第2話「ストレス限界!マドンナはつらいよ」

ストレス限界!マドンナはつらいよ[Side:B]

 東堂駅の前を、夕方前のこの時間は多くの中学生が通過する。ぎゃあぎゃあと大声で騒いで歩道を占拠しながら、制服を着崩した子供達が続々と家へ帰って行くのだ。アレでは近隣住民から苦情が来よう。それとも慣れているのだろうか。線路沿いのフェンスに寄りかかりながら、赤い瞳の女……セブンポットは、その様子をつまらなさそうに眺めていた。

「……ねぇ、ヤんないの?」

 駅前ロータリー中央にそびえる時計を見ながら、セブンポットは訊ねる。その相手は……隣で座り込む汚らしい身なりの男。春らしい格好をしたセブンポットとは対照的に、オリーブ色のニット帽に、深い青のジャンパー。頬はこけ、目は落ちくぼみ、口はだらしなく開き、汚い歯が覗いている。浮浪者と言われればそうとしか思えまい。だが、その光の無い赤い瞳を見れば、彼が単なるホームレスでないことに気付くかもしれない。

「アホそうな中坊がゾロゾロいるけど。アレいっぺんに殺すとかは?」

 男はぼんやりと前を見たまま、セブンポットの問いかけに返事もしない。彼女は思い切り顔をしかめた。先程からずっとこうである。町へ出て、ここに座り込んだと思ったら、そのままずっと動かない。こちらから話しかけても、聞いているのかすら定かではないときている。いっそ自分が動いてやろうかとも思ったが、今日はこの男の仕事を見ているように、というのがキャロライナからの命令だ。

 理由は分からぬが、キャロライナは今のところ自分を可愛がっているらしい。セブンポットはその自覚があった。最高幹部に気に入られているという事実は、この組織で見下されず自由に過ごすため必要な錦の御旗である。ここで余計な真似をして相手の機嫌を損ねるのは、絶対に得策ではない。

 とはいえ……あまりにも退屈である。せめてスマホでも持っていれば。前のものは置いて来てしまったし、取りに帰ろうなどという気には絶対ならない。キャロライナに頼めば持たせてもらえるだろうか。セブンポットは、もう見飽きるほど見た周囲の景色を、うんざりしながらもう一度眺めた。

 駅の周り。中学の頃は、それなりに店も多かった場所。今はほとんどシャッターが閉められ、そこにスプレーで落書きが施してある。一番手前の店はたこ焼き屋だった。隣にパン屋。反対側にはドーナツ屋。その隣には花屋、そして小さな服屋……今はひとつも残っていない。

 皆出て行ったか、商売が立ち行かなくなったのだろう。当然だ。治安も悪く、平均収入も低く、住めば誰もが不幸になる呪われた町。それがこの東堂町。二十三年前、そう決まったのだ。いや、そう決めたのだ。世の中全てが。

「……ねぇネロ、何なの。暴れたがってたくせに」

 隣の男に……スコヴィランの戦士がひとり、ネロ・レッドサビナに、いい加減しびれを切らしたセブンポットは問うた。

「省エネモードはいいけどさ。頭の方まで省エネになってんじゃない?」

 嗚呼、だが、ご存知の方もいるだろう。ネロという男は、身の丈三メートルはある力自慢であるはず。だがこの男は、どう見繕っても百六十、七十センチ程度の背丈しかない。おまけに肉体は枝のように萎れ、軽い荷物すら持てるようには見えない状態である。これはいかなることか、それを説明する為には、時間を少しだけ遡る必要があるだろう。




「……さて。全員揃ったし、ミーティングを始めましょうか。カイエン、改めて昨日は初出勤お疲れ様」

 昼前の会議室。昨日のようにホワイトボード前に立つキャロライナは、大いに満足気な表情でカイエンに言った。

「嫌味ね? 俺のプリッキーがすぐ倒されたけんが」

「あら、ワタシのこと誤解してない? 褒めてるのよ素直に。欲を言えば東堂町内で暴れさせてほしかったけど、まぁ隣町に少し入った程度なら許容範囲内です。ワタシもそこまで言ってなかったから」

