プロローグ[Side:B]

 ベルトコンベアに乗って、右から円いプラスチックのデザートカップが流れてくる。その中を三分の一程満たしているのは、小豆を甘く煮たもの、いわゆるぜんざい。その上にホイップクリームを規定量絞り出すのが、彼女の仕事だった。

 白い作業着に白いゴム手袋、その上からビニール手袋を二枚重ね。頭全体から首にかけて、頭巾のように覆う白い帽子。鼻から下を隠す立体マスク。死者のような目元以外、彼女の容姿は窺い知れない。

 彼女の右側には青いカゴ。その中には、クリームで満たされた何本もの絞り袋。残量から考えても、この作業があと一時間は続くと見てよいだろう。うんざりするという心すら、最早彼女の中からは失われつつあった。無の境地というものがもしあるのならば、丁度今の自分のような状態を指すのであろう。彼女は時々そう考えた。

 ぜんざいとクリームを乗せたデザートカップは、そのまま左へと流れていく。そこには別の白づくめが待機しており、折角乗せたクリームの上にもう一度ぜんざいを敷いていく。彼とてやりたくてクリームを隠しているのではないし、自分こそやりたくてぜんざいの上にクリームなど乗せているわけではない。それが仕事だからだ。それが終われば、その上にさらに白玉団子を三つ乗せる係が待っている。その先にはドーム状のふたを閉じる係がいて、そのふたをテープで留める機械があって、重さが商品として適正か計る機械があって……どうでもいい。その先のことは彼女の知ったことではない。この『ホイップクリーム白玉ぜんざい』を誰が食おうが、それが美味かろうが、不味かろうが。一秒に一個以上のペースで流れてくるぜんざいにクリームを乗せられるか、自分がこのラインを止めてしまうことはないか。それだけがもっぱら彼女の関心事である。

 彼女のような心境で仕事をしている者が、この『トッピング室』には何人もいる。壁も床も白く、窓も無く、やたらと気温が低いこの部屋に存在しているのは、十三ものベルトコンベア。各コンベアの隣に少なくとも五名、多ければ二十名ほど人間が並び、自分が食べるわけでもない惣菜やスイーツを黙々と作り、近所の大手コンビニチェーンへと送り出し、それで毎月、あるいは毎週僅かな金を得、暮らしている。夜の十時から朝の七時まで、一時間の休憩を挟んで合計八時間。それを週五日。それがここにいる者達の人生である。

 コンベアの動くゴンゴンという音に紛れ、ぺちゃくちゃと喋り声が聞こえてきた。隣のラインの中年女性達である。「作業中は静かに集中」というのが一応の決まりだが、作業の手を止めない限りは実質黙認されているし、彼女もいちいちそんなことを咎めるつもりはない。あそこの中年コンビのトピックは、そのほとんどが噂話か悪口だと決まっている。派遣社員が使えない。若い正社員が使えない割に偉そうだ。誰々と誰々が派閥争いをしている。パートの誰々が離婚したらしい。別のラインの中年男が若い女に手を出している……。

 クリームを絞り続ける彼女が、こういった会話に参加することは無い。いや、その言い方は正確ではないだろう。後ろの中年パート達とも、同じラインのパートとも、派遣社員とも、無論正社員とも。彼女は業務上必要がある場合を除いて会話をしない。

 より、誰にでも伝わるように、ハッキリと言い換えるならば。丁度七年ほど前にここで夜勤パートを始めた彼女は、はじめから今まで一貫してそのように過ごしてきた。百人以上が同時に働いているこの工場で、クリームを絞り続けている彼女には、ひとりも、ただのひとりさえも。気軽に話せるような友達がいなかった。

 彼女は、この世界に、たったひとりであったのである。




 コンビニの袋に缶チューハイを入れ、彼女が自宅に帰り着いたのは、朝の八時頃であった。ワンルーム賃貸マンションの六階、つまり最上階。カーテンの閉め切られた薄暗い部屋が、彼女を出迎える。脱ぎっぱなしの服に、床に散らばる空になったコンビニ弁当やカップ麺、そして安酒の空き缶。出し損ねたゴミ袋から漂う異臭も、嗅ぎ過ぎて慣れた。今はまだいいが、これから暖かくなれば小バエも出迎えてくれるだろう。

