第05話 黥面文身(1)
よし、めしを食いに行こう、という平城の提案に従って、健吾は平城と作業部屋を出た。ちょうど十二時を回ったところだった。
平城は作業着のポンチョを脱いだだけの、黒い長袖ポロシャツにジーンズというラフな姿のまま外に出た。
ふたりが入ったのは、作業部屋から十分ほど歩いた蕎麦屋だった。
白木を使った清潔な造りの蕎麦専門店だ。丸太をななめに切り落として板にした看板に『さらら』と店名が書かれている。
平城の作業場は健吾の自宅から直線距離で十キロほどある。月に一、二度のバイトのときにしかこのあたりに来ることはない。平城の作業部屋までスクーターで通う道筋にある店だったが、健吾はその店には気がついていなかった。特に蕎麦に興味があるわけではなかったからかもしれない。
「若者には蕎麦は物足りないか。天ぷらも食うといい」
「そんなことはないですけど。でも天ぷらも頂きます」
健吾の背丈は平城と同じくらいだが、平城よりは細身で子どもの頃からあまり食べる方ではない。
店はテーブルや椅子も白木の板で作られており、エッジが小気味よい。
まだ新しい店のようだ。店内には穏やかなクラシック音楽が流れていて、蕎麦の香りがふんわりと漂っている。
十卓ほど並べられているテーブルはほとんどが埋まっているが、客たちは静かだ。
もしかしたらけっこう高級なお店なのかもと健吾が店内を見渡すと、ふたつほど離れたテーブルで、女性がこちらを見ながら小さく手を振っていることに気がついた。
女性はひとりで座り、テーブルにも一人分の食器しか並べられていない。彼女ひとりで食事に来ているようだ。
健吾と同年齢くらいだろう小柄な女性は、自分ではなくて平城に向けて手を振っているらしい。大きく声を出すのをためらって、手を振って気がついてもらおうとしている。
「平城さん、あの」
と、健吾は頭を動かして女性が呼んでいることを平城に知らせる。女性に気づいた平城が「わ」と小さくつぶやいた。
「まずい。沙良だ」
「サラ、さん? 知り合いですか」
「知り合いというかなんというか。とにかく私は彼女が苦手なのだ」
注文した十割蕎麦の大盛りと天ぷらの盛り合わせを二人分、店員が運んできた。
店員と同時に、沙良が自分のざる蕎麦を持ってふたりのテーブルに近づいてくる。沙良はざる蕎麦を平城の隣に置くと、その耳元に掌を添えてつぶやいた。
「ヒサヒデさん、おひさしぶり!」
平城は反射的に頭を沙良から遠ざけた。
「いいから普通に話しなさい」
「だって、うるさくしちゃ迷惑じゃないですか。あ、あたし、ここに移りますね」
店員にそう告げると、沙良は勝手に平城の横に腰かけた。
「いやあ、ここでヒサヒデさんと会えるとは! お蕎麦食べに来てよかった!」
肩にかかる黒髪を揺らして、沙良はなぜか両腕を上げて伸びをしている。
「むう。まさか君がここにいるとはな」
平城は隣に座った沙良をちらりと見て、割り箸を手に取った。
「あのう、平城さん」
たまりかねて健吾は小さく口を開く。
「どなたですか?」
平城の代わりに沙良が前のめりになって、答えた。
「あたし、縣沙良。アガタは県という字に系統の系。サラはひらがなでもカタカナでもどっちでもいいよ。漢字を説明するのが大変なの」
「サはサンズイに少だ。ラは良しだ。別に大変でもなんでもないだろう」
平城が蕎麦をつつきながら説明する。
「それで平城さん、どなたなんですか」
沙良、と漢字を頭に描きながら健吾はもう一度尋ねる。もしかしたら僕も苦手かもこの人、とわずかに思ってしまう。
「あたしはヒサヒデさんの弟子になる予定の人です!」
沙良が座ったまま両手を細い腰に当てて背を伸ばした。
平城がむせる。
「おい、いい加減なことを言うんじゃない。健吾がびっくりするじゃないか」
「ケンゴくんっていうんだ。よろしくね。なにケンゴ?」
「別府です。温泉地の別府」
沙良がわずかに首を傾げる。
「そうなんだ、別府ケンゴくんかあ。いいなあ温泉。行きたいなあ」
ちょっとこれはついて行けないかもと、健吾は困ったように平城を見る。平城も困った表情で健吾をちらりと見た。
「沙良君とはね、イベントで会ったのだ」
「そう! 二年前のワンフェスで会ったんです。運命の出会いだったなあ」
ざる蕎麦といっしょに持ってきた箸を胸の前で握りしめて沙良が空を見つめる。
「あたし、あのときが初めてのワンフェスだったんです。それで、そのとき隣の卓にいたディーラーさんが、ヒサヒデさん」
ワンフェスというイベントは健吾も知っていた。何度か平城に誘われたものの、タイミングが悪くてまだ一度も赴いたことはない。
ワンフェスは、正式にはワンダーフェスティバルという。
プロ、アマチュア問わずに全国から造形を趣味とする人々が集まり、自作の造形物を展示、販売するイベントだ。以前は東京ビッグサイトが会場だったが、数年前から千葉の幕張メッセに移動している。
年に二度、夏と冬に開催されており、平城はそのイベントに十年を超えて連続出展していた。
「ヒサヒデさんは有名なディーラーさんじゃないですか。それであたし、びっくりしちゃって。頂いた名刺見たら、おうちがご近所でまたまたびっくりしちゃって、それで帰ってから思い切って電話しちゃったんです」
箸を握りしめたまま沙良は平城を振り向いてウインクする。平城はそのウインクを無視した。
「沙良君は大学の造形学科なんだ。それでワンフェスにも出ることにしたらしい」
「もうあのときから、あたしはヒサヒデさんの弟子になろう! って決めたんです。いろいろ教えてもらおーって」
「やめたまえ。健吾が誤解するじゃないか」
「あら、どうして誤解? それでそれで、ケンゴくんはなにしてる人なんですか?」
いつの間にか君づけで呼ばれていることにはとりあえず気がついてない振りをして健吾は顔を上げたが、正面から真っすぐに自分を見つめる沙良の瞳に再び顔を伏せる。
「僕はその、平城さんの手伝いを」
「彼は私が頼んで仕事を手伝ってもらっている。今日も作業をしている。それで昼食にここへ来たわけだ」
平城の言葉が終わる前に、沙良は頬を膨らます。
「いいなあ。ヒサヒデさんのお仕事のお手伝いかあ。どうしてあたしも誘ってくれないんですか」
「勘弁してくれ。とりあえず蕎麦を食おう」
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