもない! ここで初めて、プリッキーの顔がこちらを向いた! そして次の瞬間! プリッキーの全身に無数の裂け目! またしても全身に目玉のあるタイプか!? いや、違う! それは……口!

『イヤアアアァァーァァアアァア!?』

 気付いた時には遅かった! 全身の口から発せられた金切り声は、衝撃波となってスイートパラディンを襲う!

「きゃあ!?」

「どおぉーッ!?」

 一直線に向かっていたスイートパラディンが、音波攻撃で後方へ吹き飛ばされる! 道路に転がるふたり! 一斉に割れる周辺民家や車の窓ガラス!

「痛たたた……! クッキー、怪我は?」

「私は大丈夫ですよ……しかしフツーなら大怪我だったですよ、体丈夫ですねスイートパラディン」

「ちょっとした切り傷擦り傷なら無効化されるッチ、安心して戦うッチ!」

「何の安心ですか」

『イヤアーァア! イヤッ、イヤアァアーァ!』

 クッキーが突っ込んでいる間にも、プリッキーは全身の口から叫び声を上げ続けている! 衝撃で転倒する車! 飛ばされる人! 吹き飛ぶ屋根瓦!

「台風でもなかなかここまで無いですよ」

「このままじゃ町がメチャクチャになっちゃう! 何とかしなきゃ!」

「空中ジャンプはダメですよ、吹き飛ばされるですよ!」

「地面を走って行こ!」

「オウですよ!」

『イヤアアアァアアァア!』

 ふたりは道路を駆ける! 駆ける! だが、再びの衝撃波! 物陰に隠れ、何とかやり過ごすふたり!

「は、走りもキツいッ!」

「どーするですよ、いちいちコソコソしてたんじゃ、被害は……」

「あッ!」

 突如閃いたように、パンケーキが声を上げる! 彼女が見上げたのは、自分達が隠れている物陰……そう、電柱である!

「これで行こっ!」

「え、あ?」

「えーいっ!」

 パンケーキは突然電柱を垂直に駆け上がり、地面に対し平行のままジャンプ! そうして飛び移った先には、次の電柱!

「な、なるほど!」

 クッキーもそれに続き、電柱ジャンプ! 電柱を次々飛び移りながら近付いていく! そう、プリッキーの衝撃波攻撃には溜めの時間がある! その間は短い距離をぴょんぴょんと進んでいき、衝撃波が出る瞬間を狙って……全力でしがみつく!

『イヤアァアーアァアァアァアア!』

「ぬーんっ!」

「んぐぅっ!?」

 何も無い道路で踏ん張るのは確かに難しい。空中でも踏ん張ることはできない。だが、脚力や腕力を全力で使ってよいならば話は別! 衝撃波が出る間だけ電柱にしっかりと抱き付いていれば、しっかりと設置された電柱がスイートパラディンの助けとなってくれる!

「この要領でどんどん行くですよ!」

「よぉしッ、何とかなるよッ!」

 嗚呼、だが。直後、プリッキーは思いがけぬ行動を取り始めた。

『イヤアァ、ウタウノ、イヤアァア!』

 ……ふたりは確かに聞いた、プリッキーが『歌うのが嫌だ』と言ったのを! 歌とはつまり今の衝撃波攻撃か? それを嫌がっているというのか?

「……昨日のアレと同じで、戦うのが嫌ってことですかね?」

「きっとそう――えっ」

 パンケーキの台詞は不意に中断された! それもそのはずである、プリッキーが、その拘束されたままの腕を、突如として己の顔へ向けて振り上げ始めたのだから!

『イヤッ! イヤッ! ウタウノ! イヤッ!』

 仮面を被った自分の顔に、拘束具ごと一発! 二発! 三発! 四発! プリッキーは次々と叩き込んでいく!

「え、え!? じ、自滅ですか!?」

「大変! とっても苦しんでる!」

「そ、そんなに戦うのを嫌がってるですか……は、早くトドメをさして――」

『ウタモ! ベンキョウモ! イエノコトモ! ゼンブイヤッ!』

「「……え」」

 プリッキーが自傷行為と共に紡いだのは、しかしふたりが思いもかけぬ言葉であった。

『イチバンモ! セイトカイチョウモ! マドンナモ! ミンナノキタイモ! ゼンブ! イラナイ!』

「……マド、ンナ」

「……嘘ですよ、まさか」

 ガラガラと音を立て、女型プリッキーの仮面が崩れた。そこには……のっぺらぼうの顔だけがあった。

『ナンニモ……』

 直後である! 女型プリッキーの顔に、縦向きの裂け目が開いたのは! そこから放たれたのは!