 玄関の鏡には、しけた面の女が映っていた。ところどころに白髪の交じる短い髪は、潤いを失ってパサパサ。濁った目の下にクマ。肌荒れも酷く、魂が無いような表情。まさにこの部屋の主に相応しいと、彼女はこの顔を見るたびに自己嫌悪に陥った。

 彼女は靴下を脱ぎ散らかすと、ベッドに腰掛けた。そのまま流れるように安酒の缶をプシッと開け、ひと口飲む。九パーセントのアルコールが彼女の頭をぼんやりさせ、様々なストレスをどうでもよいことのように感じさせていった。部屋の汚さも。嫌味を抜かしてきた正社員の顔も。未来の不安も。吐き気のする過去も。

 彼女は荷物からもうひとつ何かを取り出した。本来なら出荷されコンビニに並ぶはずの、チョコレートムース。別のラインで作っていた商品だが、作り過ぎた余り物であったり、出荷できない不良品であったりは、工場の従業員が安く買うことができる。出来損ないのスイーツを、彼女はよく買って帰っていた。

 プラスチックの小さなスプーンで、彼女はそれを口に運ぶ。まあ、それなりに口当たりがよくて。まあ、それなりにチョコレートの甘さが広がり。まあ、それなりにトッピングの生クリームと絡まり。まあ、それなりに食える代物。どこでも買える大量生産品。いつ食べても大体同じ味。食べている者が幸せであろうが、不幸であろうが。

 もう一度ガバガバとチューハイを流し込む。グレープフルーツ味の、大して美味くもない酒。チョコレートムースとの組み合わせは、酒に一家言ある者が見れば眉をひそめるだろう。だがそのような人間はそもそもこんな安酒飲まないであろうし、彼女は別に酒好きではない。素面でいるのが辛いから、手っ取り早く酔えるよう飲んでいるだけである。

 壁にもたれかかり、白い天井をぼんやりと見上げる。つまらない、何の意味も無い一夜だった。昨晩も、その前も、そのまた前も、恐らく次の晩も。店頭に並ぶコンビニスイーツの方がまだ価値がある。もっとマシな人生になるはずだった。確か中学生くらいの頃まで、本気でそう思っていた。飲んで寝て工場のパーツになるだけの暮らしが待っているなんて、あの頃ほんの一瞬でも想像しただろうか。何処でこうなった。嗚呼、酒が足りていない。ぐるぐると回る思考の渦を押し流すように、再びチューハイを飲む。もう既に若干気分が悪い。彼女は決して酒に強い方ではなかった。

 彼女はよろりと立ち上がると、窓へ向けて歩いて行った。ガラガラと窓を開けると、誇りと異臭の部屋に下界の汚い空気が流れ込む。四月とはいえ、風はまだまだ冷たい。だが、この気分を多少マシにするには丁度良かった。スリッパも履かずにベランダへ出ると、彼女は深く息を吸い、そして吐いた。そのまま柵へぐらりと寄りかかると、じっと下を見る。そこにあるのは、覗き込む者を吸い寄せる不思議な魅力を放つ、コンクリートの地面。

 今、ここから落ちたらどうなるだろう。彼女はしばしば想像する。頭から行ったらまず助かるまい。足から行ったらどうだろう。ひょっとすると命までは落とさないかもしれない。いや、生き残ったら生き残ったでかえって苦しかろうか。どう考えても命に関わる大怪我をすることになる。今の自分は単なる人間なのだから、無傷でズンと着地というわけにはいくまい。口惜しい、あの頃なら、このくらいの高さ――。

「――ァァァぁぁぁぁぁぁ」

 彼女の思考は、前方斜め上より聞こえてくる甲高い声によって中断された。男の裏声のような叫び声。それも段々近付いてくる。彼女は顔を上げ、そして声の正体に気付いた。

「ああああああああああああああああああ!」

「でえェッ!?」

 これは酒が見せる幻覚か!? 何かが猛スピードで飛んで来ている! しかも真っ直ぐ彼女の顔面へ向かって!

「ちょ、待っどぁっ!?」

 彼女は避けようとしてよろめき、後ろ向きに倒れた! くしゃくしゃになった服の海へ無様に突っ込む女! 謎の飛行物体も空中で回転しながら彼女の部屋へ突入! ゴミの山を盛大にひっくり返して不時着した!

