第35話 神話(2)
西の空に低く落ちた陽が、たなびく雲を通して鋭い光を明日香村に投げかけている。
沙良はヴィッツを道なりに走らせ、
ヴィッツが走り始めるとすぐに、健吾は後席を振り向いた。
「平城さん、そろそろ教えてくれませんか。
平城さんがスサノオをどう考えているか。もう充分に材料は揃っているような気がしてるんですが」
平城は後席にもたれ、脚を組んでわざとらしく口角を上げた。
「若者、私は今日の朝から今までずっとスサノオの話をしている」
健吾は振り向いたまま少し口を尖らせる。
「そういう抽象的な話じゃなくて、もっと具体的な」
「平城宮あたりからは、かなり具体的に話していたはずだぞ」
「だからそういうことじゃなくて」
平城が組んだ脚を解き、身を乗り出した。健吾は振り向いたままで頭を少し引く。
平城がまたわざとらしくにやりとする。
「いいか、若者。本当にすべてスサノオの話だったのだ」
沙良が聞き耳を立てている。
平城がなにを話しているのかがわからず、健吾は平城を見つめたまま口を閉じる。頭の中では、今日平城がここまでに話したことがぐるぐると回っていた。
「若者、古事記に書かれているスサノオの物語を、はじめから簡単に話してくれないか」
沙良が少しだけ横を向き、健吾と目を合わせる。
健吾の頭の中で古事記のページが開かれた。
「ええとですね、まずスサノオは、イザナギが黄泉の国から帰ったときの
イザナギが左目を洗ったときに生まれたのがアマテラスで、右目から
イザナギの妻、イザナミは
イザナギは妻のあとを追い黄泉国へ向かうが、そこで見たものは醜く変わり果てたイザナミの姿であった。イザナギは黄泉国から逃げかえり、筑紫の国の海に近い河口での禊ぎ払い儀式で穢れを払うのだ。
平城はまた座席に背をもたれさせて、うなずきながら聴いている。
「イザナギは三人の子どもたちにそれぞれ、アマテラスに高天原を、ツクヨミには夜の国を、スサノオには海原を治めよと命令します」
沙良が、うんうんとうなずいている。
「しかしスサノオは、イザナギの命令にも関わらずまったく仕事をしないんです。草木も枯れるほど泣きわめいてるわけです」
この時の様子を古事記は『悪い神がここぞとばかりに騒ぎ始め、その声は五月の蠅がそこここから沸き立つようにあたりに満ち、あらゆる
「そこでイザナギはスサノオに、なぜ泣いているんだと尋ねるんですよね。
するとスサノオは、母の国、
イザナギはこれを聞いて、それなら好きにしろ、この国に住んではならぬと、スサノオを追い払ってしまうわけです」
健吾は一呼吸置いて、続ける。
「するとスサノオは言うわけです。それでは姉のアマテラスにお暇乞いをしてから、母の国へ行くと」
正面を向いたまま沙良がつぶやく。
「若者くん、やっぱりすごい。ほんとにきちんと覚えてるんだ」
健吾は沙良を向くと「古事記はやはり基本なので」と応えてから先を続ける。
平城は黙って目を閉じたままだ。
「それで、スサノオはアマテラスのいる高天原に向かうわけですけど、それを聞いたアマテラスは疑心暗鬼に捕らわれてしまうんですよね。もしかして弟のスサノオは、この高天原を奪おうとしてるのでは? って。
そこでアマテラスは武装してスサノオを待ち構えるわけです。
ほどなくしてやってきたスサノオにアマテラスは、なにしに来たんだと問うわけですが、スサノオは、私は決して姉君に逆らうつもりはありません、ただ母の国に行く前に挨拶に来ただけだと。
でも納得できないアマテラスは、それが本当だとどうしてわかる? とスサノオを問い詰めるわけです」
「ウケイの場面ですね! 剣を噛みに噛んで、ペッてする!」
沙良がはしゃいだ声をあげる。
ウケイとは誓と書く。占いによる誓約の儀式だ。
「ペッていうよりも、フウーですけどね。でもそのとおりです。
アマテラスとスサノオはそれぞれの持ち物を交換して、それらから子どもを生み、心が清らかであるかどうかを判断することにしたんです」
ヴィッツは甘樫丘の東側麓を走る。右手は伝飛鳥板葺宮跡や飛鳥寺が点在する飛鳥の中心地だ。
健吾は幾度か訪れたことのあるその田園風景を眺めながら、神話の世界を思い描く。
「アマテラスはスサノオから剣を預かりそれを噛んで吹き出し、
アマテラスの口から生まれたんですが、元の剣がスサノオのものだったために、この女神たちはスサノオの子どもだということになったんですね。
それで、この子どもたちが心の優しい女の子だったため、スサノオの嫌疑は晴れたというわけです」
「宗像三女神だな」
平城がつぶやいた。
「そうです。この三人が宗像三女神です。現在は海上交通の神さまとして福岡の宗像大社に祀られてます」
