第03話 ラフスケッチ(1)
「若者、これを見てくれないか」
磨き作業に没頭して時間を忘れかけた頃、平城が健吾に声をかけた。
平城の声に、はっと気がついて健吾は頭を上げる。
壁の時計を見ると、作業を始めて一時間半が過ぎている。『スティング』もすでに終わり、画面にはDVDのメニューが表示されていた。
健吾は水研ぎでふやけてきた指を、研磨作業時にはいつも用意してあるボールに貯めた水で洗う。指から手にかけて、粉で真っ白になっていた。
「この一時間半でこんなものを造ったのだが、まだデザインが決まらない」
平城はそう言いながらパソコンからDVDを取り出し、別のディスクに入れ替える。
健吾は立ち上がって、平城の背中越しにパソコンの画面を眺めた。
平城の造形手法は数年前から、粘土からデジタルに移行しつつあった。
スカルピーという造形専用粘土を使った直接的な造形から
平城の前のパソコン画面いっぱいに表示されているのは、そのZBrushの作業画面だった。全体的にグレーの配色がなされた編集画面には、ところどころ鮮やかなオレンジ色のメニューが輝いている。
編集画面中央に、粘土でできたような人体と台座のようなものが表示されている。
人体はまだラフ状態で、頭部はあるものの目鼻の細かな部分は省略されていた。足先や指も造られてはいない。
小山のようなのっぺりとした台座の上で、その人体ラフは身体を屈め、小山に何かを突き刺しているようなポーズを取っていた。
隣の机に置かれたもう一台のモニターから『ダ・ヴィンチ・コード』が流れはじめた。健吾も好きな映画だった。
「なんですか、それは」
健吾が素直に思ったことを聞いた。
平城が握っていたタブレットペンを置き、椅子を回転させた。それに合わせて、健吾ももう一度自分の椅子に座る。
「スサノオノミコトだ。オリジナルなスサノオを造ろうと思っている」
スサノオ。古事記によれば、正式な名前は
昨日、日本書紀を開いていたときに、その序盤の神代のあたりもぱらぱらと見直していた健吾はとっさに、『八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣を』というスサノオが詠んだ歌を思い出していた。
「へえ、スサノオですか。面白そうですね」
「ポーズはだいたい決まってきているのだが、衣装デザインがまとまらない」
「衣装って、たいていの図像ではスサノオは古墳時代的な衣装ですよ」
「そんな当たり前のデザインなんかしていたら、面白くもなんともないではないか」
面白くないといわれても仕方ないじゃないかと、健吾は思う。
おそらく古事記、日本書紀が書かれた八世紀奈良時代あたりからそういうイメージが定着しているのだから。
つまり、筒袖の衣とゆったりとした袴に
それに文献的に時代を遡っていけば、スサノオは弥生後期あたりにまで下るのではないか。文献に書かれている時間をそのまま遡ることにはあまり意味がないと知ってはいるが、仮にもし弥生後期であるならもっと簡単な服装になるのかもしれない。
「面白くないというと、平城さんはどんなイメージを持ってるんですか、スサノオに」
「考えてはいる。そこで、その考察を君に聞いてもらいたいと思ってるわけだ。私の考えをまとめるために」
なるほど。今日の呼び出しの本題はスサノオだったのか。それなら、少しは自分にも意見が言えるかもしれない。
健吾は、聞きましょうというように脚を組んでから平城の眼を見つめた。
平城はアイコスを取り上げながら、ゆっくりと話した。
「スサノオは、女装している。
古墳時代の衣装の上に弥生の衣を羽織っている。衣の模様は縄文で禍々しく異様な装飾がつけられている。
片手に持った熊の毛皮がマントのように翻り、倒された縄文人が山のように積み重なったその上でスサノオは血まみれの剣を持ち、カッコ良く立っているのだ」
「なんかめちゃくちゃですね」
「なにを言うか。しっかりと考察している」
「縄文と弥生と古墳時代と、それに女装とクマって」
「なにが悪い。相手は泣く子も黙るスサノオだぞ」
それからしばらく、平城は健吾が話す歴史常識の講義を黙って聞いていた。
「まず日本の時代区分ですけど、縄文時代はざっと一万数千年前から紀元前六世紀くらいで、そこから弥生時代が始まってこれがだいたい三世紀まで続きます。
三世紀後半には古墳時代が始まり、飛鳥時代を経て、八世紀の奈良時代へと移っていきます。
縄文の始まりと終わり、弥生の始まりは今でもかなり変動してますけど」
平城はときおりなるほどと相槌を打ち、うんうんと頷きながらおとなしく聞いている。
「スサノオ、というか記紀の記述のことなので縄文以前と奈良以降は省略します。
それでですね、平城さんが使った縄文とか弥生という時代区分は、考古学上の時代区分なんですよね。この時代の文献史料は残ってないので、遺跡を参考にするしかないわけです」
「縄文時代と弥生時代はこの時点で分かれる、とははっきりと決まってないんだな」
平城はアイコスに煙草スティックをぎゅっと押し込んでいる。
「決まってないです。今でも遺跡発掘が行われていて、どんどん新しい史料や研究結果が出てきてるし、だいたい昔の時代なんてここからここまでというはっきりとした区別は難しいんです。
政治の中枢がどこにあったかという区別ができる、飛鳥以降は別ですけど」
「なるほど」
アイコスの水蒸気が平城の口から吐き出されるが、やはり煙草の匂いは感じられない。
「それで、縄文時代と弥生時代をどう区別してるかというと、さっきも言いましたけど遺跡から出てきた遺構や遺物を調べて判断してるんですよね。