「うっゲホッゲッホォ!? く、臭いッチ! うわ何だこれ汚すぎるッチ!」

「あ、あ……?」

 どこか聞き覚えのある、作ったような声。混乱冷めやらぬ頭の中で、彼女の頭を襲う既視感。彼女はガバと体を起こすと、ゴミの中で悪態をついているその小さな生き物を見た。

 飲み過ぎて夢か幻覚を見ているのか? いや、この痛みは間違いなく現実だ。片手に乗りそうなサイズで、青くて、モコモコしていて、クマだかネズミだかのぬいぐるみのようだかれども、確かに生きている。彼の名は――。

「……?」

「ゴミ捨て場か何か……んあ? チョイスのこと知ってるッチか?」

 間違いない。何も変わっていない。あの頃と、自分が一番輝いていた頃と。

「チョイス! 忘れたの? アタシ! ナナ! 瓶井みかいナナ! 十四の時東堂町でアンタと一緒に戦った! アンタのお世話してやった! スイートチョコレート!」

「……え?」

 チョイスは二秒ほどぽかんとした面でナナを見つめ、

「いやいやそりゃ無いッチ、だって見た目が全然」

「ちょ、失礼ね! 何年? 二十……三年? そんくらい経ってんだから当たり前でしょ! むしろ見た目が変わってないアンタのが気持ち悪いわ!」

 ナナは大きく息を吸い込み、

「チョイス! 女王ムーンライトに仕える一族の出身で、自称ショトー・トードの勇者! 意地っ張りの見栄っ張り! わがままで偏食家! 寝てても起きててもガーガーうるさい! 恋人は同じく自称ショトー・トードの賢者、マリー! 所かまわずイチャイチャする! 好きなお菓子はバターたっぷりのビスケット! ……どう? 他人に聴かれたくないアンタの恥ずかしい話でもしようか?」

 その場で思い出せるチョイスのプロフィールを一気にまくし立てた。チョイスは愕然とした顔でナナを見ている。

「……信じられないッチ……まさか、本当にナナッチか?」

「だからそう言ってんじゃん」

「た、たった二十三年でここまで変わるッチかファクトリーの人間は。女王様は何千年も生きてるけど全然見た目変わらないッチよ?」

「一緒にしないでよ、女王様って神様みたいなヤツじゃん。アタシは人間だからフツーに年取るの……」

「それはチョイスのフツーとは違うッチ……えっ、あの、ナナ? どうしたッチか?」

 チョイスはギョッとした。ナナの目がうるみ、そこから涙がこぼれていた。

「……フツーに、年取っちゃったじゃん……馬鹿」

「な、ナナ?」

「……なんでもっと早く来てくれないの、アタシもうオバサンになっちゃったよ」

「えっ、そんなこと言われても……何もないのにファクトリーには来れないッチ」

「あったよ」

 声を詰まらせながら、ナナが絞り出すように言う。

「いっぱいあったよファクトリーでは。アタシも嫌なこといっぱいいっぱいあった。誰も助けてくれないし。誰にも相談できないし。こんなクソみたいな世界に、たったひとりで、アタシ」

「い、イヤ、流石にひとりってことは無いッチ? ほら、お母さんとかお父さんとか、ああ、あといづみとか――」

「頼れるわけないでしょあんなん!」

 ナナがあまりにも突然叫ぶので、チョイスは思わずその場で飛び上がってしまった。

「ノイローゼのババアと他所に女作ったジジイに話すことなんかあるか! そんで!? いづみ!? ハァ!? 相談なんか絶対するもんかあんな売女に!」

「な、だ、だっていづみは、スイートキャンディはナナの大切な親――」

「アタシが好きだって言ってた男と陰でセックスしてたような女をォ! 親友とか呼ぶわけないでしょお!」

 その場に落ちていた空き缶を壁に投げつけ、ナナはゼエゼエと息を切らした。

「……その、ああ、好きな、って、あの、淳児、とかいう」

「あーもうその名前も聞きたくない、最低」

 喚き散らして燃え尽きたか、ややローテンション気味にナナは言った。

「アタシ中学卒業する時さ、引っ越して県外の高校行くことになったのね。その時最後のチャンスだと思って告白したのにさぁ……ごめんって。まあいいよそれは。やっぱアタシなんかじゃダメかって諦めたよ。でもその時点でさ。ふたりは付き合ってたわけ。というかそもそも中二の頃から、アタシとあの女が一緒に戦ってた頃から付き合ってたって」

