第06話 黥面文身(2)
蕎麦をすすりながらほとんどひとりで話している沙良を見ていて、決して悪い娘ではないなと健吾は思う。しかしどうもそのテンションについて行けない。平城が苦手だというのもなんとなくわかる。
しばらくすると、店員がそばがきを運んできた。大きめの椀にこんもりと盛られている。平城が一人前しか注文しなかった理由が健吾にもわかった。
「そばがきが出てくると酒が飲みたくなる」
「飲めばいいじゃないですか。あたしのことは気にしなくて大丈夫ですよ」
「そういう問題ではない」
平城はそばがきを一口つまむ、「うまい」と微笑む。
「沙良君もつまむといい。ひとつの椀からで良ければだが」
「いいんですか! うれしい!」
沙良はさほど気にする様子もなく、同じ椀のそばがきに箸を伸ばした。
「うん! うまい!」
沙良が目を閉じてにっこりとする。
こういうところを見ると、平城は沙良を苦手にしてはいても嫌っているわけではなさそうだ。
「ところで若者、どうだ? この店は」
どうだと聞かれても、健吾にはまだ店の良さを判断できるような経験が備わっていない。平城が勧めた十割蕎麦も、他とどう違うのか正直よくわからなかった。
「どうだこの店は、若者!」
沙良がそばがきを頬ばったまま繰り返す。
「ええと、すみません、よくわからないです。おいしいのはおいしいです。このお蕎麦、かなりいいお蕎麦なんですよね?」
平城がにこりとした。
「若者、正直でいいぞ。君の前で蕎麦のうんちくを垂れるような知識は私にもないが、おいしいと思うのなら、その味や食感、香りは覚えておいて損はない」
「はあ」
「それよりもどうだ、この店は?」
平城が同じ質問を繰り返す。
「平城さん、お酒飲んでないのに酔っぱらってきてるんですか」
あはは、と沙良が笑う。平城も笑う。
「いや、蕎麦のことじゃない。この店の造りだ。木造でいい感じだろう」
「あ、そういうことですか」
「あたしはこのお店、大好きだなあ。あたしと同じ名前だし」
“さらら”という店名が健吾の頭の中で連想を広げる。
「ええと、沙良さんの名前ではないかと思います。おそらく持統天皇の名前の
沙良の眼が大きくなる。
「若者くん、すごい。知ってるんだ持統天皇」
「彼は歴史学科の歴史オタクだよ」
平城の補足に、沙良はへえと感心して健吾を見つめる。
健吾は沙良に見つめられてまたうつむきながらも、沙良の「知ってるんだ持統天皇」という言葉が気にかかった。まさかと思うけど、この人も持統天皇を知ってるのでは?
「それなら若者くんにもいろいろ教えてもらわなくちゃ。
あたし、ヒサヒデさんに造形をやるならいろいろなものを、特に文化財をたくさん見なくちゃいけないって教わって、それからお寺や神社や仏像とか時間があれば見て回ってるんです。
それでついでってわけじゃないんですけど、歴史にも興味が出てきちゃって」
やはりと思いながらも、健吾は沙良のまっすぐな視線に耐えられない。上目使いにそっと沙良を見返す。
「そうなんですね。どこに出かけたりするんですか?」
健吾はどちらかといえばじっとして本を読むタイプだが、ごくたまに文化財探訪に出かけることもある。
「このところはずっと奈良! 明日香村とか大好きなんです」