『イラナアアァアァアアァアアイイィイィイィイイイィィイィッ!』

 超高密度に圧縮された衝撃波! 攻撃範囲こそ狭いものの、それは最早単なる大風レベルではない! 大砲のように放たれるそれは、地面を穿つ! 車を押し潰す! 家屋を吹き飛ばす! 電柱をへし折る!

「最早怪獣ですよ……ってか、パンケーキの家とか大丈夫ですかアレ!?」

「うん、多分……ねぇ、あのプリッキーって」

「分かってるですよ」

 改めて、ふたりは見上げた。民家の軽く倍以上はある、闇が形を成したような怪物を。

「恐らく……公庄先輩ですよ」

『プリッキィイィイイイィイイィイイィイィイィーッ!』

 女型のプリッキーは、天に向かって一度大きく吠えると、今度は己の腕を地面へ打ち付け始めた!

『ハナシテェ! ジユウニ! サセテェ!』

「え、あ、ちょ!? まずいですよ! アレ腕の拘束解こうとしてるですか!? この上腕まで自由になったら」

「クッキー」

「……皆まで言うなですよ。私も見てられないと思ってたとこですよ」

「「何とかするッ!」」

「ですよッ」

 ふたりの全身を、聖なる魔導の力がゴウと駆け巡る! ふたりは同時に跳ぶ! 跳ぶ! 電柱を、塀を、屋根の上を飛び移る!

『アァアーァア!?』

 スイートパラディンに向け、顔から再度放たれる衝撃砲! ふたりはこれを紙一重で回避! 周囲に撒き散らさなくなった分近付くのは容易になったが、車も潰れる威力である! 一撃でも喰らえば、流石のスイートパラディンも無事では済むまい!

『ホットイテェ! ダレモ! コナイデェ!』

「そうは……いきませんッ!」

「ですよォーッ!」

 再び目標を眼前に捉え、ふたりは……同時に攻撃せず、敢えて散ってみせた! パンケーキはプリッキーの正面へ! クッキーはプリッキーの背後へ!

『プリッ、キィーッ!?』

 一瞬判断に迷ったプリッキー! 近距離では衝撃砲は使いづらいと見える! 再び全身に口を開くプリッキー! だが、もう衝撃波攻撃は怖くない! 木も倒れるような衝撃だが、パンケーキはやはり電柱を、クッキーは近所の民家の塀を使って耐え凌いでゆく!

「先輩! 今まで何も知らずにごめんなさい!」

「マドンナにはマドンナの苦悩があるですねッ!」

 衝撃波を耐えながら、ふたりはプリッキーに向けて叫ぶ!

「でも、悪いことは悪いことだからッ!」

「止めさせてもらうですよッ!」

 ふたりは地を蹴り、同時にプリッキーへと迫る! プリッキーは再び攻撃に移ろうとするが、チャージが間に合わない! せめて手を振り回そうとするが、パンケーキはその手の上に着地! 更なる加速をつけ、プリッキーの腹へと……キックを一撃! 同時に反対側のクッキーも、背中に拳を一撃!

『プリッ……』

 ふたりは間髪入れず追撃に入る! パンケーキは地団駄めいたキック連打! クッキーは拳の連打!

「「おりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃ!」」

『キイィーッ!?』

「「おりゃあーっ!」」

 逃げ場無く前後両方からダメージを負わされたプリッキーは、たまらずその場に倒れる! ズンと下敷きになり、ひび割れる道路!

「やったッチ!」

「今だリー!」

「うわっ何ですか突然出てきて」

 パンケーキの隣に駆け付けたクッキーは、突然現れた二匹の妖精に驚かされた。

「アナタ達今まで何してたですか」

「えっ、それは、ふたりの戦いを遠くから応援してたリー」

「チョイス達はふたりを見守る、ふたりは戦う。完璧な分業だッチ」

「な、なんか納得いかないですよ」

「クッキー! それより早くトドメ!」

「そ、そうだったですよ」

 プリッキーは、なかなか起き上がろうとしない。というより、手と足の枷のせいで起き上がれないのである。とはいえ、倒れたままでもジタバタと暴れることはできる。一刻も早く消すに越したことは無い。

『ジユウ、ジユウニィ!』

 倒れたまま叫ぶプリッキーの正面で、ふたりは固く指を絡ませ、手を繋いだ! 目を閉じて手に意識を集中すると、パンケーキはクッキーの中に魔導力を流し込む!