 チョイスは、ナナの話を沈痛な面持ちで聞くしかなかった。

「アタシがあの男好きって言ってさぁ。応援するって言ったのにさぁ。こっちはホントに親友だって思って……なのに、アタシの気持ち知ってて、隠して、陰で馬鹿に……うゥーッ……」

「も、もう分かったッチ、チョイスが悪かったッチ」

「高校でも友達できなくて、大学でもテキトーな男と付き合っちゃ別れて」

「あの」

「最初に就職した会社で心壊してからは酒と薬がお友達ってね」

「ご、ごめんッチ。余計なこと言ったッチ」

「その間さぁ。感謝なんか一回だってされなかったよ」

 ナナはゴミの山の上を四つん這いになり、じりじりとチョイスへにじり寄る。

「アナタが世界を救ってくれたんだね、みんなの命を助けてくれたんだねって。アナタのお陰で自分は今日も生きていられます、ありがとうって……だーれも感謝しないで、アタシを馬鹿にして」

 後ずさろうとするチョイスだったが、後ろは壁。追い詰められたチョイスに、ナナは顔をずいと近付けた。

「気付いたらさぁ、単なる底辺酒飲みメンヘラおばさんになっちゃってたじゃん。どうしてくれんの?」

「そ、そんなこと言われても……チョイスは悪くないッチ」

「アンタをさ、待ってたんだよ。せめてもう一度スイートパラディンになれたらって」

「えっ――えあッ!?」

 逃れようとするチョイスをナナは両手でがしりと掴んだ。ナナの顔が近い。ぐしゃぐしゃのまま力無く微笑む、よく見れば小皺の入った顔が。

「は、放すッチ」

「そしたらもう誰もアタシを馬鹿にできない。守ってやるから金寄越せって国に言って。クソみたいな仕事もしなくてよくて。こんな狭くて汚い家にも住まなくてよくて。フフ、人生大逆転じゃん」

「やめ、やめてくれッチ」

「ねぇ、そうじゃん。チョイスが来たってことはさ。また世界が危ないんでしょ」

「え。あの、そ、そうだッチ、スコヴィランが――」

「ほら。やっぱりアタシの力が必要じゃん。プリッキーもスコヴィランの戦士もブッ殺して世界を救えるのは、アタシ以外誰もいないんだから」

 チョイスは既に全身を震わせ、ぽろぽろと泣き始めていた。あまりにも、あまりにも違う。本当にこれがあのナナだというのか。

「チョイス。ブリックスメーターは?」

「は、え」

「ムーンライト・ブリックスメーター。持って来てるんでしょ。アタシの為に」

「い、イヤ、アレは」

「持って来てるかって聞いてんの。隠してんのどっかに?」

「ち、違うッチ、ちゃんと持って来てるッチ! 多分さっき不時着した時に、その辺にひッ」

 命の危機を感じたチョイスは、指の無い手で咄嗟にゴミの山を指した。ナナはチョイスを部屋の隅へ放り投げ、ガサガサとその辺りを漁り始めた。その鬼気迫る表情に、チョイスはただ黙ってそれを見守ることしかできなかった。

「……ああ、あったあった」

 数秒のうちに、ナナはそれを見つけ出した。白とピンクを基調とした、全長およそ二十センチの筒状機械。先端は竹を斜めに切った断面のように尖っている。あの頃と変わらぬ、懐かしい変身マジックアイテム。ムーンライト・ブリックスメーター。

