第41話 失われた記憶(2)

 藤原宮跡の大極殿院閤門の復元列柱から、平城はゆっくり大極殿跡の南西角まで歩いた。

 あたりは薄暗くなり始め、奈良盆地を囲む周囲の山々が徐々に黒い影絵の輪郭だけになっていく。

 平城は目の前の小さな森、周囲よりも一段上がった土壇に残された樹々を眺めている。この場所に、藤原宮の中枢大極殿が建っていたのだ。

 沙良が平城の横で周囲を眺めながらくるっと一回りした。

「さすが藤原宮! 大和三山の真ん中だ!」

 そこからは北に耳成山、南に天香久山、西に畝傍山が眺められた。藤原宮は大和三山が形作る、二等辺三角形の中央部に造られた都だ。

 健吾は平城の横に立ったまま、土壇を眺めることもなくうつむいている。頭の中は平城の話した卑弥呼の墓、宗像大社でいっぱいになっていた。


「平城さん、考えてたんですけど、これまで宗像大社が邪馬台国関連で話題に上ることはほとんどなかったと思います。

 これってどういうことなんでしょう」

 沙良が耳成山から健吾に視線を移す。

「若者くん、そうだよね。あたしも数冊だけど邪馬台国の本を読んだんです。でも、どれにも、どこにもひとことも宗像大社は出てこなかったと思うんです。

 これってどういうことですか。どうして宗像大社と卑弥呼を結びつける説が見あたらないんですか」

 健吾が土壇を見つめる平城に顔を向ける。

「ここまで話題に上らないことは、逆に不思議だとも思えます。

 だって宗像大社は、北九州にあって、弥生期の遺物が出ている沖ノ島が含まれていて、高度な祭祀が行われていたところですよ。

 邪馬台国と直接結びつけない方が、おかしい」

 土壇から目を離し、平城は視線を地面に向けた。


「私は、邪馬台国が九州のどこだったかという詳細を推理するつもりもないし、卑弥呼の墓が元々どこだったかということにも、踏み込むつもりはない。

 私は正式な墓ではなく、邪馬台国滅亡後にヤマトによって正式な墓から掘り出された遺体が、怨霊対策のために場所を変えてもう一度埋葬され祀られた場所、として宗像大社沖津宮に辿り着いたのだ。

 宗像大社は、邪馬台国が存在していた場所とは離れているのかもしれない。

 宗像大社の位置だが、沖ノ島と大島が元々そこにあったから、ヤマトは今の場所に宗像大社を造ったのであり、宗像大社の位置そのものには特別な意味はなかったのだと思う。

 地理的に都合のいい場所を選んだのだ。

 だから、おそらく邪馬台国に関する多くの説とは、アプローチの仕方が根本的に違っていて、探しているものも違っているのかもしれない」

 平城の話のはじまりは、スサノオだった。そして“黥面文身”という魏志倭人伝の中のひとつの言葉だけから、ここまで話が進んできた。

 縄文文化と弥生文化。そのふたつがそれぞれ独立していたとする考えそのものが、他とはまったく異なるアプローチなのだ。

「でも、僕は宗像大社の大きさにほんとにびっくりしたんです。

 出雲大社の大きさが話題になるなら、宗像大社の常識外れの長大さももっと話題になってもいいと思います。

 それに沖津宮祭祀遺跡出土品にしても、卑弥呼の鏡ではないかといわれたりしていますが、あくまでも間接的なんです。沖ノ島を直接卑弥呼と結びつける話は聞いたことがありません。

 それで思ったんです。ここまで宗像大社が邪馬台国、卑弥呼関連で話題に上らないのは、なにか特別な理由があるのかもしれないって。

 もしかしたら、日本人みんなが陥っている盲点のようなものが、宗像大社にはあるんじゃないかって」

 平城がゆっくりとうなずいた。

「若者、面白い視点だ」

 沙良が健吾の顔を見上げながら、うんうんと相槌を打っている。

「ヤマトから続く大和朝廷。その最終目的は、縄文文化をこの世から消し去ることだ。忌まわしく禍々しい文化を。

 そのために数々の手を打ったのだと思う。長い年月をかけた作戦だ。

 ヤマト・吉備連合と、出雲・邪馬台国連合の戦争、その戦後処理は、現在に及ぶまですっと続けられてきたのだ」

 一呼吸置いて、平城が続けた。


「まず、なぜ現在邪馬台国神社がないのか、あるいは卑弥呼神社がないのかを考えなければいけないと思う。

 結論からいえば、ヤマトが許さなかったからだ。いや、許さなかったというよりも、恐れたからだといった方がいいかもしれない。

 三世紀から四世紀、邪馬台国がヤマトによって滅ぼされた頃は、神社はまだその原形状態だった。神社に祀るという概念はまだなく、霊を一か所に集め、慰めながら隔離するという怨霊対策が行われていただけだ。