「んほっ!? ちょちょ、なんかパンケーキ昨日より積極的ですよ」

 勢い良く流れ込んでくる温かさに少しばかり動揺しつつ、クッキーも意識を手に集中! 受け止めた魔導力を返すように、パンケーキの中へ魔導力を流し込んでゆく!

「ふぁう……く、くるッ」

 パンケーキはそれを受け、更にエネルギーを返す! クッキーもそれを返す! 魔導が循環し、どこまでも高まる! パンケーキとクッキーの境界が曖昧になり、背後に強大なエネルギーを感じ始める! 自分達に力を与える大いなるものと、今ふたりは繋がった! 解き放たねば! このエネルギーを!

「「はあぁッ!」」

 ふたりは同時に目を開き、空いた片手を強く握りしめた! パンケーキの左腕にはピンク色のオーラが! クッキーの右腕には黄色のオーラがほとばしる! 大いなる力が、ふたりの背中をぐいと押した! 今だ! 一瞬のずれもなく、ふたりは叫んだ!

「「スイート・ムーンライトパフェ・デラーックスッ!」」

 瞬間! 大きく突き出されたパンケーキの左腕からは、ピンク色の光の波が! クッキーの右腕からは、黄色の光の波が! ふたつは螺旋を描いてまざり合い! 哀れにも泣き喚くプリッキーへと真っ直ぐに飛んでゆく!

「「はあぁーッ!」」

『タスケテェ! タスケテェ!』

 スイート・ムーンライトパフェ・デラックスはプリッキーを直撃! プリッキーの巨体が、光に包まれる!

『プリッ! キィーッ!?』

 やがてその姿はぐんぐんと小さくなり……人間大まで縮むと、そこには仰向けに倒れた女子高生が、そしてそのカバンが残された。同時に空の不自然な赤も霧散し、そこには元の青い空が戻ったのであった。

「やったッチふたりとも、今回もプリッキーを――あれ、無視ッチか」

「クッキー、場所変えよ」

「分かったですよ」

 駅から少し離れたのもあってか、昨日のような野次馬は今周りにいない。だが、危機が去ったことを理解した近隣住民が、すぐに物珍しさで家から出てくるだろう。パンケーキは女子高生に……公庄タマミに駆け寄り、それを抱きかかえる。今の彼女らの力ならば、鳥の羽根を一枚抱えるにも等しい軽さであった。一方のクッキーは、タマミのカバンを回収。ふたりはそのまま高く跳び、そのまま人気のない場所へ向かって行った。

 そこは、河原であった。東堂町を縦半分に割るようにして流れるやや大きな川、藤影川。パンケーキはタマミを抱いたまま、その土手にすたんと軽やかな音を立てて着地した。クッキーもすぐにそれに続く。遠くの橋を時々渡ってゆく車以外、通りかかる者もあまりいない。人目を気にせず話すには丁度良い場所のように思われた。

「公庄せんぱ――」

「パンケーキ、『先輩』はまずいですよ。一応私達は先輩と初対面設定ですから」

「あ、そっか……って、元々あんまり話したこととか無いよね、そういえば」

「確かにですよ」

 ふたりが小声で話している間に、気を失っていたタマミが、小さな唸り声を上げた。

「あっ、大丈夫ですか、公庄……タマミさん」

「まさかのフルネームですか」

「……あなた、達は」

 パンケーキを見上げ、クッキーに視線を移し、ゆっくりと辺りに視線を遣り。タマミは何秒もかけて、自分が置かれた状況を理解した。

「……夢じゃ、ない」

「はい、夢じゃないです」

「リアルですよリアル」

 ふたりの聖騎士は、こくこくと首を縦に振った。タマミは更に数秒そのまま呆然とし……そして、徐々にその顔を絶望の色へと変えて行った。

「夢じゃない、夢じゃない」

「あ、えっ、あの?」

「夢じゃない! ああっ、夢じゃ! ない!」

「わ、っとと、えっ、公庄せ、さん?」

 突然パンケーキを両手で突き飛ばし、タマミは砂利道へと転げ落ちた。聖騎士の力を得て体幹までしっかりしたのか、パンケーキは軽くよろめく程度で済んだ。タマミは地面に横向きに転がったまま、その両手で頭を抱えた。

!」

 タマミの金切り声は、ある意味でプリッキーよりも更にふたりを恐怖させた。

「い、家を、車を、人の! 壊しちゃった! いいえ、人もきっと怪我した! ひょっとしたら、し、死んだ人も! 見られた! 私がしたことを! みんなに見られたあうぅうぅううぅ!」