健吾は少し意外に感じた。沙良の印象からもそうだが、同年代の娘は奈良よりも京都を好むと思っていたからだ。
奈良、明日香村は健吾にとっても特別な場所だ。日本の歴史はそこから始まっているといってもいい。
「僕も明日香は好きです。三度くらい行ったかな」
沙良の表情がいっそう輝く。
「そうなんですね! じゃあ今度いっしょに行きましょう!」
どう応えていいのかわからずに、健吾は平城に話を向ける。
「……平城さん、ここ、まだ新しいお店ですよね」
ふたりに話させたまま、ひとりでそばがきをつついていた平城が顔を上げた。
「確か、まだ二年にはなっていないと思う」
「このお店、なんというかこの前フィールドワークで行った伊勢神宮みたいな感じかな」
平城が箸を置き、腕を組んで唸った。
「若者、蕎麦屋と伊勢神宮を比べるとは、なかなかやるな」
健吾が数ヶ月前に見た伊勢神宮は、輝いていた。伊勢神宮は数年前に遷宮を終えたばかりで、まだ新しい白木の唯一神明造が見られるのだ。
「若者、せっかくだから例の話、沙良君にもいっしょに聞いてもらおうか」
あれ、苦手だと言ってたはずなのにそうなるんだ、とは言えずに健吾はうなずく。
「聞かせてください! なんの話ですか?」
健吾は沙良に、平城のオリジナル造形作品についての考察を聞いていることをざっくりと説明した。
うんうんと聞いていた沙良は、スサノオが女装しているという部分は「へえ」と簡単にスルーするが、オリジナル造形という部分には反応して眼を輝かせた。
「ヒサヒデさんのオリジナルスサノオですか! 見たいです!」
「そう言ってもらえるのはありがたい。では若者ふたりに協力してもらおう」
平城が白木のテーブルに肘をついて、指を組んだ。
「この白木のテーブルやこの店の建物を、私は美しいと思う。きっと君たちもそうだろう」
「それはそうです。きれいだと思います」
平城の横で、沙良もうんうんとうなずいている。。
「そこで若者、史学科の君に聞いてみたい。この白木のテーブルをきれいだと感じる私たちの感覚は、いったいいつから、どこから来ているのかを」
健吾はそばがきをつまもうとしていた箸を止めた。
白木をきれいだと感じる感覚がどこから、いつからだって?
「わあ、いきなり難しい質問だ。若者くん、がんばれ!」
沙良は健吾にガッツポーズを向けた。
考えたこともない質問に健吾はしばらく平城を見つめたまま、ぽかんとしている。
「その質問って、スサノオに関係してることなんですか」
答えを思いつかずに、健吾はとっさに質問を返した。
「もちろんそうだ。スサノオの話だ」
健吾はもう一度箸を握りなおして、そばがきをつまむ。平城に教えてもらった通りに、少しだけつゆをつける。そばがきを食べたのは今日がはじめてだった。麺状の蕎麦、いわゆる蕎麦切りよりも、蕎麦の香りがはっきりとわかる気がした。
そばがきを味わいながらも、健吾の頭は回転を続けている。
なにかをきれいだと思う気持ち。それが人が生まれつき持っているものではなく、生まれてから今までの生活環境、つまり文化の影響であるなら、それはこれまで人が生きてきた時間の積み重ねと共に育まれたものだ。すると、その始まりは遡れる歴史のどこかであるに違いない。
平安? 奈良? 飛鳥? そのもっと前?