 そう言う傍ら、キャロライナは三人の幹部達にホチキス留めされた紙束を配り始めた。昨日と同じくカイエンの対面に座ったセブンポットは、手を伸ばしてそれを受け取った。

「何これ?」

「うが……も、文字」

「大丈夫よ、これから説明するわ。これはワタシが昨日インターネットで調査した資料です」

「インターネット」

 パソコンやプリンターまであったとは。やはりその金はキャロライナが出しているのだろうか。余計な心配をしながら、セブンポットは資料に目を落とす。どうやらニュースサイトを印刷したものらしかった。

『××県でプリッキー出現 死者二名 二十三年振り』

 記事の一番上に貼られているのは、民間人が撮影したと思しきやや荒めの写真。見上げるようなアングルで、カイエンが昨日出現させたプリッキーを撮っている。本文を見れば、昨日の騒動についてより詳しい状況が書かれている。中吉駅付近でプリッキーが出現したこと。怪我人と死者が出、建物が多数半壊、もしくは全壊していること。現在は消滅していること。スイートパラディンと思しき少女二人組によって倒されたという未確認情報があること。政府が「状況から総合的に判断し、プリッキーである可能性を視野に入れながら調査を進めていく」とコメントしていること。

「読んだら次のページも見ていって」

「うが、わ、分からん」

「ネロ、深く考えなくていいのよ」

 キャロライナに言われるまま、セブンポットらは次のページをめくる。

『【悲報】プリッキー、二十三年振りに復活……これはガチでヤバイだろ……』

 それは、ネット上の書き込みをまとめて記事にする、いわゆるまとめブログを印刷したものであった。ニュースサイトをコピー&ペーストした記事を冒頭に貼りつけており、特に目新しい内容は無い。その下にはアスキーアートが貼りつけてあり、「これまた沢山死ぬんじゃねえのか……スイートパラディンが何とかしてくれるんですかね……」という、何の参考にもならない管理人の感想を代弁している。

 次のページは、その記事のコメント欄であった。

「ス コ ヴ ィ ラ ン 、 襲 来(二十三年振り二度目)」

「まーたテロリストが量産されるのか」

「東堂町もろとも消し飛べばいいよ、あそこキチガイしか住んでないから」

「カスが死にまくって今日もメシが美味い もっとやれ」

「そしてまた散々殺しまくってから『僕は操られてただけでーすwwwww悪くありましぇーんwwwwwww』とか言い出すんだろうな 死ねばいいのに」

「犯罪者予備軍の巣窟 東堂町の実態」

「そら(プリッキーに家を潰して貰えば)そう(国から金貰えてボロ儲け)よ」

「闇のエネルギーまみれのあの町を放っておくからこうなる さっさと全部焼き払って除染しろ 今あそこの農作物食ってる奴もどんどん汚染されてるから覚悟しろよ」

 見渡す限り、プリッキーになった者に対する、あるいは東堂町自体に関する、お世辞にも知性が高いとは言えない書き込みが続く。もっとも、この程度ならインターネットで検索すれば以前からいくらでも見られたが。

 更に次のページ。別のまとめサイトの記事。

『被害者「プリッキーが出た! ヤバイ! 助けて!」→政府「プリッキーか分かんねぇから助けねぇわwwwwwwwwwww」←は?』

 先程のまとめサイトと、情報源は全く同じ。ただし、政府の発表を大幅に曲解して取り上げている。コメント欄は先程の誹謗中傷に加え、国の無能を叩く内容やそれに反論する内容で大いに盛り上がっていた。

 その次のページは、百四十文字のつぶやきを投稿するSNS、ヒウィッヒーのつぶやきをまとめたもの。事件当日たまたま中吉駅付近にいたと思われるユーザー達が、写真をいくつもアップロードしている。破壊された家、道路、公園。プリッキー。駆けつけるパトカーや消防車、救急車。復旧工事の様子。そして、忌々しいスイートパラディン。彼らの中では、スコヴィランの、そしてスイートパラディンの復活は最早確定事項らしかった。様々な立場のユーザーが持論を述べ、それが拡散されては別の立場の者に叩かれ、終わらない議論を喧々諤々と続けられている。