宗像大社は福岡県宗像市に位置する、宗像三女神を祀る神社の総本社だ。古くから海上交通の神として信仰されており、現在では交通安全の神としても有名だ。
平城が目を開け、健吾に尋ねる。
「なぜ海上交通の神なんだ?」
「えっと、宗像三女神がですか?」
平城の突然の質問に、健吾は少し焦る。予期しない質問だったのですぐに答えが思いつかない。
「いや、いい。先を続けてくれ」
平城は右手を軽く振り、忘れてくれの合図をする。
「あ、はい。それでですね、スサノオはウケイに勝ったものだから、それからめちゃくちゃをし始めるんです。高天原を荒らしまわり、まさしく暴虐の限りを尽くすわけです。
アマテラスの田に踏み入る、畔をめちゃめちゃにする、神聖な御殿に糞をしてまわる、機織りをする建物の中に皮を剥いだ馬を投げ込む、などが古事記には記されています」
沙良が口を尖らせる。
「ウケイに勝ったからって、どうしてそんなことするんでしょうね。おかしくないですか」
平城がうなずいた。
「おかしいだろう。人格破綻もいいところだ」
「そうなんです。このあたりはやはり解釈的にも問題になっていて、いろいろな説があるみたいですが、どうします平城さん、このまま続けますか?」
健吾自身もはじめて古事記を読んだときから、スサノオのこの行動が納得いかないでいた。いつか研究してみたいと思うテーマのひとつだった。
「続けてくれ」
健吾は一度深く呼吸してから先に進む。
「それでですね、スサノオの暴虐に耐えられなくなって、アマテラスは岩戸に隠れてしまうんです。
岩戸隠れはさっき大神神社で沙良さんが話してくれたので省略しますけど、とにかく原因はスサノオなんですよね」
「それから?」
平城が先を促す。
「アマテラスが岩戸から出たあとで、
健吾はそこまで話し、ふとなにかが引っかかった。神々が集まって会議を開く。この状況を今日、聞いたような気がする。ほどなくして大神神社での賽銭の起源話だと健吾は思い出すが、まだ引っかかりは取れない。
「どうした。続けてくれ」
平城の催促に、健吾は少し頭を振ってから続ける。
「八百万の神々が集まって、スサノオをどうするかという会議を開くんです。それで出た結論が、罪を贖う品々を差し出させてからの、高天原追放、ということになったんです」
「追い出されたスサノオは出雲へ行くんですよね! そしてヤマタノオロチ退治ですね」
沙良のその言葉が健吾の中でなにかを繋げた。会議の結果、スサノオは出雲へ向かう。健吾は平城の言葉を思い出した。
『西暦270年前後、ヤマトは国家首脳を集めて会議を行う。
その会議で、今までは暗黙の了解であった縄文文化抹殺を、国の政策として正式決定し挙兵する』
平城さんが古事記に書いてあると言ったのはこの部分だったのか。
健吾は後席の平城を振り向く。
「平城さん、もしかして」
平城がにやりとした。
沙良が正面と健吾を交互に見ながら「え? えっ? どういうことですか」と声をあげる。
「沙良さん、ちょっと待ってください。僕もまだ整理できてないです。でも確かに、平城さんはずっとスサノオの話をしていたのかも」
沙良がハンドルを握ったまま背筋を伸ばす。
「ヒサヒデさん、教えてください! どういうことですか」
平城が身を乗り出した。
「沙良君、運転に気をつけてくれたまえ。今、若者が説明してくれるだろう」
「えと、ええと、つまりスサノオは、縄文文化抹殺のためのヤマト・吉備連合軍そのものってことですか」
「それだけではない。若者、ヒントを出そう。
アマテラスはイザナギの左目から生まれ、高天原を任された。これは一般的には天上世界、あるいは陽の射す昼の世界のことだと考えられている。そしてツクヨミは右目から生まれ、夜の世界を任された。
すると、鼻から生まれたスサノオはどこを任されることになるんだ?」
天上世界と夜の世界。それ以外に残る世界は……。
「もしかして地上世界すべてってことですか?」
にっと平城の口角が上がる。
「そうだ。古事記に書かれている海原だけでは、どう考えても範囲が不足だ。天上世界も夜の世界も、この地上世界ではないのだから。
記紀のスサノオの支配範囲の記述にはかなりの振れ幅がある。スサノオがどこを任されていたのかは、実ははっきりとしていない。はっきりとしていないということは、そのすべてだと考えてもいいだろう」
健吾の連想が広がった。
「それは、出雲や吉備や邪馬台国も含める、葦原の中つ国すべてってことですか」
平城がチョコボールをひとつ口に放り込んだ。
「察しがいいな、若者。そのとおりだ」
「つまりスサノオは、吉備や出雲、邪馬台国を混合した人格だったということですか」
「そう考えれば、スサノオの人格分裂は説明がつくだろう?
