2 ヤマト

第09話 天孫降臨(1)

 翌日、朝の六時に別府健吾はスクーターのエンジンをかけた。

 自宅のある東郷町から平城の作業場までは、祝日のこの時間なら三十分ほどで着くだろう。

 ヘルメットを被りスクーターにまたがると、健吾はアクセルを開けた。

 なにを着ていこうか迷ったが、やはりまずはスクーターに乗らなければいけないことを考えて普段着のジーンズに汚れの目立ちにくいグレーのシャツを選んだ。上着はいつもどおりのフード付きデニムジャケットだ。

 走り始めてからも健吾は、不思議な感覚に捕らわれたままだ。

 昨日、お昼に蕎麦屋で会ったばかりの女のコとこれから奈良まで行くのだ。もちろん平城がいっしょなのだが、こんなことは生まれてはじめてのことだ。

 これまで健吾には彼女と呼べる女性がいたことはない。高校や大学の知り合いと出かけたことは幾度かあるのだが、すべてグループだった。

 女性が苦手なわけではなかったが、これまでに知り合った人とはなんとなく話が合わないと感じていた。同じ大学に通う歴史学科の女性でも、それは同じだ。

 それでも特に不便を感じたこともなく、話の合う人を無理に見つけようとすることもなかった。

 それがなぜか、沙良とは不思議と話が合うと感じ始めていた。

 蕎麦屋で会ったときには、よく話す人だなと苦手意識を感じさえしたが、少し話すと沙良の頭の切れの良さに、わずかだが劣等感さえ覚える自分に気がついたのだ。

 こういう感じを抱いたのは、小学生以来のことだった。

 平城の作業場にバイトで通うようになり、子どもの頃を思い出したときのことだ。むずがゆくうらやましさを伴った感覚が甦ってきたのだった。

 それは小学生の頃、近所の友だちと集まってプラモデルを作っていたときだった。ひとりの友だちがとても器用にプラモデルを作っているのを見たときだった。

 いいなあ。自分もあのくらい出来ればいいのに。もっとがんばれば出来るようになるのかな。

 その友だちの作ったプラモデルを見て、たくさん褒めたことを健吾は覚えていた。いつか自分も、上手にできたプラモデルを褒めてもらいたかったからだ。

 そのときの感覚が、十五年が過ぎた今でも体に残っていることに健吾は自分で驚いていた。忘れてかけていたその感覚を昨日、沙良が思い出させてくれたのだ。

 豊明から国道一号線で名古屋に入り、名鉄左京山駅と大高緑地公園入り口を過ぎたところで、左手に平城の作業場が入るマンションが見えてきた。

 マンション入り口の路上に、赤いヴィッツが停まっている。その前で沙良が両手を上げてあくびをしているのが見えた


 昨日、喫茶店で平城が切り出した相談は、簡単にまとまった。

 沙良は喫茶店の小豆色をしたソファー風の椅子で「それならあたしが運転します! 奈良ならもう慣れてるから!」と体ごと飛び跳ねて喜んでいた。

 それなら沙良君に車を出してもらおうかと話はまとまり、朝七時に作業場マンション前に集合ということになった。

「平城さん、今日の作業はどうするんですか」

 健吾はどちらかといえば心配性だが、平城はどちらかというまでもなく楽観主義だ。

「なんとかなる。今日はもういい。今から作業しても、一時間か二時間やれるかやれないかだろう。

 今日は二人とも帰って、家族に明日の承諾を得てきてくれ」

 二十歳を超えてるんだから家族の承諾もなにもないでしょ、とは健吾は口にしなかった。

「あたしはひとり暮らしですから! ネコもいないくらいなので心配無用です!」

 沙良はこの地方の大学に通うために、家族から離れてひとり暮らしをしていると健吾に説明した。大学には車で通っているらしい。

「明日は、今日の話の続きを聞いてもらうからそのつもりで頼む。今日話したことの復習もお願いする。できれば予習もだ」

 平城は三本目のピースを灰皿に押しつける。

