第25話 血の粛清(1)
平城宮の北西角にある駐車場から、運良く一台の車が出てきたところだった。沙良はすばやく駐車場にヴィッツを乗り入れ、器用にバックで駐車した。
平城宮には駐車場から数分歩き、北側の門から入ることになる。復元された大きな第一次大極殿が駐車場からも見える。
車を降りた平城はピースをくわえた。
健吾と沙良も続けて降りる。その姿を見た平城が沙良に声をかけた。
「沙良君、伸びはどうした」
沙良は一瞬平城を見て、気づいたように伸びをした。
「うーん、いい天気! 気持ちいい!」
平城が苦笑いする。
「沙良君、すまん。強制したみたいだ。無理することはないぞ」
沙良が両手を胸の前で振る。
「そんな! 違いますよ!」
平城がにこりと笑う。半分くらい吸ったピースを携帯灰皿に押し込み、平城がふたりに声をかけた。
「よし。では行こう」
駐車場から平城宮入り口に向かう間に、健吾がふたりに簡単な説明をする。健吾の歩く速度がこころなしか、速い。
西暦710年から784年までの間、日本の都が置かれたのが平城京だ。その中枢部、内裏があった場所が平城宮である。この期間中、740年から難波京、恭仁京へと都が移されることがあったが、745年に再び平城京へと戻っている。
平安京遷都後も南都と呼ばれ、現在も東大寺、唐招提寺、薬師寺などが残る、日本史上の大都市だ。
現在は平城宮全域が国の特別史跡として保護、保存され、整備計画も進んでいる。すでに朱雀門、大極殿が復元され、当時の様子を偲ぶに充分な公園となっている。
三人は北側の入り口から平城宮跡地に入った。観光客はそれなりに多かったが、大極殿前の広大な広場のおかげで、混雑している印象はまったくない。
健吾の心臓が高鳴り始めた。平城宮だ。
「うわあ! おっきい!」
と沙良が大極殿を見上げて感嘆する。
復元大極殿は真新しく、朱塗りの柱と白壁が鮮やかだ。
「ここに天皇がいたんですね!」
「大極殿だから、たぶん儀式をやってたんじゃないかな。天皇の住んでたところは内裏というところで、確かこの塀の向こうじゃなかったかな」
健吾は東側の塀を指さして答える。
大極殿前の広大な広場は、四方を塀で囲まれている。塀の位置、場所も奈良時代のままだ。
健吾は平城宮にはじめて脚を踏み入れたが、その見取り図はほぼ頭に入っていた。いつかは行ってみようと心に決めていた場所だ。
三人はゆっくりと歩き、大極殿正面に回った。そこには芝生が敷かれている。
健吾はひとりで少し歩き、平城と沙良から離れた。
ぐるりと周囲を見渡す。
奈良の時代、ここが日本の中心だった。ここで古事記、日本書紀の他、おそらくは数々の文献が作成されたのだ。
目を閉じる。当時、この場所ではどんな音が聞こえたのだろう。
目を開ける。ここからどんな風景が広がっていたのだろう。
深呼吸して、空気の匂いを嗅いでみる。奈良の都は、どんな匂いがしたのだろう。
この大極殿から、南にある朱雀門まではおよそ八百メートルある。今日は三人での行動なので、行くことはないだろう。しかし、もう一度来てここをひとりでゆっくりと歩こう。奈良の香りを想像しながら、奈良に吹いた風を想像しながら。
健吾はもう一度深呼吸する。歴史をやるということは、こういうことなのだ。
匂いを感じ、空気を感じ、音を感じる。これが歴史そのものなんだ。
健吾の胸がとくんと鳴る。遠ざかりつつあったなにかが、また戻ってきた感じがする。この鼓動が明日も続いてるようなら、もう一度歴史を考えてみよう。考えてみたい。
明日も、この鼓動が続いていればいいのに。健吾は涙が出るような思いで願った。
「若者くん、大丈夫かな」
少し離れたところにひとりで立つ健吾を見て、沙良がつぶやく。
平城が沙良を向いて聞いた。
「なにかあったのか」
沙良が小さく首を振る。
「いいえ。ここに入る前から、なんだか少しだけ様子が変わったから」
「平城宮だからな。おそらく彼の憧れの場所だ」
沙良がにこりと微笑み、健吾の方を見る。
「そうですね。そういうことですよね」
平城も健吾の方を見やると、健吾はひとりでうんとうなずいたところだった。
「せっかくの芝生だ。座ってみないか」
「ですね。そうしましょう」
沙良は肩にかけていた小さなポーチからハンカチを取り出す。
平城はそのまま、その場に腰を下ろした。沙良もハンカチを敷き、平城の隣に座る。
健吾が戻ってきた。
「若者、奈良の空気を感じたか」
平城が健吾を見上げて聞いた。
健吾ははっとしたように平城を見つめ、すぐに横を向く。
「平城さん、奈良の空気よりも吉備の空気を思い出しましょうよ。まださっきの話が途中でしたよね」
平城が笑う。
「そうだな。まだ途中だった」
健吾も平城の隣に座った。
遠くに朱雀門が見える。うしろには大極殿だ。なんて贅沢な場所に座ってるんだろうと健吾は思う。
「それで、どこまで話したか覚えてるか、若者」
「桃太郎のところです。桃太郎のお話はまだ続きますか?」
「いや、桃太郎はあそこまでだ」