 その怨霊対策がやがて、神社として形式化されていったのは大神神社のところで話したとおりだ。

 ヤマトは邪馬台国征服後、卑弥呼の墓を掘り返しその遺体を沖ノ島に移動した。そのあとで、縄文文化の徹底破壊を始めたのだ。

 建造物はすべて破壊された。土器その他も、すでに埋納されたもの以外はすべて壊された。

 その時期にはすでに使用されていなかった銅鐸も同じだ。銅鐸が破壊された状態で出土することがしばしばあることは、若者も知っているだろう。

 物質的な破壊を終えたヤマトは次に、思想的な破壊を始める。つまり、卑弥呼の記憶を歴史から消し去る作業を始めたのだ。

 しかし、縄文の霊を慰め怨霊化を防ぐためには、まだ完全に縄文を消し去るわけにはいかない。大神神社、出雲大社のように、わずかにその片鱗を残しておきながら、慎重に作業は行われた。

 だが、卑弥呼だけは例外だった。

 わずかでも隙を見せてはいけない相手だったからだ。

 ヤマトは、卑弥呼だけは物理的に完全隔離する方法を採ったのだ。

 そして卑弥呼の霊を慰めるために、宗像大社という名称にだけ、縄文の痕跡を残した。

 “宗像”が“胸形”から来ていることは、若者も知っているだろう。胸形は、入れ墨のことだ。胸形族という海人族を表しているといわれている。

 そしてこの言葉は“黥面文身”と同じく、明らかに縄文文化を表現した言葉だ。

 卑弥呼を島流しにして隔離したヤマトは、卑弥呼の霊を慰めるために、わずかだがその言葉を卑弥呼の隔離施設、宗像大社に残したのだ。

 ここまで徹底した作業をしたヤマトが、邪馬台国や卑弥呼を祀る他の施設を認めるはずがない。仮に民間でそれに類する施設が作られようものなら、おそらく徹底した破壊と処分が行われただろう。

 これが現在、卑弥呼や邪馬台国を祀った神社が存在しない理由だ」


 平城の話はさらに続いた。

「記憶を歴史から消し去るのは、非常に時間がかかる作業だ。

 しかし、ヤマトは驚くほどの執念でこの作業を続けていく。

 その作業は北部九州だけに留まらず、ヤマトの支配地域全域に及んだ。縄文文化的なもの、卑弥呼的なものの徹底駆逐だ。

 その駆逐作業はもちろん東日本にも広がる。

 やがて神道と日本神話が形になってくると、その神々が各地に配置されはじめる。

 ヤマトの支配が全国に広がると共に、三輪山や八雲山と同じ起源を持つ祭祀施設は増えていった。それら各地に作られた縄文の霊を祀る場所は神社となり、そこに新たな神が配置されはじめたのだ。

 出雲にはオオクニヌシ、宗像大社には宗像三女神。

 諏訪大社には建御名方神タケミナカタノカミが配置された。諏訪大社はおそらく東北地方に古くから伝わる縄文の神、ミシャグジとその地方の縄文文化を封印した場所だ。ミシャグジは蛇神だともいわれている。

 諏訪大社に残る奇妙な柱、御柱祭で有名な巨木の柱は、そこに祀られる神をまるで隔離する結界であるかのように境内の四隅に立てられているのは、よく知られているところだろう。


 各地に配置された日本神話の神々は、当初はそこに祀られる縄文文化とその霊を監視するために置かれたものだ。

 しかし長い年月が過ぎると、あとから配置された神が元々そこに祀られていたという一般認識が出来上がりはじめる。

 やがて縄文の記憶は日本神話の神々の記憶に入れ替わり、ついには人々の記憶から縄文文化が消え去っていくのだ

 長い時間の中で自然に形成されたように見えるこの一般認識は、しかし決して自然に出来上がったものではない。

 これは縄文文化を抹消するために、大和朝廷によって綿密に計算された、一般認識誘導作戦なのだ。

 邪馬台国での最終戦争のあと、古墳時代、飛鳥時代、そして藤原京から奈良時代へ至るまでの数百年間をかけた、人心操作作戦が実行されたのだ。


 この作戦の実行は縄文文化抹消が最大目的だが、具体的には卑弥呼の存在と記憶を消すところに第一優先が設けられた。

 縄文文化最大にして最強、最悪の怨霊、卑弥呼。その存在の抹消は、大和朝廷にとって縄文文化抹消と同義であったからだ。

 卑弥呼が隔離され祀られた宗像大社、この我が国最大の祭祀施設の存在を隠匿するために、出雲大社の社殿を必要以上に巨大にし、その巨大さを神話に記述した。あまりの巨大さのために何度も倒壊し、そのたびに建て直されたと伝えられるほどだ。

