第14話 三輪山(1)

 ヴィッツは奈良県に入り、大和高原の中を走り続ける。沙良は傍から見てもうきうきとしていることが丸わかりだ。

 時刻は九時すぎ。空にはほとんど雲がなく、鮮やかな青色が広がっている。

 三重県と奈良県を区切る大和高原は、笠置から始まる笠置山地とそれに連なる宇陀山地、室生山地が作る、比較的低くなだらかな山々の連なりだ。

 奈良盆地に入れば東側に、常にこの大和高原が連なって見える。

 奈良盆地の西側、生駒、葛城山地、北の平城山丘陵と、特徴のある山々に囲まれているせいで奈良では方向を見失うことがあまりない。

 これらの山地、丘陵が奈良の景色、雰囲気を作り上げているといってもいいだろう。


 針のサービスエリア、針テラスで休憩しようという平城の提案に、沙良はもう少し先まで行かせてくださいと断り、そのまま走り続けた。

 沙良がもう少し先までといったその場所は、高峰のサービスエリアだった。

 沙良はサービスエリアというよりはパーキングエリアと呼んだ方がふさわしいと思えるその場所に、ヴィッツを乗り入れた。

 車から降りた平城と健吾の目の前に、天理、橿原の眺めが拡がっていた。

「あたし、ここ大好きなサービスエリアなんです!」

 沙良は景色が一望できる手すり際に駆けて行き、伸びをする。

「うーん、気持ちいい!」

平城と健吾も、沙良の横に立ち眼下に広がる景色を眺めた。

「奈良が一望ですね」

「そうだな。奈良というかおそらく天理だろうが、それにしてもすばらしい」

「毎回、今からあそこまで下って行くんだーって思うと、なんだかやる気になるんです!」

 健吾が隣に立つ平城を振り向く

「そういえば平城さん、平城さんは奈良には?」

「十年ほど前にはけっこう通った。下道をスクーターでだが」

 沙良が驚いて声を上げる。

「下道! スクーターで!?」

「名古屋からですよね?」

 平城は腕組みをしたまま景色を眺めている。

「そうだ。慣れるとたいした距離でもない。スクーターといっても原付二種だからほとんど普通のバイクと変わりはないからな。高速道路に乗れないだけだ。

 だが下道はいいぞ。若者も一度やってみるといい」

 亀山から天理までの名阪国道は、一般国道ではあるが高速道路でもあるというややこしい扱いになっている。正式には“高速自動車国道に並行する一般国道自動車専用道路”という区分になっており、A路線とも呼ばれる。無料で通行可能なところは建設費がすべて税金で賄われたからだろう。

