1 スサノオ・コード

第01話 造形屋の部屋(1)

 別府健吾の携帯電話に平城久秀から着信があったのは、昨日だった。

 日曜の午後で、健吾はレポートテーマである神功皇后について考えるために、日本書紀と魏志倭人伝を読み込もうとしているところだった。

 しかしどうにも集中できず、ベッドに寝転がってぱらぱらと眺めるでもなしに魏志倭人伝をめくっているところに、平城からの電話がかかってきたのだ。


「若者、元気か。久しぶりだ」

「なに言ってるんですか、平城さん。二週間前に会ったばかりですよ。もしかして、引きこもりで時間感覚がおかしくなってるとか」

 平城は以前から、自分は引きこもりだと公言している。作業のためにほとんどの時間をひとりきりの部屋で過ごすからということらしいが、それを引きこもりの定義に加えるなら、世の中の引きこもりはずいぶんと増えてしまうことになる。

「二週間も過ぎていれば久しぶりという言葉を使うことに、私はためらいはない。久しぶりだから、遊びに来ないかという誘いの電話だ」

「もしかして、バイトですか」

「察しがいいな。そのとおりだ」

 健吾の頭の中で様々な要素が高速で駆け引きを始めた。レポートの提出期限、出かけたい旅行、友人からの飲み会の誘い、などなど。

 要素の中には、平城のアルバイトそのものについても含まれている。平城の仕事を手伝うのは、決して楽なものではない。作業はそれなりに辛く、肉体的な苦痛や精神的な焦りも感じることが多い。

 しかしそれでも健吾は不思議と、平城のバイトを断ったことはなかった。

 明日は休日だからいいけど、もしかしてまた数日続くのかな。まあそれならそれでかまわない。講義があるが休んでしまおうか。

 平城はフリーランスだからなのか、平日、土日、祝日という概念がすっぽりと抜け落ちている。油断すると、いや油断しなくても休日は関係がなくなる。

「わかりました。行きます。でもできれば数日前に教えてくれると、僕もとても助かるんですが」

「ボギーでさえ今夜のことを、そんな先のことはわからないと言っている。私に数日先のことがわかるわけがないだろう」

 映画好きの平城のことだ。またなにかの映画の話だろうとは思ったものの、それがどの映画のことなのか健吾にはわからなかった。


「やあ。来たな」

 パソコンの画面を見つめたまま振り向きもせずに、平城久秀は別府健吾に声をかけた。

 緩やかに波打つ細い髪がところどころはねている。平城によれば特にパーマをかけたわけでもななく、生まれつきウェーブのかかった髪だったらしい。

 いつもと同じく画家が作業時に着るポンチョのような青い作業着を着ているが、だぼっとしたポンチョの上からでも骨ばった広い肩が浮き出ているように見える。

「またよろしくです」

 健吾は平城の背中に声をかけ、開かれたドアの横に立ったままさっと部屋を眺める。

 六畳の作業部屋はひと目で見渡せた。

 正面の窓際に机がふたつ。平城が座っているパソコンの置かれた机と、その横に粘土作業用の机。

 粘土作業用机には造形用粘土スカルピーやスパチュラと呼ばれる細工用のヘラ、芯材などの素材や道具が散乱している。

 この粘土作業用机の奥にもパソコンのモニターが置かれており、画面の中でポール・ニューマンが指で鼻をこすりながらにやりと笑っている。『スティング』のようだ。音声はかなり絞られているが、平城はそれでいいのだろう。