「……な、何ねこれは。コイツらこげんかこつばっかしよっとね」

「えーっと……これどんくらい続くの?」

 段々と不愉快さが募ってきたセブンポットは、思わずキャロライナに訊ねた。キャロライナはにこりと笑うと、逆にセブンポットへ問い返す。

「どう思った? セブンポット」

「……どうもこうも。ネットじゃよくある光景って感じ」

「カイエンは?」

「俺はインターネットやら全然見たこと無かったばってん……ファクトリーの奴らは下らんことばっかりするばいね。特にほれ、プリッキーに関してアレコレ言いよる奴がおろうが。コイツら出鱈目ばっかり言いよるばい」

 カイエンは資料を指差しながら、やや早口で感想を述べてゆく。

「闇の種は人間の心ば完全に支配してから、破壊しかできんごとするモンばい? それをコイツらは、植えられた奴が自分の意思で殺しばやったごつ書いちょる。しかもいっぺん植えられたらソイツはサイコパスになるやら書いちょるばい? いくら何でんあげん小さかモンにそこまで影響力あるもんね。考えたら分かろうもん」

 カイエンの声に、段々と力が入っていく。一体この男は誰の味方をしているのだ。セブンポットの視線は若干冷ややかであった。

「よぉ知りもせんとに知ったごつ色々書いてから……ほれ、コレとか見てみぃ、他の奴から正しかこと指摘されたら逆ギレしよるばい。何ねコイツらは」

「分かった? カイエン」

 カイエンの反応をひと通り見て満足したか、キャロライナがそこで口を挟んだ。

「昨日言った通りでしょう。不幸は、幸福よりずっと強いの」

「……どげん意味ね」

「あら、まだ分からない?」

 キャロライナは実に愉しげに、自分の手元にある資料をヒラヒラと振ってみせた。

「二十三年前より遥かにワタシ達有利ってことよ、このゲームは。アナタがたかだかプリッキー一体出しただけで、インターネットじゃこの大騒ぎ。ファクトリーの幸福は、爆発的に増えた不幸がどんどん食い潰していくわ」

「……あ。スイートファウンテンが」

「そうよセブンポット。幸福を感じる人が減れば、ただでさえ出ないスイートファウンテンのお菓子がもっと減って、ショトー・トードの飢餓は深刻になるでしょうね」

「……兵糧攻めっちゅうことね。気ん長か作戦たい」

 カイエンは腕組みをした。

「東堂町でプリッキーを出す、って所がポイントなの。人間達は間違いなく二十三年前を思い出す。そして、東堂町とプリッキーをどうしても結び付けたがるわ。この意味が分かるわよね、セブンポット?」

「……分かるに決まってんでしょ」

 セブンポットは吐き捨てるように言った。そう、何ということを考えるのだろう、このキャロライナという女は。世界を破滅へ導くのスコヴィランの作戦に、あろうことか……差別を絡めるとは。二十三年前から脈々と受け継がれ、インターネットに移り住むことで潜在化、慢性化し、若い世代へも感染していった病。プリッキーとされた者、ひいては東堂町の住人全体を犯罪者のように扱い、遠ざけ、囲んで叩く……いわゆる『プリッキー差別』を。

「ファクトリーの人間は、おかしな人を見つけていじめるのが本当にお好きだわ。ここにいるみんなは、それを身をもって体験したでしょ?」

 会議室に流れる、重苦しい沈黙。キャロライナはニタリとしたまま資料をめくる。

「そしてね、幸福はどうだか知らないけど……不幸は連鎖するの。ひとつの不幸が、更なる不幸を生むのよ。ほら。資料の最後のページを見てちょうだい」

 セブンポットは、最後の一枚をぺろんとめくった。まず目に入ってきたのは、新聞記事。地方紙と思しき新聞の、ごく小さな切り抜き記事であった。

「新聞もとってるの?」

「いいから読んでごらんなさい。プリッキーのニュースに流されて、ほんの小さな扱いだけど」

 セブンポットは目を細め、その小さな文字を認識してゆく。

『××線、人身事故で一時運転見合わせ』

 見出しはただそれだけ。昨日の夕方、中吉駅で人身事故が発生したため、電車が大幅に遅れた。それだけの話である。そしてその記事の下には、ヒウィッヒーの書き込みが抜粋してある。