「私はずっと疑問に思っていたことがある」
健吾が答えに窮しているのを見て、平城が話し始めた。
「九州、佐賀県の吉野ヶ里遺跡を見学したときのことだ。
吉野ヶ里は遺跡の発掘後に、その地をそのまま公園にしている。遺跡発掘場所のまさにその上に盛り土をして、建物を復元して公開している吉野ヶ里歴史公園だ」
健吾は答えを見つける前に、まずは平城の話を聞くことにした。
沙良も黙って平城の話に耳を傾けている。
「復元された建物や展示は素晴らしいものだった。
展示解説も、そこは邪馬台国比定地のひとつであるのに、あえて邪馬台国という語を使っていないかのように控えめだった。一部展示で、邪馬台国の可能性はあるという意味の解説があるくらいだ。
さすがに国営の施設だと思った。あくまでも公平を貫いている感がしたのだ。
広大なその公園は、弥生時代はまさにこうだったに違いないと思わせてくれるだけの説得力を持っていた。私は夢中になった」
平城の話を聞きながら、健吾は続けてそばがきを口に運ぶ。
「しかしひとつ、どうしても違和感を覚えることがあった。不満といった方がいいかもしれない。
私の不満の原因がわかるか、若者」
「いえ、さすがにそれは。僕、吉野ヶ里に行ったことはないですし」
「あたしも行ったことないなあ。一度行きたいなあ」
「若者、魏志倭人伝は暗記しているのか」
健吾はそばがきを吹き出しそうになった。
「まさか。ざっくりと内容を覚えているだけですよ」
「それで充分だ。魏志倭人伝の中に
「覚えています。男子は大人も子供も、みんな顔や体に入れ墨をしていた、というくだりですよね」
「若者くん、すごい。あたしも何冊か邪馬台国の本を読んでるけど、そこまでは覚えてないや」
沙良が健吾を見つめて素直につぶやく。
平城は話しながらまだ残っている蕎麦に箸をつけはじめた。
「その“黥面文身”が、私は昔からずっと気になっていた。
吉野ヶ里では復元建築物の内部にかなりリアルな復元人物も展示してある。ところがだ、どう見ても“黥面文身”ではないのだ。
吉野ヶ里歴史公園の名誉のためにひとこと断っておくが、まったく“黥面文身”がなかったわけではない。入り口を守る兵士や楼閣を守る兵士たちだけには、控えめながら“黥面文身”はなされていた。
しかしあくまでも控えめにだ。魏志倭人伝は君が言ったように、男は大人も子どももすべて顔や体に入れ墨をしている、と書いてある。
それを再現出来ていないということは、吉野ヶ里歴史公園自らが、吉野ヶ里は邪馬台国ではない、と公言していることになるとは思わないか」
それはあまりに自分勝手な解釈ではありませんかと健吾は思うが、それとは別に平城がここまで魏志倭人伝に、邪馬台国に興味を持っていたことに驚いていた。
「“黥面文身”ですが、その言葉から魏志倭人伝は信用できないとする説もありますよね。あまりに日本の文化とかけ離れている記述だから」
蕎麦をすすり込んでから平城がうなずく。
「そのとおりだ、若者。あまりに現在の日本文化とはかけ離れている。
私はずっとそれが気になっていた。気になってはいたが、考えてみれば単純な話でもある。
つまり、本当に文化が違っていたということだ」
それは違って当たり前ですよ弥生時代なんだから、と口に出しかけて健吾はためらった。どうも平城の考えはそこまで単純ではないようだ。
「若者、君は“黥面文身”という言葉から、なにを連想する?」
てんぷらをかじりながら平城は健吾に尋ねる。
「男はみんな入れ墨ですか……。あまり深く考えたことなかったですけど、ちょっと異様な感じではありますよね」
「男の人がみんな顔や手に入れ墨してたら、異様どころかこわいですよ。かなり引いちゃう」
「それだ」
口からはみ出したエビ天の尻尾を引きちぎりながら、平城は健吾と沙良を交互に見つめた。
「私は“黥面文身”から異様で恐ろしい文化を感じる。もっとはっきり言えば、縄文時代の文化を感じるのだ。
魏志倭人伝がわざわざ“黥面文身”だったと記述するからには、それは明らかに特徴的だったということだ。おそらく入れ墨は、かなり目立つ異様なものだったのだろう。現代のような一部のタトゥーではない。
そして全身が入れ墨ならば、服装もそれに見合うデザインだったと考えるのが普通だろう。私たちがイメージする弥生的なのっぺりとしたベージュ色の衣装は“黥面文身”にはそぐわない。
もっと荒々しく野性的なデザイン、いうならば縄文的なデザインこそが“黥面文身”にふさわしいと思わないか。
わかるか、若者。つまり邪馬台国は、縄文文化のクニだったのだ」
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