 右の壁にもうひとつ補助用の机が置かれていて、そこにも様々な道具が散らばっていた。

 机以外には道具や素材が詰まったキャスター付きの道具入れが数種類。資料などを収めた本棚は別の部屋だ。

 平城が座る正面の窓は開け放たれており、まだ午前の明るい日差しが部屋いっぱいに踊っている。

 十月の初旬、おそらく一年で最も気持ちのいい時期だ。

 名古屋市南部の丘陵地帯。新幹線と名古屋鉄道に挟まれた大高緑地公園のその脇に、平城が作業部屋としているマンションはあった。


 それにしても、相変わらず雑然とした部屋だった。

 二週間前に来たときからそのまま時間が止まっているかのように、雑然が固定化している。固定していないのは映画の画面くらいじゃないのか。

「平城さん、この前から全然変わってないじゃないですか。片づけるって言ってたくせに」

 やれやれといった口調で、健吾は平城の後頭部に言葉を投げる。

「掃除機だけはそれなりにかけている」

 モニターから目を離さずに平城が応える。

「でも、そこの床に転がってるドリンクの瓶は二週間前にもありましたよ」

 作業部屋の床はフローリングで、絨毯は敷かれていない。だから冬には底冷えがする。

 絨毯を敷かないのは椅子や道具入れの移動に不便だからということらしいが、床には本や雑誌、ドリンクの瓶以外にも細かな物が散乱している。

 床に積まれて山になっている映画のDVDケースのタイトルだけは二週間前とは入れ替わっていることに健吾は気がついたが、それには触れなかった。

 これでは絨毯が敷かれていなくても、とても道具箱などのスムーズな移動なんてできはしない。

「座ってコーヒーでも飲んでくれ。話はそれからだ」

 平城久秀は相変わらずパソコンに向かい、タブレットペンを握ったままだ。ペンを握った右腕が細かく動き回っている。

 健吾は言われたままに、右の壁際に置かれた補助作業用机の椅子に腰掛けた。そこは健吾が平城の作業を手伝うときにいつも使う、彼の指定席のような場所だった。

 平城の斜め後ろのその席には、缶コーヒーがぽつんと置いてある。健吾のために平城が用意しておいたものだろう。

 健吾は缶コーヒーを開けると、その音を合図にしたかのように平城が振り向いた。

「若者、もっと明るい顔をしろ。世間は気持ちのいい秋だ。引きこもりの私でさえ、お散歩に出かけたいくらいの気分だ」

「放っておいてください。顔は生まれつきなんですから」

 健吾はまだ暖かい缶コーヒーに口をつける。

「それが放っておくこともできなくなった。出力品があがってきた。また磨きを頼みたい。ギャラはいつもと同じだ」

 健吾は缶コーヒーをすすりながら小さく頷く。

 足下に置いてある段ボール箱の蓋が開封されており、その中に梱包材に包まれた細かなパーツが透けて見えていた。

 このところ増えてきた光造形機からの出力品だ。健吾の作業は、その研磨作業になる。

 スカルピー粘土の原型よりは固くて磨き辛いが、その固さにも慣れてきていた。

 平城は板タブの横に置いてあった煙草を取り上げると椅子を回転させて健吾の方を向き、脚を組みながら火を点けた。いつものピースだ。

 一口大きく吸ってゆっくりと吐き出したとき健吾と目が合った。平城は「お」とつぶやき、あわてて煙草を灰皿に押しつける。

「すまん。癖だな」

「かまいませんよって、前から言ってますけど」

「そういうわけにはいかない。君は前途多難な、いや前途有望な若者だ。二十一だったな」

「ええ、前途多難な二十一才です。ほんとにかまいませんよ。僕もそのうちに煙草、吸おうかなって思ってますから」

 健吾は、平城の煙草の煙と匂いをほとんど気にしない。父親が喫煙者だということが大きいのだが、それに加えて平城の吸うピースの甘い香りが嫌いではなかったからだ。

「このままでは前途多難な二十一の大学生に、私が煙草を教えてしまうことになる。君の父親に申し訳が立たない」

 健吾が二十歳になる前から親父といっしょに目の前で煙草を吸っておきながら今更なにを、と健吾は思うが、平城のこのセリフはいつものことだ。どうせまたしばらくしたら煙草に火を点けるに違いない。

 健吾の父親と平城は同い年で、高校時代からのつき合いだと健吾は聞いていた。つまり二十五年来の友人というわけだ。

 幼い頃に粘土やプラモデルが好きだった健吾は、父親の勧めと平城の要望もあって、造形を生業とする平城のところへ二年ほど前から時折、アルバイトに来ているのだ。

「というわけで、君のために新兵器を導入してみた。これだ」

 そう言いながら平城は、粘土作業用の机に転がっていた小さな機械を取り上げ、自慢そうに健吾に見せた。ひと回り小振りな眼鏡ケースのように見える。

「最近流行の、アイコスという電子煙草だ」

「だから、普通にピース吸ってもらってかまいませんからって」

 平城はアイコスケースからホルダーを取り出しながら、にやりとする。

「君のためだけではない。私のためでもある。世間のためでもある。火を使わず灰も出ないということは、原型や塗装のためでもある」

「それならご勝手にどうぞ」

 アイコスホルダーに煙草カートリッジを差し込み、しばらく加熱してから平城はアイコスをくわえた。気持ちよさそうに白い気体を吐き出す。驚いたことに煙草特有の匂いがほとんどしない。白い気体も、煙ではなくどうやら水蒸気のようだ。

「うん、いける。それなりに、いける。世の中はデジタルの時代だ。スカルピーからZBrushズィーブラシへ。シガレットからアイコスへ。これはもうSFだ。ようやく子供の頃に夢見た未来がやってきたのだ」

 電子煙草がデジタルやSFといえるのかどうかは健吾にはわからなかったが、面白いものがあるんだなと感心しながら、平城の口元にくゆる水蒸気を眺めた。

「ところで、もちろん作業しながらでいいのだが、少し話し相手になってもらいたい。話し相手というか、私の話を聞きながら適当に相槌を打ってくれるだけでいい」

 缶コーヒーをすすりながら、なるほど、今日はそういう仕事かと健吾は納得した。

 平城が健吾を呼ぶときは、もちろん本当に締め切りまでの時間がなく人手が必要なときもあるのだが、造形のアイディアをまとめるための話し相手が必要なときが多いのだ。

 僕以外に話し相手はいないのかなとも思うが、さすがにそこまでは聞けない。

 平城の話では、頭の中で考えているだけではだめで、誰かに話をすると不思議なほどアイディアがまとまるのだそうだ。

「平城さん、磨き作業、あまり急いでないんじゃないですか。話し相手のついでの作業なら、僕、バイト代半分でいいですよ」

「なにを言うか。どっちみちいつか、誰かが磨かなければいけないのだ。そして、私は磨きが苦手であまり好きではない。いや、はっきりと言おう。私は磨きが嫌いだ。

 おまけに急いでないというのも間違いだ。その箱の中の全三十五パーツ、あと五日のうちに磨き倒さなければ間に合わないところまで来ている」

「それならいいですけど、話し相手だけなら、ほんとに半分でいいですからね」

「若者、君は若いくせに気を使いすぎだ。前途多難だ」

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