「飛び込み自殺とか初めて見た!!!!! 男の人が飛び込んでた!!!!!! やば!!!!!!!」

「サラリーマンっぽい人が飛び込んだらしい。早く帰りたいのに勘弁して」

「プリッキー見て頭おかしくなったんかな」

 列挙される無責任なつぶやきをいくつか見ながら……まずカイエンが妙な唸り声を上げた。次にそれを聞いたセブンポットが、納得したように「ああ」と短く呟いた。ネロはいつまでも難しい顔で資料を見ていた。

「……昨日の男な?」

「ええ、恐らくね。可哀想に」

 キャロライナの声色は、『可哀想』という言葉から連想されるそれとは全く結びつかなかった。

「思い詰めちゃったのねぇ、これからの人生お先真っ暗だって。当然よね? 仕事もクビになるだろうし、近所でも悪い噂が立つでしょうし。あれだけ野次馬がいれば、顔写真と名前がネットで出回るかもしれないわ。再就職先でプリッキーのことがバレたら? 友達に知られたら? 家族にどんな迷惑がかかるのかしら? この人結婚してたのかしらね? 相手のご両親はプリッキーに寛容かしら? っふ、ふふふ」

 その笑い声は、セブンポットにとってすら、心底不気味であった。

「……お陰で電車が止まって、不幸を味わう人間がまた増えたわ。素晴らしいわね。その全てがショトー・トードの苦しみに繋がってると思うと。アナタの働きよ、カイエン? これからもジョロキア様の為、一生懸命働いてね?」

 キャロライナからも資料からも視線を逸らし、カイエンはいたたまれない表情をしている。

「……さ、ネロ。退屈だったでしょ? 今日は出掛けておいでなさい?」

「ウガっ!」

 名前を呼ばれたネロは資料の束をビリと破り捨て、ぱっと明るい表情と共に身を乗り出した。

「オレ、壊していいのか!?」

「うーん、アナタは暴れちゃダメなの。プリッキーに暴れさせるだけ」

「うが……オレ、つまらない……」

「我慢よ、ジョロキア様が元気になったら、この前みたいに沢山暴れられるわ」

「うぅ……ジョロキア様、早く元気なれ……お菓子食べろ……」

 大男がみるみる萎れてゆくさまは、セブンポットにとって多少滑稽でもあった。

「じゃあ、セブンポット。今日も一緒に行っておいでなさい。先輩の見学、バッチリしてきてね」

「……了解」

 この総身に知恵が回っていなさそうな男がどの程度参考になるのかは分からないが、キャロライナが言うのならセブンポットはそう答えるしかない。

「じゃあ、ネロ。基本的に『省エネモード』で行ってもらうわね」

「ウガ……分かった」

 キャロライナの命ずるまま、ネロは頷く。省エネモード。まるで電化製品か何かのような呼称だが、まさかこの男は変形でもするのか。そう思って様子を見ていた結果、現れたのが……現在の、どこからどう見ても強そうには見えないこの姿である。流石のセブンポットも、目の前で変身されなければ同一人物だと分からなかったであろう。全身を炎でゴウと包んだ彼が再び姿を現した時は、既にこうなっていたのだ。

 キャロライナもカイエンも、廊下で待機していたアナハイムでさえも特に驚かなかったということは、これが当たり前なのだろう。確かに言われてみれば、あの巨体は存在を維持するだけでもエネルギー消費が凄まじいはず。それなら会議に出る時も省エネモードでいれば良いだろうに。セブンポットに生じたその疑問は、しかしすぐに解消された。信じられないことに、ただでさえ鈍いこの男の頭は、省エネモードだと更に鈍るのだ。受け答えすらまともにできず、口癖の「分からん」すら言えないほどに。