 そして出雲大社に配置した対怨霊神、オオクニヌシについても神話内でヒーローとして必要以上に大きく扱う。古事記神代の三分の一を占めるほどに。

 大和朝廷は本来、出雲でさえ神話では扱いたくなかったに違いない。縄文文化圏第二の国であったのだから。

 しかし、邪馬台国と卑弥呼の抹消を第一優先とした大和朝廷は、あえて出雲を大きく扱うことで、そこに耳目を集める方法を採ったのではないか。

 そうすることで出雲の縄文文化抹消が遅れたとしても、卑弥呼の記憶が残るよりははるかにマシだからだ。

 次いで、スサノオとヤマタノオロチが創作された。目的はやはり耳目の出雲への誘導だ。

 『出雲国風土記』。出雲の現地伝承を集めたこの記録にはスサノオがあまり登場せず、ヤマタノオロチに至ってはまったく記述されていないという事実は、周知とまではいかなくとも、よく知られていることだろう。

 記紀が大和朝廷の計算の上で創作されていることは、間違いない。

 スサノオとヤマタノオロチに、縄文文化殲滅の記憶をすべて書き込み封じ込めた大和朝廷はその反面、宗像大社についての記述を必要最小限に留める。

 宗像大社に配置された対卑弥呼監視神、宗像三女神は、剣から産まれた戦う神という本来の属性を隠され、海上交通の神としての表面的な属性を与えられる。

 宗像大社は、実際の巨大さを隠匿するために、おそらく建立当初から社殿は簡素で、大きいものではなかったはずだ。

 地形を鳥瞰することのできる現代とは違い、平面的に社殿を眺めた印象がすべてだったのだ。

 巨大な社殿と派手なヤマタノオロチ。そして神話のヒーロー、オオクニヌシの出雲大社。

 心のやさしい女の子たちと古事記で表現された、平和的な海上交通神が祀られた簡素な宗像大社。

 人々の間でどちらが印象に残るのかは明らかだ。

 その印象が現代にまで引き継がれ、宗像大社は大和朝廷の思惑どおりに、盲点になったのではないか。


 しかし大和朝廷のこの作戦にも、やはり完ぺきではなかった部分がある。

 大和朝廷が支配する国内では、人々への情報操作が可能だった。

 しかし、大和朝廷といえども国外の情報操作は難しかったのだ。

 それが日本書紀の神功皇后紀に表れている。

 大和朝廷といえども『魏志倭人伝』、『晋書』などの海外文献を操作することはできなかったのだ。

 『魏志倭人伝』には卑弥呼の記述が、『晋書』には倭の女王の記述がある。これをどうするか。

 悩み抜いた末、大和朝廷は神功皇后にその記述を当てはめることにしたのだ。

 大和朝廷は日本書紀内で、『魏志倭人伝』の卑弥呼の記述が神功皇后であるかのように引用し、記載する。

 同じく『晋書』の倭の女王についても神功皇后であるかのように引用する。

 このため、現実に江戸時代までは、卑弥呼は神功皇后だと考えられていたのだ。

 しかし研究が進んだ現代で、これらの引用には矛盾があると判断されて神功皇后の実在性まで議論されることになるというのは、大和朝廷にとっては明らかに誤算だろう。

 大和朝廷はここで、ミスをした。

 大和朝廷は、海外の記録には手を出すべきではなかったのだ。あえて無視しておけば、卑弥呼、倭の女王は謎のままで済んだのだ。

 大和朝廷が日本書紀に『魏志倭人伝』、『晋書』の引用をしたことで逆に、卑弥呼に対する情報操作があったことを、明白にしてしまったのだ。

 それでも、ヤマトによる縄文文化抹消作業はほぼ完遂されたと言っていいだろう。

 現代では縄文文化の記憶はなくなり、その片鱗でさえ我々は見つけるのが難しいのだから。

 結果的にヤマトの長きに渡るこの作戦は、成し遂げられたのだ」

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