「く、公庄さん、落ち着くですよ」

「無理! 無理だよっ! 終わった! 全部おしまい!」

 捨てられた赤ん坊のように体を丸め、半狂乱になったようにしてタマミは喚く。

「私人間じゃなくなったんだよ!? プリッキーなんだよ!? 人殺しの怪物なんだよ!?」

 人殺しの、怪物。その言葉に、パンケーキがハッと凍り付いた。

「裏切った! お父さんもお母さんも妹も先生も友達も! 私みんな裏切った! 私が良い子じゃないことみんなに知られちゃった! 私は泥棒で! 変態で! 人殺しで! 最低の! 最低の……ああぁああぁ!」

「そ、く、公庄さん、あの、プリッキーのことなら、その。多分バレてないですよ」

 クッキーがしゃがみ込み、慌ててフォローに入る。

「だってホラ、野次馬もいなかったですし。人間に戻った時すぐ捕まえて現場から逃げたですし――」

「気休めはやめて!」

 しかしタマミは、おどおどとしたクッキーの言葉を一蹴した。そう言われれば、クッキーとて自信は無い。周りに人がいなかったのは確かだが、あれだけ周囲に家があるのだ。家の中から見ていた者が絶対にひとりもいないかと問われれば、そんなこと証明できるはずもないのだ。

「頼んでもないのにみんなにマドンナとか言われて! 期待されて! そして明日からは犯罪者って言われるんだよ私! 私がちっとも良い子じゃないのが! 良い子なんてやめたくて、いっぱいいっぱいいけないこと考えてたのが! みんなに知られて! そして落胆されるの! 犯罪者だって、人殺しだって――!」

!」

 その時。タマミより更に凄まじい剣幕でそう言ったのは……パンケーキであった。

「……! ! !」

「……パンケーキ」

 クッキーも、タマミも、黙って顔をパンケーキに向けるしかなかった。パンケーキはしばし肩で息をしながら、クッキーですら見たことのないような形相でタマミを睨んでいた。

「……公庄先輩。プリッキーには、誰でもなるんです。先輩が悪い人だからプリッキーにされたわけじゃないんです」

「パンケーキ、せんぱ――」

「先輩が。壊したいから家を壊したわけでも、傷付けたくて人を傷付けたわけでもないでしょ。プリッキーにされた人はみんなそうなるんです、自分じゃ止められないんです、どんなに良い人の心にもあるほんのちょっぴりの悪い部分をっ、無理矢理いっぱい膨らまされるだけなんですっ!」

 先輩と呼ばない約束まで忘れ、パンケーキはまくし立てた。

「先輩はちっとも悪くないです! そりゃ、いけないDVDを万引きしたのは悪いけど! プリッキーになったからって、その後もずっと悪い人なんて、そんなこと絶対ないです!」

「…………」

 最早、クッキーすらも口を挟めなかった。再びゼエゼエと呼吸を整え、そして少しばかり冷静になってから、パンケーキは再び語り始めた。

「……先輩。私の、えっと、知り合いが。二十三年前、プリッキーにされたんです。でも、その人はとっても優しい人で。カッコ良くて。今は東堂中学校で先生やってて。結婚して。子供も生まれて……いいことばっかりじゃないし、苦しいこともあるかもしれないけど。幸せに生きてると、思います。多分」

 パンケーキの顔には、いつの間にか微笑みが戻っていた。

「だから、人生終わりなんて言わないでください。プリッキーの部分を持ってるんですよ、多分人は誰でも。完璧な良い人なんていないし。とりあえずDVDだけお店に返して、ちゃんと謝って許してもらったら、あとはきっと何とかな――」

?」

 ……瞬間、ぞっとするほど冷たいタマミのその声が、パンケーキの笑顔を消し去った。パンケーキを見上げる彼女の顔は、女型プリッキーの仮面よりもなお作り物めいた無表情であった。

「……なんでそんな極端な例出すの? その人がどんなに幸せでも、私がしたことは変わらないんだよ? みんなの私を見る目は変わらないんだよ?」

「……え、だから」

「あなたみたいな物の見方する人が世の中に何割いるの? それともひとりひとりあなたが説得してくれるの? 私は悪くないんだって」

「そ、う……それは、でも」

「あなたが私の代わりに明日から学校に行ってくれるの? 私が受ける失望とか批判とか悪い噂とか、全部引き受けてくれるの? 私が万引きしたもの全部返して謝ったら、あなた達は私がしたこと全部忘れてくれるの? みんなの記憶から私のしたことは消えるの?」