 ……カイエンより更に難儀な男と組まされた。そんな思いを胸に、セブンポットは彼とアジトを出……現在に至る。

「このままじゃ夜になるよ」

 散々待たされているセブンポットは、その苛立ちが口調に表れていた。

「アタシはさっさとさ、アンタの仕事っぷりってヤツを――」

「!」

 その時、それまでぴくりとも動かなかったネロが突然顔を上げ、辺りをしきりに見回し始めた。

「……何?」

「……におい」

「におい?」

 セブンポットには、ネロの言う意味が分からなかった。クズの臭いならするかもしれないが、それ以外に特徴的な香りが漂っているとは思えない。セブンポットが困惑していると、ネロがその震える右手で何かを指差した。

「……ああ。アイツ?」

 ネロが指差す先には、駅を出てとぼとぼと俯き歩くひとりの少女がいた。中学生か高校生と見えるが、周囲のいかにも馬鹿そうなガキ共とは明らかに雰囲気が違う。

「あの制服、マリ学のヤツだわ。しかも高校。カバンが違うもん」

 マリ学、つまり聖マリベル学院。隣町にある、中高一貫の私立学校。セブンポットが東堂中に通っている頃から、それなりの難関校として知られていた。合格発表の時期になると、進学塾はマリ学に何人通したと自慢げに貼り出していたのが思い出される。最近は小学校もできているらしい。

「優秀なお嬢様ってわけ……アイツがターゲットってこと?」

「においが、する。やみの、におい」

「……へーぇ」

 におい。ネロは確かにそう表現した。見た目がどうこうというのではなく、この男には闇の強い者がよりハッキリ分かっているということか。つまり、闇の種を植えた時、より凄まじい怪物と成り得る者が。

「……野生の勘? みたいなヤツ?」

「うおぉッ!」

 その瞬間、ネロは何の構えも無しに突然走り始めた!

「えっ、ちょ!」

 これまでが嘘のように素早い! セブンポットは慌てて後を追う! ネロの狙いは、当然あの女子高生! 一直線に彼女の元を目指し、邪魔な通行人を突き飛ばす!

「うお、チッ、オイ、んだよオッサン」

 しかし、突き飛ばす相手が悪かった。どう見てもガラの悪そうな、二十代程度と思われる若い男。プリンのような頭をした女を脇に連れている。省エネモードのネロは、あっさりとこれに肩を掴まれてしまった。

「なぁ。何だよテメェいきなりよぉ」

 女に強さを見せつけたいのか、男はネロに無理矢理自分の方を向かせると、必要以上にドスを利かせて脅しつける。対するネロは答えず、その死者のような目でじとりと男を見つめ返していた。

「人をよぉ、いきなり突き飛ばしたりしてよぉ。危ねぇだろオッサン」

 少女が遠ざかっている。追うべきだろうか、それともネロを一旦救出すべきか? ネロは抵抗も何もせず、じっと男を見ているばかりである。

「オイ。テメェに言ってんだぞ。聞こえねぇのかよ乞食。あ?」

 あまりにも返事をしないネロに痺れを切らしたか、男はネロを突き飛ばし、転倒させた。周りの人々は、関わり合いにならないよう距離を取り始めている。少女はといえば、こちらをちらりとも見ずどんどん遠ざかっていく。仕方ない、一旦ネロを何とかしよう。迫力をこれでもかと出してみせる男へ、セブンポットは近付いてゆく。

「あのさ――」

「なぁ。頭悪ぃの? 返事くらいしてくんねぇかなぁ」

 だが、その時であった。地を転がっていたネロが、不意にギラリと目を光らせ、男を睨んだのは。男は何とも思わなかったようだが、ネロから感じられる魔導エネルギーが爆発的に増加している。セブンポットが思わず足を止めるほどに。