「ね、見てて。変身するから。名乗り口上とかも完璧に覚えてるよ」

 ムーンライト・ブリックスメーターを右手に握り、ナナはふらふらと立ち上がった。

「ナナ」

「大丈夫だって、何回でも世界救っちゃうよ。ひとりの時は……あ、そうか。こう両手で柄を握って、とんがった方を上にして、掲げて……なんかちょっと恥ずかしいな」

 ナナは記憶を辿り、パートナーが隣にいない時に使用するひとり用変身ポーズを取る。

「よーしチョイス、そこで安心して見てなさい。魔導聖騎士スイートチョコレート華麗に大復活よ」

「な、ナナ、その」

 そして口元を引きつらせたように下手な笑い顔を作って見せると、高らかに叫んだ。あの一年の間に何度も口にした、そしてその後も苦しい時に何度も呟いたあの始動ワードを。

「メイクアップ! スイートパラディン!」

 彼女の周りに光のドームが……形成されない。

「……あれ、なんか間違えた? ……メイクアップ! スイートパラディン!」

 先程投げたチューハイの空き缶が、カランと音を立てて転がった。彼女の口元がわななき始める。

「……呪文変わった?」

「……変わってないッチ」

「え、あ、じゃあ今落っこちた衝撃で壊れたかも」

「女王のマジックアイテムは落ちた程度じゃ壊れないッチ」

「あ、う、じゃあ――」

「ナナ、聞いてほしいッチ……」

 チョイスの顔は、明らかに素敵なお知らせをする者のそれではなかった。

「ねぇ、今その話聞きたくない」

「昔話した通り、それを持っただけではスイートパラディンに変身できないッチ」

「ねぇ、後にして。とりあえず変身してからでもいいでしょ」

「変身するには、いくつか条件があるッチ。チョイスも詳しくは知らないけど」

「聞いてる? その話やめてってば」

「魔導力の才能は当然ッチけど。性別が女であるか。魔導回路が女王様と共鳴しやすい形か。それから……肉体が戦いに耐えうるほど健康であるか」

「おい」

「戦いに耐えうる健康な肉体……っていうのは、病気じゃない健康体かどうか、ってことだけじゃないッチ」

「おい、黙れ」

「つまり、……――」

「やめろっつってんだろうがァ!」

 そう叫んだナナの顔は、怒りというよりも、むしろ。受け入れがたい恐怖と絶望に塗れていた。

「……何? ってこと?」

 数秒の沈黙の後、震える声でナナは問うた。

「そ、そういうことだッチ」

「何それ誰が決めたわけ、っていうか何歳まで?」

「いや、詳しくはチョイスも知らないッチけど……十四歳から十五歳辺りがピークって聞いてるッチ」

「おかしいでしょ、いいじゃん何歳でなろうが。アタシの中には、その、魔導の才能と、良い感じの魔導回路? があるんでしょ? だからスイートパラディンになれたんでしょ? 別に多少年食おうが関係なくない?」

「そんなことチョイスに言われても、チョイスは悪くないッチ」

「チョイスだって知ってるでしょ、アタシがどれだけ上手に戦ってきたか。ジョロキアだってその部下だって、みんなアタシがやっつけたんだよ。あの頃の動きは今でも覚えてる。イメトレなら欠かしたことない。それだけ考えて生きてきたんだから。ねぇ、もう一回スイートパラディンになることだけ考えて生きてきたの。アタシの夢だったの。アタシにそれ以外の才能も財産も積み上げてきたものも何もないんだから。ねぇ何とかしてよチョイス、女王に直接交渉して特例認めてもらうとかさ。ショトー・トードの勇者でしょ? ねえってば。ここで変身できなきゃアタシただの何にもなれなかったオバサンなんだよ? これから一生金持ちにもなれなくて、誰からも尊敬されなくて、救う価値も無いゴミクズみたいな世界の中で何とか夢見てるうちに今年で三七歳になるきったないババアなんだよ? なんでもっと早く来なかったの? アタシがもう一度戦えるうちに! 馬鹿みたいじゃんアタシ、それだけ、それだけ信じて今日まで……!」

 畳みかけるように喚き続けるナナを、チョイスは最早無表情で見ていた。ナナはやがて膝から崩れ落ち、床に転がる衣類へ顔をうずめると、おうおうと声を上げて泣き始めた。いつまでも、いつまでもそうしていた。