 じゃり、じゃりと音を立ててタマミは立ち上がり、クッキーから己のカバンを乱暴に奪い取った。

「……綺麗事なんてどうでもいいから、魔法で全部無かったことにして。できないならもう放っといて」

 夕日を浴びながら、ふたりに背を向け、タマミは土手の砂利道を歩いてゆく。パンケーキはそれを数歩追いかけ……しかし、すぐにその場で立ち尽くした。タマミの姿が遠く見えなくなるまで、パンケーキはずっとそうしていた。その背中を、クッキーは、そして二匹の妖精達は、少し遠くからじっと眺めるより他に無かった。




「ただいまー」

 午後九時過ぎ。ドアの閉まる音とややくたびれた男の声が、家中に響く。玄関に立っていたのは、この家の生活をひとりで背負う、三十代も後半に差し掛かったスーツの男。平日は基本的に毎日残業で、この時間に帰ってくるのは全く珍しくない。

「ああ、おかえり。今日もお疲れさま」

 玄関から見て左手のリビングから現れた老婆は、彼の母親。彼女に向かってニコリと微笑んだ男は、玄関の鍵をガチャリと閉めた。

「甘寧は?」

「それが、帰ってくるなり夕飯も食べずに部屋に閉じこもっちゃってねぇ」

「あれ、ご飯も食べないで? 食いしん坊の甘寧にしちゃ珍しい。学校で何か嫌なことでもあったかな?」

 不安げな表情をした甘寧の祖母に対し、彼はさして深刻そうな顔はしなかった。

「どれ、ちょっと様子を見てくるか」

「ああ、流石は中学校の先生だね。頼んだよ」

 ドシンドシンと大袈裟に音を立てながら、彼は階段を上ってゆく。

「おーい。甘寧ぇー。お父さんが帰ったぞー」

 階段を上り切っても、部屋の前に立っても、甘寧は返事をしなかった。

「トントントーン。お父さんだよー。今日も一日仕事で疲れたお父さんに可愛い娘の顔を見せてくれー」

 彼が大騒ぎしながらしつこくノックを続けると、やがてドアが開いた。お気に入りのテディベア、くまじんを抱きしめた、制服姿の愛娘がそこに立っていた。

「甘寧。ただいま」

「……おかえり」

 かすれた声でそう言う甘寧の目は、どう見ても腫れていた。

「どうした? 喧嘩でもしたか? それともまさか学校でいじめられたか?」

 冗談めかして彼は問う。甘寧は首を横に振った。

「そうかぁー、とりあえず下におりておいで。夕飯食べながらで良ければ、お父さんなんでも相談室開催しちゃうぞ?」

「お父さんは」

 甘寧が口を開いた瞬間、彼のおどけた顔は、真剣な、だが優しい表情に変わった。

「何だ?」

「お父さんは……今、幸せ?」

「……はぁ~い?」

 しかし彼は、すぐに元のふざけた調子に戻ってみせた。

「あぁったり前じゃないか! 心も体も元気いっぱい! 大変だけど素敵な仕事を毎日こなして、家に帰ればおばあちゃんがいて、甘寧がいる! 美味しいご飯にポカポカお風呂、あったかい布団! これ以上の幸せがあるか!」

 大仰な身振り手振りと共に朗々と語り上げた彼は、最後に己の胸を拳でドンと叩いてみせた。それをじっと見ていた甘寧は……父親のスーツの袖を、きゅっと握った。

「ご飯食べるか」

「……うん」

「よし、じゃあ下りよう。くまじんも一緒に」

「うん」

 幼子のように袖を掴んだまま、甘寧は父親と共にリビングへと向かった。果たして娘に何があったのか、彼は敢えて深く問わない。しかし、心のどこかで想像がつくような気がした。

 昨日今日と連続で現れたプリッキー。二十三年前、自分が甘寧くらいの年齢だった頃と同じことが、今この東堂町で再び起こっている。プリッキーについてなど、娘とちゃんと話したことは無かったが……自分と甘寧は父と娘なのだ。もしかすると、直感的に感じ取っているのかもしれない。二十三年前、この東堂町で、父親に何が起きたのか。

 ……こんな時、妻なら。この子の母親なら。何と言ってこの子を励ましただろうか。テディベアのくまじんは、甘寧に対する妻の最後のプレゼントは、黙したまま何も語らない。彼はただ、娘に向けて力強く微笑むことしかできなかった。ただ、それだけしか。




 次の日、タマミは学校に来なかった。次の日も、その次の日も来なかった。

 タマミが不登校になった。甘寧と仁菜がそう聞いたのは、それからしばらく経ってからであった。学園のマドンナに何が起きたか、中等部も高等部も口々に噂し合った。が、続々入ってくるプリッキーのニュースに押し流され、すぐに話題には上らなくなった。

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