「もういちど、いえ」

「は?」

「いま、なにいった」

「ふはっ、ウケる」

 隣の女がたまらず噴き出した。

「面白ぇなオッサン。なぁ、ちゃんと聞こえるようにもういっぺん言ってやるよ」

 男はしゃがみ込むと、実にゆっくりと、そしてハッキリと言った。

「あのな。オッサンはぁ、話しかけても返事できないくらい馬鹿――」

「馬鹿って言うなァ!」

 一瞬であった! ほんの瞬きの間に、男の後頭部は歩道のアスファルトに叩き付けられ、砕けていた! 目にも留まらぬ速さで飛び掛かったネロが男の顔面を掴み、そのまま地面へ振り下ろしていたためである! 見れば、ネロの右腕の袖が破け、爆発的な筋肉が露わになっている! 女の悲鳴! 何が起きたかまだ分かっていない周囲の人々!

「あっ、ちょ、いいのそれ?」

「ウオオーッ! オレを馬鹿って言うなアァーッ!」

 ネロの全身が、暗黒の炎で燃え上がる!

「臓腑も灼ける憎悪の辛みィ! 噛みしめよォッ!」

 セブンポットの頭に、二十三年前の記憶が浮かんだ! そうだ、確かこの男は、自分の頭の悪さを馬鹿にされると……

「魔王ジョロキアがしもべェ! 魔界より舞い降りし破壊の化身ンン! ネロ・レッドサビナぁァーッ!」

 明らかに彼の知性に見合わぬ名乗り口上を、ネロはすらすらと言い切った! そしてそこに現れたのは……身長三メートル、全身を筋肉の鎧で覆い、上半身裸でスキンヘッドの大男! 後頭部を砕かれた男の足首を、彼は大きな右手で握り! 酷く興奮しながら、棍棒めいて地面に叩き付け始めた!

「ウオッ! ウオッ! ウオォーッ! ウガァ! フンハァーッ!」

 たちまち単なる肉塊と化していく男! 四度目に叩き付けた時には、既に全身が有り得ない方向に曲がっていた! 悲鳴を上げる女! そして野次馬!

「ウガアーッ!」

 ネロはそのままその場でぐるぐると回転し、ハンマー投げの要領で男の死体を……放り投げた! 窓を盛大に破壊し、死体は空き店舗の二階へ転がり込んでゆく!

「ね、ネロ? 落ち着きなって。アイツはどーすんの」

 突然目の当たりにしたスプラッターホラーめいた惨状であったが、セブンポットは逆に冷静になりネロを諭す。

「……ん! そうだった!」

「でしょ、ちゃんとしないとキャロライナに怒られるって」

「キャロライナ、怒る! よくない!」

「でしょ? ね?」

 幸いにも、ネロの頭に上った血は段々と落ち着いてきたようであった。

「キャロライナがちゃんと褒めてくれるようにさ、プリッキー作んな――」

「ウガァーッ!」

 だが、気持ちを切り替えたネロは、次の行動に移るまでがあまりにも素早かった!

「オレ、強いプリッキー、つくる! キャロライナ、オレ、ほめる! ウガァ!」

「ちょちょ、待ってってば!」

 野生児のような四足走行で、ネロはロータリーを突っ切り、道路へと飛び出す! 走っていた車を突き飛ばし、歩道へと転がす! そのまま一直線に、先程少女が入って行った裏通りへと飛び込んでゆく!

「あーもう面倒くさいアイツ! カイエンのがよっぽどマシ!」

 悪態をつきながら、彼女は軽く助走をつけ……次の瞬間には、つむじ風を残して消えていた。

 果たして今のは現実だったのか、それとも夢なのか。理解できぬ現象が一度に起きた目撃者達は、誰もが己の胸に問いかける。そして一分も経たぬうちに……嫌でも分かった。ここまでの出来事すら、これから始まる悪夢の序章に過ぎなかったことを。

 ドゴォンと大きな音。吹き荒れる爆風。駅から少し離れた住宅街の中から、もうもうと上がる赤色の煙。禍々しい赤色に染まる空。そして立ち上がる……巨大な影。

『プリッ……キイイィィィイイイーッ!』

 災いを想起させる邪悪な声が、今再び、東堂町に轟いた。

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