「……とりあえず、ソレ返してほしいッチ」

 やがて、泣き声がすすり泣き程度に収まった頃。チョイスが恐る恐る声をかけた。

「ブリックスメーターは、新しいスイートパラディンに渡さなきゃいけないッチ。それがチョイスの使命なんだッチ」

 ナナは返事をしない。ただうずくまったままである。

「……ナナ? もう分かったはずだッチ、返すッチ」

「…………」

「いつまで持ってても結果は変わらないッチ。別にチョイスや誰かがナナに意地悪してるわけじゃなくて、そういう風になってるんだッチ。チョイスは悪、く……?」

 ナナはゆっくりと起き上がった。しかしその視線はチョイスへと向いていない。彼女は先程飲み残した缶チューハイを左手に取ると、それを一気に、空になるまで飲み干す。缶を潰し、床に放る。そしてその足で、がさがさ足音を立てながらベランダに向かう。

「……な、ナナ?」

「いらないこんなの」

「は?」

 次の瞬間、ナナは野球選手めいて大きく振りかぶると、ムーンライトブリックスメーターを空へ向けて大きく投げた。

「ちょ、あっ、何するッチ!?」

 チョイスは弾丸めいて窓から飛び出し、一直線にブリックスメーターを追った。その背中で聞いた。ベランダから身を乗り出したナナの呪いの声を。

「壊れろそんなガラクタ! 世界も壊れろ! アタシが何にもなれない世の中なんか! プリッキーが、スコヴィランの戦士が、魔王が、全部ブッ壊しちまえばいいんだ! ショトー・トードも女王もさっさと消えろ! 死ね! 死ね! みんな死ね!」

「や、ヤバいッチヤバいッチ」

 道路に落下し、それでも傷ひとつつかなかったブリックスメーターを拾い上げると、チョイスはそれにまたがって浮上した。

「頭おかしいッチよ、これはもう逃げるしかないッチ、チョイスは悪くないッチ! と、とにかくマリーと合流するッチ! 東堂町を目指すッチぃ!」

 東堂町の方向も分からぬまま、チョイスはとにかくナナのマンションから全速力で離れていく。その様子をナナは最早目で追ってすらいなかった。彼女に見えていたのは、どこまでも続く多くの建物。そこにいるであろう、自分に無関心なあらゆる人間達。馬鹿にしているように青い空。そして、自分を呼び続けているコンクリートの地面。地面。地面。地面。地面。スイートパラディンになれないなら、もう何も取り戻せない。もう何にもなれない。ならば、

「もういいや」

 ナナはその柵を超えることに、何の躊躇も無かった。思い残しなど、後ろのごみ溜めにはひとつだってありはしない。終わり。最悪の終わり。だが、これから何年も、下手をすれば何十年も続く最低の続きよりは、何倍もマシだ。何となく幸せな瞬間もあったけれど、結局人生なんてロクなものじゃなかった。ナナは柵へと脚をかけ、そして――!

「――あら。つらさのいい香りがするわ」

 その声は、ナナの背後から聞こえた。つまり、部屋の中から。その妖艶な女の声を、ナナは知っている。ナナは片足を上げたまま、ゆっくりと振り返った。

 そこには、背の高い女が立っていた。二十代後半から三十代前半といったところだろうか。目つきの鋭く、唇のセクシーな女。ハリウッドセレブめいた黒く細身のワンピースドレスを着ており、体のラインがはっきりと出ている。ハイヒールを履いたまま……つまり土足のまま部屋の中央に立っているが、そんなことはさしたる問題ではない。ゴミ山の上、モデルのように立つ彼女は、掃き溜めに立つ漆黒の鶴を思わせた。

「久しぶりね。不幸にしてた?」

「……アンタ、まさか」

 ナナは脚を降ろし、体ごと女を振り向くと……その名を口にした。

「……?」

 キャロライナ・リーパー。スコヴィランの戦士、その最高幹部。触れたもの全てを灰に変える赤熱の魔手、スコヴィルマイクロウェーブの使い手。二十三年前に時空の狭間で戦い、ナナらによって倒され、そのまま次元の果てへ飛んで行ったはずの存在。

「アンタが、なんで」

「あの妖精が言ってたでしょ。スコヴィランは復活したの。アナタのいる場所くらいワタシにはすぐ分かるわ」

「……聞いてたのさっきの?」

「ごめんなさいね、立ち聞きする気は無かったのよ。でも外まで聞こえてたわ、アナタの声。朝からこんな、ご近所さんから苦情とか来ないのかしら?」

 キャロライナは冗談めかしてクスクス笑う。

「……で、スコヴィランのお偉いさんがなんか用? 聞いてたなら知ってるでしょ、アタシもう――」

「――スイートパラディンには、なれない」

 ゴミの中をざくざくと音を立て、キャロライナは一歩一歩ナナへ近付いて来る。距離が縮まるほどハッキリと分かる、彼女の肌の病的な白さ、そしてきめ細かさ。二十三年前という概念が形を作ってやって来たかのような姿。