 一般国道で制限速度も六十キロから七十キロだが、自動車専用道であるため百二十五CC以下の二輪車は通行できない。

「やってみたいけど、原付じゃあ無理かな」

 健吾のつぶやきに平城が「やってみないことにはわからないだろう」と応える。

 それもそうだ。一度くらいそういう冒険をやってみてもいいかもと思いながら、健吾は遠くに広がる天理の街をもう一度見渡した。

 ヴィッツに戻った沙良はエンジンをかけてゆっくりと発進しながら「このサービスエリア好きなんですけど、出るのが大変で」とあたりを見回す。

 上り線の高峰サービスエリアは加速減速車線が確保できていないことが危険とされて、すでに閉鎖されている。

 三人が寄った下り線サービスエリアも、加速減速車線は改良を受けているものの、かなりの注意を必要とする危険個所には違いない。

 沙良は時間をかけてゆっくりと後続車を確認し、本線へと戻った。

 高峰サービスエリアの先は、曲がりくねった長い下りカーブが天理まで続く。通称オメガカーブだ。Ωに似ているところからそう呼ばれている。

 このカーブ区間ではどの車も制限速度を守らざるを得ない。それほどにきついカーブが続くため、この区間は渋滞も起こりやすい。

 沙良は走行車線を慎重に運転した。道路横のコンクリート壁にはところどころにこすった跡が残っている。

 区間最後に位置する半径百五十メートルの、ほぼ百八十度をターンするカーブを抜けたところで、ようやく沙良がふうとため息をついた。

「何回通っても、ここはこわいです」

 健吾は自分で運転することがどれほどの怖さなのがわからなかったのだが、それでも「お疲れさま」と沙良に声をかけた。

 沙良はにっこりとして「でも楽しいんですけどね!」と明るい声を出す。

「沙良君、ご苦労さま。もうすぐだ」

 後部座席でゆったりとくつろいでいた平城が声をかけた。

「天理インターで降りるんだろう? 大神神社に着く前に、もう少し話していいか」

「はい! ここからならもう三十分もかからないくらいなので、お願いします!」

 ヴィッツが天理インターで名阪国道から降り、左折して一般道へ入ったところで平城は話を再開した。


「怨霊と呼ばれるものが本当に存在するのかどうかは、私にはわからない。

 しかし人に罪悪感があるからこそ、怨霊思想が生まれたのは確かだろう。

 見方を変えれば、人には良心があることの証明だとも考えられる。

 悪いことを悪いと思い、してはいけないことをしてしまったという悔恨の気持ちを抱けるからこそ、怨霊信仰は成立すると考えられるのではないか。

 私はこの論理から、もう少し話を進めてみようと思っている。

 纏向ヤマト弥生人の持つ罪悪感や悔恨の気持ち、怨霊への恐怖から出来上がった祭祀施設が、神社だ。

 そうだとするならば、死者の霊を祀ったその場所だけは、特別な場所になり得る。

 祭祀施設だけは、死者の霊を慰めるためにタブーを侵せる場所になるんだ。

 つまり神社だけは、纏向ヤマト弥生文化人がヒントを残した場所になっている可能性が高い」

 意味がよくわからない。健吾は素直に尋ねた。

「それはどういう意味なんですか」

 ヴィッツは天理市街に入る。独特のイメージを醸し出す天理教の建物“おおさとやかた”が多くなってきた。

 平城は窓の外を眺めながら答えた。

「纒向は唐古・鍵を根絶やしにした。弥生人が忌み嫌う縄文文化を抹殺するために。

 おそらくその後、纒向はヤマト王権、そして大和朝廷へと連続していったのだろう。縄文文化を完全に排除して。

 しかし唐古・鍵の人々を祀った、縄文文化を畏れて祀った大神神社だけは、そこに眠る死者の霊のために、わずかだが縄文文化の痕跡を残しておいたと考えられないか?」

 道はそれほど広くなく交通量も多い。沙良は前を注視したままで平城に尋ねる。

「大神神社に縄文文化が残ってるんですか?」

「そうしなければ、祀られた唐古・鍵の人々は怨霊化する可能性があるからだ。

 現在も故人のお墓には、生前に好きだったものが並べられたりしている。これもお墓に眠る死者の霊を慰めるためだろう?

 それならば縄文文化人であった唐古・鍵の人々のために、縄文文化的なものを大神神社に供えるということがあってもおかしくはない、と考えられないか?」

 平城が言葉を切る。

 健吾の左手に天理よろず相談所病院が見え始めた。その奥には天理教教会本部があるはずだ。天理市は、天理教関連施設が集中する一大宗教都市だ。

 平城が続けた。

「おそらく纒向、唐古・鍵戦争のあと、勝利した纒向では縄文文化的なものがタブーとなったはずだ。怨霊を恐れなければならないくらいのひどいことをしたのだから。

 だからそれを思い出させる縄文的な物事はすべて排除し、タブーとしたはずだ。

 だからこそ今現在、私たちの文化には縄文文化の痕跡が残っていないのだ。

 しかし大神神社だけは別だ。逆にいえば大神神社だけには、縄文的ななにかが残っていなければいけないのだ。

 なぜならそこは、縄文文化人と縄文文化を祀る特別な場所だからだ」

 健吾は振り向いて、座席越しに平城に反論する。

「わかります、平城さんが言ってることはよくわかります。

 でも、仮に大神神社が縄文の怨霊を祀った神社だとしても、弥生後期の話ですよね。拝殿も建て替えられているし、とても現在は確認しようがないですよ」

 窓の外に目を向けていた平城が、頭を動かして健吾を見つめてにやりとした。

「だから、それを確認しに行くんだ」

「確認できるものがあるとは思えないんですが」

 平城が窓に寄りかかっていた体を起こして、後部座席に置きっぱなしにしていたチョコボールの箱を手に取る。

「それがそうでもないのだ、私の考えでは。沙良君、チョコボール食べるか?」

「はい! ありがとうございます!」

 健吾は後ろを向いたまま、しばし考える。

 大神神社に残されたお供え物? 縄文文化人に捧げられた供物?