年代測定ももちろんやるんですが、縄文と弥生だと例えば土器のデザインがまったく違った感じになってます」
「私は縄文式土器が好きだ。あのデザインは素晴らしい」
「そういうことなんですよ。縄文っぽいとか、弥生っぽいって、デザインが感覚的にわかりますよね。そういう感覚で区別してるんです。他にも稲作をしてたかどうかとかそういうのもありますけど。ただ、問題は」
健吾が一呼吸置く。
「問題はですね、僕、簡単に縄文だとか弥生だとか言ってますけど、これってものすごく長い時間の話なんです。縄文で一万数千年間、弥生で千年、古墳時代でも数百年間あります」
「つまり、どういうことだ」
「つまりですね、縄文っぽいとか弥生っぽいというデザイン感覚は、この長い時間の中で少しづつ変化しながら出来上がってきたものだと思うんです。
なので、平城さんがさっき話してくれたスサノオみたいに各時代のデザインが混在してるってことは、まずあり得ないってことなんです」
スサノオにやっつけられるのが縄文人だとすればその時代は縄文時代なわけで、その時代に弥生や古墳の衣装があるわけがないでしょう、あると考えるならあなたはおかしい、と追い打ちをかけるべきかどうかと健吾は迷ったが、一応クライアントである平城をこれ以上追いつめるのはまずいとの判断を下した。
平城は腕を組んで、ううむと唸っている。
「コーヒーを淹れてこよう」
そういうと平城は立ち上がり、作業部屋から出て行った。
右のモニターではトム・ハンクスとオドレイ・トトゥがパリの街中を暴走している。
ちょっとはっきり言いすぎたかな。
健吾は追い打ちをかけなくて正解だったと小さなため息をつく。
はっきり言いすぎたかもしれないけど、やっぱり言うべきことは言っとかなくちゃ。それが平城のため、ひいては自分のためだ。
健吾は少しばかり申し訳ないような気持ちで、平城を待った。時計を見ると十一時を回っている。
平城の机の向こう、開け放たれた窓の外では木々の背後に青い空が見えていた。
天気予報ではしばらく雨は降らないらしい。レポートに集中できなかった健吾は昨日、どこかに出かけようかと考えていたことを思い出した。
「ところで若者、史学科で歴史オタクの君に聞きたいのだが、古事記、日本書紀の神代に書かれていることは、本当にあったことなのか」
平城が湯気の上がるコーヒーカップをふたつ持って部屋に戻ってきた。
記紀の神代には、神々の誕生から
健吾は久しぶりに歴史オタクと呼ばれてわずかに反抗心が沸きあがり、最近はミステリーオタクですと答えようかと思ったが、聞き流すことにする。このところ健吾は歴史系の本よりもミステリーを読むことが多くなってきていた。
健吾は平城からコーヒーカップを受け取り、両手で包んですする。
「まさか。今どきあんなことが本当にあったなんて信じてる人はいないですよ」
一応、平城の前では歴史を学ぶ学生らしい発言をすることにした。
平城もコーヒーカップを手に、もう一度椅子に座り直す。
「じゃあ全部ウソなのか」
「困りましたね。ウソかって言われると、そうでもないと答えるしかないような。
神話に共通することだと思うんですけど、何か重要な出来事があって、それが形を変えて神話として残っている、ということなんじゃないでしょうか。少なくとも僕はそう思ってますけど」
聖書の創世記をそのまま信じているのは原理主義者くらいだが、ノアの大洪水はもしかしたら本当にあったことかもしれないといわれている。
「それならスサノオは、どう思う」
どう応えようか。いなかったと答えてしまうと、もしかしたら平城は失望してしまうのだろうか。
「正直、わかんないですよ。僕だけじゃなくて、たぶん誰もわからないと思います。
わからないので、いたことにしてしまってもいいとは思います。間違いにはならないです。
服装や場面の状況がめちゃくちゃになってなければですけど」
ノアの洪水が本当にあったことだとしても、縄文時代と古墳時代が混在することはあり得ないのだ。
平城はコーヒーを置いて、アイコスに手を伸ばす。
「君の話では、神話とはなんらかの出来事を比喩として記述したものであり、登場人物も実在が不明だということだな。
ということは記紀神代の内容は、書かれている大まかなエピソードを重視すればいいだけで、その時系列や詳細、人物や組織などは重要視するべきではない、ということでいいか」
健吾は平城がなにを言おうとしているのかがわからなくなってきた。なんだか話を誘導されているような気もする。
「古事記、日本書紀は決していい加減な文献ではないですが、神代に限定すればそういうことでいいんじゃないでしょうか」
神代に限定と答えて、健吾はふと昨日考えていた神功皇后のことを思い出した。神功皇后は日本書紀の人皇の部に記載されている。神代ではない。
それでも神功皇后の実在は疑問視されているのではなかったか。神功皇后だけではない。天皇だって何代からが実在なのかがはっきりとしていない。
健吾はためらったが、そこまで話すのはやめることにする。話を広げすぎてもややこしくなるだけだ。
「さすが史学科で歴史オタクだ。答えが早くて助かる」
誉められているのか、それともからかわれているのかがわからなくなり、健吾はうつむいてコーヒーをすすった。
「さてそこで」
平城が水蒸気を吐き出す。
「今度は文献史学の立場から答えてもらいたいのだが、君は邪馬台国をどう考えている?」
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