「だったら」

「もう、会う理由が無い?」

 キャロライナはコツとベランダに足を踏み入れた。もう一歩コツと踏み出し、柵に手をかけ、ナナに肉薄する。

「……そんな寂しいこと言わないで。変身できないのは悪いことばっかりじゃないわ。だって」

 ふたりの顔が近付いた。

「もう敵同士じゃない。

「……お友達?」

 ナナが今最も聞きたくない単語のひとつだった。あの害獣がやって来たせいで、要らぬことまで色々と思い出してしまったというのに。

「なんでアンタと」

「分からない?」

 ナナの目の前で、キャロライナの魅惑的な唇が動き回る。

「……欲しかったの、アナタが、ずっと」

「欲し――?」

「嗚呼、アナタ忘れてるわ。心ない者にいじめられ過ぎて。さっき自分で言ってたじゃない。アナタには魔導の才能と、素晴らしい形の魔導回路、そして戦闘の経験がある。卑しいファクトリーの生活では誰にも評価されない能力。そして、アナタをないがしろにする誰も持っていない能力」

 ナナの目をじっと見ながら、キャロライナは優しく微笑む。

「今からでも、いいえ、今からだからこそ。役立てられる場所があるわ。スイートパラディンになんかならなくたって、それら全部を惜しみなく使える。アナタが今最も輝ける場所が」

 キャロライナにこれから何を言われるか、ナナは理解できた気がした。それでも、ナナは敢えて問うた。まるで、告白される直前の女のように。

「それは、どこ?」

 キャロライナもきっと、ナナが何を期待しているか知っている。そして、それを違えることは決してない。




「――スコヴィラン。ワタシ達と同じ戦士になって、復讐の為に戦うの。ワタシ達を除け者にし虐げた、このファクトリーに。そして、ショトー・トードに。究極の災いをもたらすために」




「アタシ、達」

 ナナは、キャロライナの言葉をゆっくりと反芻した。

「そうよ。アナタとワタシ達はとても似ているわ。散々この世界に、ファクトリーに苦しめられてきた。ワタシ達を苦しめるファクトリーなんて、そしてワタシ達を弄んだショトー・トードなんて、無くなればいい。そうでしょう?」

 ナナは、

「できるの。それができるのよ」

「……できる」

「そう。アナタを虐げた奴らにはできない。でもアナタならできる」

「……アタシ、なら」

「才能があるわ。やる気もあるわ。受け入れる準備も勿論ある。あとは、アナタの気持ちだけ」

 ナナをぐいと抱き寄せ、キャロライナは耳元で囁いた。

「……したいでしょ? 変身」

「……したい」

 ナナの返事を聞き、キャロライナはニタリと笑った。そして続けた。優しい声で。

「変身して何がしたいの? もっとちゃんと教えて?」

「……可愛い衣装を着て。木の上とか、ビルの合間とか、飛び回って。ヒーローみたいに着地して。武器振り回して。必殺技も……バーって撃って」

「それで?」

「……殺す」

 ナナは消えそうなほどの小さな声で、しかし力強く宣言した。

「みんな殺す。アタシに歯向かう奴をみんな。邪魔するならひとりも残さないで。ショトー・トードも消す。アタシを除け者にした女王も、女に生まれたこと後悔するくらい酷いコトして死なせてやる」

「素敵」

 キャロライナはゾクゾクと体を震わせた。

「ねぇ、今してくれるの?」

 縋りつくようにして、ナナはキャロライナに問うた。

「今、アタシを変身させてくれるの?」

「勿論。アナタが魔王ジョロキアに忠誠を誓うなら、今すぐにでも」

「誓う。何でもする。あの空飛ぶオッサンのチンポ毎晩しゃぶったっていい」

「……それはしなくていいと思うけど、分かったわ」

 キャロライナは己の懐に手をするりと入れると、一本の細長く小さな瓶を取り出した。ラベルは無く赤い蓋。中につあった赤い液体は、まるで煮えたぎっているかのように常に蠢いている。