「じゃあ、聞いてもいいですか。さっき聞きながら思ったことなんですけど」
平城が健吾を横目で見ながらうなずく。沙良も前かがみになって健吾の話を聞く準備をした。
健吾が話し始めた。
「桃太郎で出てきた吉備津神社のことなんですが。
吉備という場所、縄鳥居、鬼の首の埋葬伝承などから、吉備津神社は大神神社と同じく、吉備弥生文化人が滅ぼした周辺の縄文文化人と縄文文化を祀った神社、という理解でいいんですか?」
平城が少し沈黙する。話の流れを思い出しているようだ。
「吉備弥生文化人が、というところはちょっと保留にさせてくれないか。弥生文化人が、というなら、そういうことだ」
ん? と健吾は引っかかるが、まずは先に進むことにする。
「ええと、わかりました。とりあえず続けます。
そうなるとですね、大和朝廷は吉備津神社にもオオクニヌシを配置したいはず、ということになりませんか。大神神社にあれだけ無理してオオクニヌシを配置したんですから。
でも吉備津神社の主祭神は、吉備津彦命(キビツヒコノミコト)ですよね?」
大和朝廷は、縄文文化人の怨霊制御のためにすでに出雲大社に配置していたオオクニヌシをオオモノヌシと名前を替えて、大神神社に配置したというのが平城の話だったのだ。
平城はすでにこれからの話の流れを掴み直したようで、口角を上げた。
「大和朝廷としては、やはりオオクニヌシを配置したかったのだと、私は思う。
しかしそれができなかった。
そこが少し難しいところなのだ。
私は、ヤマトと吉備のややこしい関係がそこに表れているような気がしている。日本書紀の記述にもそれが現れている。
おそらく弥生後期からずっと、ヤマトと吉備は微妙な関係だったのだ」
健吾はとっさに思い出す。雄略天皇紀だ。
「日本書紀に書いてある、吉備の反乱関係ですか」
吉備国は何度も反乱を企てている。そのたびにヤマトは吉備を鎮圧しているのだ。その記録が日本書紀、雄略天皇紀に書かれている。
平城は遠くにかすむ朱雀門を眺めながら答えた。
「そうだ。吉備津神社の桃太郎説話のところで少し話したが、吉備津彦命は大和朝廷から吉備平定のために派遣されて来ている。
いわゆる四道将軍のひとりで、古事記では第七代孝霊天皇の皇子であり、日本書紀では崇神天皇の皇子だ。つまり、出自ははっきりとしていない。
若者は知っているだろうが、孝霊天皇は欠史八代に含まれる実在がかなり怪しい天皇だ。
その皇子なのだから、吉備津彦命自身も実在は疑ってかからなければならないだろう。
そのような人物をなぜ、出雲大社、大神神社クラスの重要な神社に配さなければならなかったのか」
平城は言葉を区切り、深く呼吸する。
「私はそこに、ヤマトにとって吉備国がどれほど厄介者だったかが滲み出ているように思う」
健吾がうなずく。
「確かに吉備国は大和朝廷にとっては厄介者だったみたいですね」
平城がうなずき返す。
「おそらく相当にやっかいな相手だったのだろう。
大和朝廷からすれば、縄文文化は日向時代からの宿敵だ。いつかは必ず滅ぼさなければならない。
しかし吉備国は、日向時代からのいわば同胞だ。朝廷の支配下に置くべきだが、滅ぼすような相手ではない。
その苦悩が日本書紀の雄略天皇あたりに記述されている。吉備は何度も大和朝廷に対して反乱を企てているのだ。
そういう関係は、おそらく弥生後期から始まり大和朝廷の全国完全統一まで続いた。
神話の神々を重要な神社に配置しようとするときにはまだ、吉備国は大和朝廷にとっては非常に不安定で、いつ反乱を企ててもおかしくない国だったのだ」
「大和朝廷にとっての問題は、吉備の縄文文化だけでなく吉備そのものだったということですか」
「そういうことだ。だから、オオクニヌシではないのだ。
大和朝廷が吉備の最重要神社に神を配置するときに考えなければいけなかったのは、縄文文化の怨霊と同時に、吉備自体を抑え込み監視できる力を持った神を配置しなければいけなかった。
縄文の怨霊だけなら、オオクニヌシが最適だった。しかしオオクニヌシには吉備を抑え込む力は与えられていない。
そこで大和朝廷は再び一計を案じたのだ。
滅ぼされた縄文文化をシンボル化して温羅とし、おそらくは現実に存在しただろう四道将軍のひとりをモデルに、吉備津彦命を創作する。
吉備津彦命は吉備を平定した将軍として吉備を監視すると同時に、温羅を退治した英雄として縄文文化の怨霊も監視している。
これが吉備津神社の主祭神、吉備津彦命なのではないだろうか。
吉備津神社の本殿は、屋根を前後にふたつ並べた特異な神社建築形式、吉備津造りで知られている。本殿には屋根がふたつあるのだ。
これを、吉備津彦命が与えられたふたつの力を意味していると断言することはもちろんできない。しかし、非常に暗示的だと思わざるを得ない。
ふたつの力と役割を持った神として吉備津彦命は創り上げられ、吉備津神社に配置されたのだ」
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