第47話 『いつかの光』

 それはほんの数分前の話だ。鬼怒屋にて、

「おい佐伯ィ」

 貝原は、後ろ姿に呼びかけた。

 鋭い眼光が刺すように向けられる。傭兵とはいえ現役兵の殺意のこもった視線を受け、貝原は肩をすくめた。

「久々だな。おまえが本気で怒っているのは」

「当然だ」

 もちろん、その声には怒りが込められている。こうなっては、自分の手に負えないことはよくわかっている。勝手なことをして放っておいたのだ。いろいろと覚悟する以外、するべきことは自分にはもう何もない。と、貝原は理解した。

「隊長の怖い怖いお説教の後は、かわいそうな部下たちに泣きつかれて、俺の所持金が飲み代へと消えるんだ。お手柔らかに頼むぜ」

 素直にすっかり降参した貝原に少しは毒気を抜かれたか、佐伯はひとつ息を吐く。気合を入れ直して叫ぶか殴るか。お好きにどうぞ、と貝原は正面に立っていたが。

「おい……おい……」

 一人きりの隊長は、貝原を前に泣きそうな顔を隠すようにして、カウンターに伏せた。それきり、動かない。「おい……」貝原はつるつるしたこめかみをかく。

「佐伯~~~ィ?」

 重傷のようだ。

 やれやれ。

「まさか、おまえにまで泣きつかれる日が来るとはな」と苦々しく言いつつ、強めの酒を入れてやる。

 お猪口に酒が注がれる音が響く。貝原が、底に描かれた蛇の目と、にらめってこしていると。

「……止められなかった」

 ぽつりと。

「あの年頃が、一番、危うい時期だと、わかっていたのに」

 ぽつりと。

 気まぐれな煙の輪のように、吐きだされては、形も定まらぬ間に、消えていく。

「経験談だな。はは」

 貝原が白い歯をにかっと出すが、佐伯はそっぽを向いたまま動かない。

「でもなあ俺は、あの坊主がそんなに悪い判断をしているようには、思えなかったぜ」

 頑なに顔を背け続ける佐伯の手元に酒を出す。

「佐伯の言うとおり、俺たちは昔、若気の過ちで三人の仲間の命を失った。それから長い年月をかけて、入念に準備をしてきた。今度こそ完璧にやり遂げられるようにな」

 佐伯がこれまでに積み重ねてきたものの大きさは、貝原もよくわかっている。

「そんな俺たちから見れば、あんなのは、体当たりもいいとこだ。笑えるな」

 そうさせるだけの、佐伯の深い悔恨も。

「けどな、体当たりでも、必要な時にやるのとやらないとでは、その価値は段違いだろ」

 ああ、今日はなぜだか、背中が小さく見えるな……隊長さん。

「別に俺は、“参加することに意義がある”みたいな、運動会みたいなスローガンのことを言っているわけじゃねーぞ。最初から負けに行く戦なら、意味がねえ。やらねえほうがマシだ。でもな、お前を見てると、思うんだよ。かつての戦いを、空いた観客席の前で亡霊たちのために、ひたすら準備だけ、し続けているようにな」

 貝原はそう言うと、静かに窺うように口を閉じた。佐伯は、僅かに身じろぎして言う。

「おまえ……まるで自分にはもう、必要のないもののような言い方だな。戦うことが」

「馬鹿。違う。そうじゃない」

 むくりと、上体を起こした佐伯の目にはもう一度、炎が灯っている。貝原は言った。

「忘れたわけじゃない。でも、復讐のためだけに費やしてなんになる?」

「だからあいつらに手を貸すってか? ここでほだされて、下手打って捕まれば、今までやってきたことが全部、水の泡になるんだぞ。わかるだろ。一琉たち連中にしたって、あれで勝つ見込みなんてあるか? ないだろ」

「ああそうだな。ないな。昔の俺たちそっくりだからな」

「だーったら、辞めさせるのが賢明に決まってる。失敗するのが目に見えているのに、何も繰り返すこたねーだろ。一琉がここまで幼いとは、ってびっくりしてんだ。もっと冷静なやつだと思っていたんだが」

「でも少なくとも、あいつらは今の俺たちとは違う」

「はっ」

「今の俺らには無くなっちまったものを持っているのも、あいつらだろ」

 だから時江も資料を渡した。

「……」

 無くなってしまったもの。

「あいつらが戦うと決めたのは、今の俺たちみたいな理由じゃない」

 佐伯が黙り、貝原ももう何も言わない。

 沈黙に自分を映して、自分を眺める。

 本当はわかっている。

 抱えてきた重みに圧迫されながら、さらに憎しみを増やして、もっと身動きが取れなくなって。

 ここで動かなかったら、結局、このまま背負い続けるだけになると。

 ――岡田さん。都築さん。山本さん。

 あの頃の佐伯たちには、彼らはとても大人に見えた。だけど年齢だってとっくに超えてしまった。

 決行の前日、岡田智和は自室でピアノなんて弾いていた。その時彼は、何気なく言ったんだ。「自分で自分を殺すなよ」と。あれは本当は、佐伯自身が言われた言葉だった。そしてその言葉は、歳を重ねるごとに重くなり、焦燥ばかりが充満する。先に旅立った彼らの方が、今でもよっぽど生きていて、死地に赴くような気持ちで生きているのは、自分の方。

 佐伯は、震える手を握りしめた。強く、握っても、握れば握るほど、震えは収まらない。

 岡田さんたちの死を無駄にしないために、次こそ、次こそ必ず実現するために、俺は――。

 そこに、貝原の手が重ねられた。強い力で。

「俺たちに……光を、照らし当ててきたのは、おまえだ佐伯。俺たちは感謝こそすれ、おまえだけに影を背負わしてきたことに、気付かなくて……悪かった」

 すいっと、貝原はドアの向こうに視線を送ってやる。窺うように、こわごわと覗いていた時江も、それでぱっと駆け寄って、手を重ねた。

「私も……っ、ごめんなさい! 私、自分のやりたいことばっかり、楽しいとこ取りしてて……隊長は重い荷物も持っていたん……ですね」

 佐伯は、何か気の利いたことを言おうと、二、三、口を開いてまた閉じると、

「いいんだ……そんなことは、いいんだ」

 結局、言葉にならないことに戸惑って、自分にため息を吐いた。ああ、そうだ。俺は、背負ったものに潰されて――大切な物を見失っていた。

「俺の方こそ――」

 ありがとう。

「計画は一旦白紙に戻す。――行くぞ」

 いつかの光を。

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