「でも平城さん、復習はいいとして、予習ってなにをすれば? どう話が転がるかもわからないのに、難しいこと言いますね」

「今日は邪馬台国の話をしたのだ。邪馬台国の予習でいいのではないか」

 残ったココアを一気にあおり飲みしてから、沙良が「わかりました! うちにある本、全部読み返しておきます!」と気合を入れる。

「一応、だいたいのことは頭に入ってるんで、僕は奈良のことを予習しておきます。奈良は久しぶりなので」

「それでヒサヒデさん、奈良のどこに行くおつもりですか?」

 テーブルに肘をついて沙良が身を乗り出す。

「とりあえず大神神社おおみわじんじゃは行きたいと思っているが、あとは現地で決めようと思っている」

「大神神社ですね! 了解です! というか、行ったことあるので知ってます!」

「じゃあ僕は大神神社の予習をしておきます」

 話はまとまり、時計が十五時半を指したところでその日は解散することになった。

 健吾は作業場マンションにスクーターを置いてあるので、喫茶店で平城と共に沙良と別れることになった。


 手を振りながら小走りで帰っていく沙良を見ながら、健吾は平城に尋ねた。

「平城さん、お蕎麦屋さんで沙良さんに会ったとき、まずいって言いませんでした?」

「そうか、確かに口走ったかもしれない。

 いや、彼女が嫌いなわけではない。説明するのは難しいが、少し苦手なだけだ。なんというか、調子を狂わされるというか、私のペースとは違っているということかもしれない。そんなところだ」

 なるほど、と健吾は納得しかけるが、沙良がそこまで平城のペースを乱す人間だとも思えなかった。

 本当にペースの合わない人を、奈良に誘うだろうか。

 この数時間で健吾ははじめに感じた沙良への苦手感が薄らぎ始めている。

 おそらく平城も、沙良が迷惑をかけたり邪魔をするような人ではないことを知っているのではないか。

 そうすると、平城の沙良苦手意識はどこから来ているのだろう。

 健吾はなにかありそうだなとなんとなく感じたが、それほど気にすることでもないと忘れることにした。


 作業場マンションの駐車場の隅にスクーターを停めてヘルメットを脱ぐと、沙良が駆け寄ってきた。

 大きめの白いシャツに朝日が照り返して輝いている。スリムなジーンズは黒色でシャツとのコントラストが大きい。足元のスニーカーは運転のためだろう。

「おはよう! 若者くん!」

 さらりとした黒髪を揺らしながら沙良が声をかけた。

「おはようございます」

 ヘルメットでぺったりとなった髪に手ぐしを入れながら健吾も応える。

「ヒサヒデさん、まだ起きてないみたいなの」

 沙良がマンションを見上げる。平城の作業場は六階にあった。

「あの人、朝が弱いみたいだからなあ」

 なかなか髪が元に戻らず両手で髪をかき上げながら、健吾も作業場がある階を見上げた。

 平城が完全な夜型で、作業は夜中にやっていることが多いことを健吾は知っている。健吾をバイトに雇うときも、できれば夜中に作業開始しないかと冗談半分に提案されたことがあるくらいだ。

「でもまだ二十分前ですよね。一応電話してみますか」

「さっき電話してみたんです。でも出てくれなくて。だからたぶんまだ寝てるんだろうなって」

 沙良が手に握ったスマホに目を落とす。一般的なスマホよりも少し大きい、タブレットの小型版のようなサイズだ。

「そうなんだ。じゃあもう少し待ってましょう。いくら平城さんでも今日は目覚ましくらいかけてなきゃおかしいでしょう」

「ですね、わかりました」

 と沙良が応えたところで、会話が途切れる。

 ほんの数秒の沈黙に健吾は耐えられなくなり、もう一度六階を見上げる。沙良もうつむいて足元を見たが、すぐに顔を上げて「そうだ、若者くん」と話しかけたとき、同時に健吾も「沙良さん、あの」と、ふたりの声が重なった。