 健吾の頭の中に、渦を巻いた土器が思い浮かぶ。しかしまさか縄文式土器が今だにそこに置かれているとも思えない。

 平城はチョコボールを健吾に手渡した。健吾は考えたままそれを沙良に手渡す。

「ヒサヒデさん、あたしさっきもお話ししましたけど、大神神社には行ったことあるんです。でも、そのときにはそういう縄文文化的なものには気がつかなかったです」

 平城もチョコボールを一粒口に放り込む。

「沙良君はそのときにきっと見ている。気がつかなかったのは残念だが」

「えー! あたしも見てるんですか!?」

「そうだ。大神神社に参拝するすべての人の目につく場所に、縄文の痕跡が残されている」

 健吾にはそれがなんなのか、やはりわからなかった。

「まずは現場で、その痕跡を確認してみようじゃないか」


 勾田町の交差点を過ぎたあたりで、ようやく天理の市街を抜けた。

 平城は交差点で左側を眺めながら「本当は時間があれば、ここを左に曲がって石上神宮にも行ってみたいものだ」とつぶやいた。

「行っちゃいますか!?」と沙良がはしゃぐ。

「いや、またにしよう。石上神宮についても実はいろいろと考えていることがあるのだが、それは別の話だ。次の機会に取っておこう」

「スサノオだけじゃなくて、他のアイディアもあるってことですか」

「まあ、そうだ。そのときはまた話を聞いてくれ、若者」

 平城はやはり、健吾の想像以上に歴史好きのようだ。歴史好きというよりも、歴史ミステリー好きといった方がいいのかもしれない。

 天理市街を抜けて大和神社前の交差点を過ぎれば、古くからの奈良を体感できる景色が目の前に広がる。山側には日本最古の道、山辺の道が通り、国道169号線沿いには田園が続く。

 その景色に健吾も、思わずため息が出る。

 まるで歴史そのものが目の前にあるように感じる。十代崇神天皇陵、十二代景行天皇陵などを通り過ぎるたびに沙良が、黄色い声を上げる。

 健吾はそのたびに自分の知っている限りの説明を加えていく。景行天皇陵の横では、景行天皇の皇子、倭健命(ヤマトタケルノミコト)の詠んだ『大和は国のまほろば たたなずく青垣 山籠れる 大和しうるわし』を披露しさえした。

 平城も健吾の説明を感心しながら聴いている。

「若者。君といっしょに来てよかったぞ」

「平城さん、ここまでの話を聞いてると、それ皮肉にしか聞こえませんよ」

 健吾は少し嫌味を言うが、平城がそれに気づいているのかいないのかわからない。

「本当だ。いい説明が聞けたと思っている」

 平城はそう言いながらチョコボールのアーモンドを噛み砕いている。

 平城がそう簡単にお世辞をいう人ではないことを、健吾は知っている。健吾は平城の言葉をそのまま受け取ることにして、再び窓の外に目を向けた。

 箸中という交差点で停まったとき、左前の池の向こうにこんもりとした山が見えた。

 健吾の心臓がどきんとする。

 倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)の墓、いわゆる箸墓古墳だ。

 気がついた沙良が、きゃあ!と声を上げる。

「若者くん、あれ箸墓だよね?」

 健吾は嬉しくなった。沙良もけっこうな邪馬台国ファンなのだ。

「だね。卑弥呼の墓かも、といわれている古墳です」

 後部座席では平城もやはり、左前を見つめている。

「つまり、このあたりが纏向、ということだな」

「ですね! 発掘現場はええと、もう通り過ぎちゃったのかな」

 沙良が信号待ちをしながら心配そうに平城を振り向く。

「ヒサヒデさん、引き返してみます?」

 平城は一瞬迷ったようだがすぐに、「いや、このまま大神神社へ向かおう」と断る。

「纏向はこのあたり一帯だ。発掘現場はその一部に過ぎない。

 ここで弥生時代になにがあったのか、この場所を通り過ぎながら想像するだけにしておこう」

 健吾は箸墓古墳からぐるりと右手方向を眺めていく。田畑が多いのは確かだが、遠くまで見渡せるというほどではない。

 この場所から右手後ろ方向、約五キロのところに唐古・鍵遺跡があるはずだ。健吾は振り向いて後部窓ガラスの向こうを眺めるが、やはり見渡せはしない。

 弥生時代ここで、まさしくこの場所で、いったいなにがあったのか。

 健吾は久しぶりに、そう考える感じを味わった。この感じ。この感じが歴史を学ぶ、歴史を楽しむ感じなのだ。

 健吾は、リアルに歴史を感じるこの感覚をずいぶん久しぶりだと思う自分自身に驚いていた。

 纏向を過ぎれば大神神社はもう目と鼻の先だ。沙良は箸中南交差点をななめ左方向にヴィッツを進めた。

 やがて左前方に、巨大な黒い鳥居が見え始めた。

 大神神社の大鳥居だ。

「着きました! お疲れさまでした!」

 大鳥居をくぐり百メートルほど進んだところにある駐車場にヴィッツを停めて、沙良が振り向いた。

「本殿へ向かう参道前に駐車場があるんですけど、狭い駐車場だから前はいっぱいで停められなかったんです。それで引き返してここに停めたものだから、今日ははじめからここにしました。少し歩くことになりますけど、すみません」

「お疲れさま、沙良君。ありがとう」

「お疲れさまでした。沙良さん」

 三人はそれぞれ準備をして、ヴィッツを降りる。十時を少し過ぎたところだ。

「素晴らしい天気だ。歩くにはちょうどいい」

 空は晴れ上がり緩やかに風が吹いている。陽の光に、くぐってきた大鳥居が空に浮き出すように見える。上着は要らないようだ。

 平城は一度手に持った皮の上着を車に戻して「行こう」とふたりを促した。

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