「何コレ」

「これはワタシ達が『ソース』と呼ぶモノ。魔王の細胞と魔導エネルギーから作られた、飲んだ者を戦士として覚醒させる契約の秘薬。これを残さず飲み――」

 ナナの動きは素早かった。キャロライナからその瓶を取り上げると、彼女は蓋を投げ捨て、震える手で中身を口内へ流し込んだ。液体は明らかに重力を無視し、まるで吸い込まれるように彼女の喉へ飛び込んで……。

「――あら、いやしんぼなんだから」

「ッ!?」

 瞬間、ナナは声にならぬ悲鳴を上げた。

「あ、あ゛、あ゛ぁ!?」

「最後まで聞かないんだもの。それ、とっても辛いのよ。辛いお菓子しか食べないワタシ達の感覚ですらね」

「う゛ぉッ、お゛ほぉッ」

「吐いたらダメよ。才能の無い凡人なら、内臓を灼かれて悶え死ぬだけ。でも、アナタなら絶対に耐えられるわ」

「がぁあ゛あぁ、はぁあ」

 ナナは四つん這いになり、ベランダを転げ回る。

「そう、頑張って」

「お゛っ、うゥォおぉおぉァあアァアァア!?」

 直後。ナナの全身が、突如として黒い炎に包まれた。

「あら、もう『変化』が始まっちゃった。流石だわ」

 彼女が着ていた色気も何もない服が、衰えた肌が、痩せた髪が、くすんだ爪が、焼けていく。全て焼けていく。焼死体のようになりながらも、彼女はなおのたうち回っていた。ナナの体は焼け崩れ、まるで魂だけを残した裸のようにになり、そして……創造が始まった。

 黒い長手袋が、右腕に、左腕に。同じく黒のブーツが右脚に、左脚に。胸には大きなリボン、そして吸い込まれそうな暗い輝きの宝石。メラメラと燃えるような輝く髪の毛が再生され、そしてこの世の終わりめいた叫び声と共に、彼女の全身から炎が剥がれ落ちた。

 その身に纏われていたのは、スイートパラディンのそれに似ながら、どこかゴシック&ロリータを思わせる白と黒のドレス。二十三年前のような……いや、それ以上に美しい肌。紫色の爪。血よりも緋い瞳。

「ゴボォ、ゴボォッ」

 変身口上のような格好のつくものは、発する余裕が無かった。生まれ変わった彼女が見た最初の光景は、冷たいベランダ、汚れた部屋、そして……慈悲深い母親のような顔でしゃがみ込む、キャロライナの姿。

「期待以上の適合速度だわ」

 ぐったりとしたまま見上げる新たな生命の頭を、キャロライナはそっと撫でた。

「おめでとう。これでアナタは――」

「……『』」

「え?」

 コンクリートに横たわる彼女は、かすれた喉から絞り出すようにその言葉を口にした。変身の瞬間に啓示めいて頭に浮かんだ、その言葉を。

「……『チョコレート』……『セブンポット』……アタシの、名前」

「……そう。じゃあ、改めておめでとう、セブンポット。これでアナタは、誇り高きスコヴィランの戦士の一員よ」

 セブンポットの体を、キャロライナは姫君を扱うように抱き上げた。

「キャロライナ。気持ち良いの。とっても頭がすっきりしてるの」

 抱き上げられたセブンポットは、うわごとのように言った。

「悲しかったことも、辛かったことも、怖かったことも……全部どうでもいいの」

「そう。それはとてもいいことだわ」

 堕ちた魔導騎士を抱きかかえたまま、地獄から来た聖女のような歪んだ笑みで。忌々しいほど青い空を、キャロライナは見上げる。

「それじゃあ、すぐに行きましょう?」

「……どこに?」

 眠そうな子供のように訊ねるセブンポットに、キャロライナは、優しく。心の底から安心する声で。約束の地の名を囁いた。即ち……!

「――『』へ」




 ……この日、バッドエンドを迎えるはずだった瓶井ナナの人生は終わり、新たな戦いが始まった。

 ショトー・トードに、そしてファクトリーに永遠なるバッドエンドをもたらす為の、長い長い戦いが。

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