「あ、はい?」と沙良が笑顔を見せて首を傾げる。

「いえ、なんですか?」と健吾は目を逸らす。

「若者くん、昨日はごめんなさい。あたし、久しぶりにヒサヒデさんに会ったものだから、なんだか調子に乗っちゃったみたいで」

「あ、いや全然かまいません。平城さんも沙良さんがいたからあの話、話しやすかったんじゃないかな。僕だけならたぶんあんなにスムーズに行ってませんよ」

 健吾は右手を体の前で小さく振り、大丈夫ですの意を伝える。

「あたし、あのあと帰ってから、あー! って頭抱えてたんです。初対面の人なのに! って思って」

 沙良が両手で頬を押さえる。その姿を見て健吾も自然に笑顔になる。

「今日もあの調子でお願いします」

「それならよかった!」

 少しづつ明るさを増していく朝日の中で沙良がぴょんと飛び上がると、陽が頬にあたり笑顔を輝かせた。

 その笑顔のままで沙良が聞いた。

「昨日聞きたかったことなんですけど、若者くん、ヒサヒデさんとはいつ知り合ったんですか」

「あ、そうか、昨日はそういう話はしませんでしたね」

「うん、お仕事のお手伝いしてるってことだけかな」

「あ、ちょっと待って。缶コーヒー買ってきます。沙良さん、なにがいいですか?」

 マンション入り口近くに設置されている自販機に向かいながら、健吾は聞いた。沙良も健吾のうしろを追いかけてくる。

「あ、あたし自分で買いますよ!」

 沙良の赤いヴィッツが停めてあるすぐ横の自販機にコインを入れて、健吾は温かい缶コーヒーのボタンを押す。沙良がすぐ横に立って、財布を手に持っている。

「沙良さん、いいですよ。缶コーヒーくらい僕に出させてください。今日は運転してもらうんだから」

「でも」

 缶コーヒーを自販機から取り出して、健吾は続けてコインを投入する。

「なにがいいですか」

「えっと、じゃあココアを」

 ごろんと音がして、健吾がココアを取り出す。

「はい。けっこう熱いですよ」

「ありがとうございます。なんだか悪いなあ」

「気にしないでください。実は僕、車の免許、まだ持ってないんです。原付だけ。だから今日は運転代わってあげられないから。その替わりにココアじゃ、え? っと思われるかもしれないけど」

「大丈夫です! 任せてください!」

 健吾と沙良はヴィッツに歩道側から寄りかかり、缶を開ける

「それで平城さんなんだけど、僕の父親と平城さんが友だちなんです。昔からの友だち。もう二十五年以上になるって言ってなかったかな」

「そうなんだ」

 沙良は缶が熱いのか大きめのシャツの袖の中に入れた両手で、ココアを包んで持っている。

「だから僕も、小さいときからたまに平城さんとは会ってたんです。会ってたというか見てたというか。たぶん平城さんは僕が生まれたときから僕を知ってるってことです。

 それで、なんとなく平城さんのところへバイトに行くようになったっていうことかな」

「若者くん、造形はするの?」

 健吾の缶コーヒーもまだ熱く、少しづつすすることしかできない。

「僕はほんとに手伝いだけ。磨き作業がメイン。たまに注型もするけど、それは今までに数回だけです。

 昔プラモデルくらいは作ったけど、それは小学生のときだから。それから全然やってないから造形は無理ですよ」

「そうなんだ」

「沙良さんは? どうして造形をはじめたんですか」

 沙良が細いあごを上げて、正面にあるマンションを見上げる。

「あたしは小さいころに両親が別れて、それで母親に連れられて引っ越した先でぜんぜん友だちができなくて。それでひとりで遊んでいるうちに粘土とか模型とか、作って遊べるものが好きになって、それがずっと続いてるって感じです。

 なんか、普通の女のコとは違いますよね」

「そんなことないです。ごめん、ヘンなこと聞いちゃって」

 健吾はあわてて謝る。沙良が首を傾げてにこりとした。

「へんなことって、両親のことですか? 大丈夫ですよ。さすがにもう十五年前のことはあたしも気にしてませんよ。でも気を使わせちゃってごめんなさい」

「そうですか、よかった。でも一度、沙良さんが造ったものを見てみたいな」

 沙良にもいろいろとあったんだと頭の隅で思いながら、健吾は話題を無理に変えた。

「今度持っていきますよ! ヒサヒデさんのお手伝いのときに!

 でも若者くん、ヒサヒデさんのお仕事見てるってことは、眼が肥えてるんだろうなあ。少しためらっちゃう」

 いや僕の眼なんて肥えてるというより痩せすぎで、と応えようとしたとき、沙良が「あっ」と小さく声を出した。

「すまん。待ったか」

 マンションの出入り口に平城の姿が見えた。七時を五分過ぎていた。

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