大和朝廷は、神話にはっきりと書くことができない縄文文化駆逐に関することすべてを、スサノオというキャラクターひとりに押しつけて、まとめたんだ」
突然、健吾の頭で赤黒いざわざわとしたイメージが膨れ上がった。
近畿大和から西日本へ、巨大な流体がすべてを飲み込むように流れ込んでいく。吉備から出雲へ、そして九州へ。溶けた金属のようにゆっくりと流れていくその先頭には、剣を持ち獰猛な表情をした荒ぶる神が真っ赤に焼けた口を開けている。
それがスサノオだった。この赤黒い流れる塊が、スサノオそのものだ。
沙良が驚いたように口を半開きにしたまま運転をしている。
浮かんだスサノオのイメージに健吾は自分でうろたえた。まだ思考の混乱が続いている。
「ちょ、ちょっと待ってください。はじめから行きましょう。はじめは、ええと、なんだっけ」
平城が笑った。
「落ち着け、若者。
まず第一に、イザナギによる支配地域の分担だ。古事記によればスサノオは海原を治めよと命令されている。
私はこれを、吉備、出雲、邪馬台国の縄文文化国家を治めよと読み替えたい。つまり、吉備の縄文文化傾斜を目撃したヤマトの危機感と、出雲、邪馬台国を中心とした縄文文化、その駆逐の決意を表しているのだろう」
健吾は無言のまま考えている。
平城が続けた。
「次に第二、スサノオが母の国に行きたいと泣き叫び、悪い神があたりに満ちる。
これは吉備国の文化的反乱そのものだ。母の国とはつまり、吉備にとって融合しかけていた縄文文化だ。母の国については多重解釈としてもうひとつの意味があるが、今は縄文文化としておく。ここには縄文文化と融合してしまいたいという吉備国の情勢が反映されている」
健吾は今日の平城の話と少しづつ繋がっていく神話に、やはり言葉を出せないでいた。
こんなことがあるのだろうか。これが神話の解釈として、成り立つのだろうか。
「第三は、イザナギのスサノオ追放だ。わがまま放題のスサノオはついにイザナギに見放され、この国に住んではならぬと命令される。
これは、ヤマトによる吉備国粛清だ。縄文文化へと傾斜し融合しかけていた吉備国は徹底粛清されることになる」
「第四、スサノオは高天原へ出かけ、これをアマテラスは武装して迎える。
吉備国は粛清後にピンチに立たされる。出雲の侵略圧力だ。吉備国はしかたなくヤマトへ使者を出し、ヤマトの武力を背景にした安全保障傘下に降ることを受け入れる」
「第五はウケイだ。スサノオとアマテラスは、ウケイでの誓約を交わす。
吉備国はヤマトと条約を結び、ヤマト・吉備連合が成立する」
「第六。ウケイ後、スサノオは高天原で暴虐を繰り返す。
吉備は連合成立後も、ヤマトへの不信からレジスタンスが活発化し、反乱が相次ぐ」
「第七、アマテラスの岩戸隠れだ。
これは、卑弥呼の死とそれによる状況変化だろう」
「第八。八百万の神々によるスサノオ追放の会議。
ここでスサノオは出雲と、邪馬台国を表すために使われる。これは、ヤマト国家首脳による縄文文化駆逐の宣言だ。そして、ヤマト・吉備連合軍は出雲と邪馬台国へ向けて進撃を開始する」
「第九。出雲における、スサノオのヤマタノオロチ退治は、もう言うまでもないだろう。
ヤマト・吉備連合は出雲を攻撃し、縄文文化人と縄文文化を徹底破壊する」
「第十は、国譲りだ。
出雲を徹底破壊したヤマト・吉備連合軍は、出雲縄文文化を駆逐したあとでその土地を併合、弥生文化の入植を行う」
よどみなく話す平城の説明は、これまでに話された内容がすべてスサノオについての話だったことを証明している。
確かに昨日と今日話されたことは、スサノオをどう考えるかということだけだったのだ。
健吾はたとえば、平城がスサノオを吉備と出雲、邪馬台国の両方に、場合によって使い分けていることなどへの反論を思いつくが、それも縄文文化駆逐関係をスサノオひとりにまとめたと考えれば、神話的にはときおり見られる手法であり反論には弱いと考えて口に出すことはしなかった。
そのような反論よりも、平城の話を採用すれば今まで自分でも不思議だと感じていたスサノオの性格異常、人格破綻の意味、行動原理までが説明できることの方に健吾は驚きを感じていた。
沙良も今日の平城の話と今の説明を結び付けようとしているのか、無言のままだ。
説明を終わり、平城はチョコボールの箱に手を突っ込んでいる。
健吾はそれでも、反論材料をひとつ見つけた。
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