第40話 『闇市へおつかい -護衛任務-』下
「は……はあっ……やった……」
助かった。合わせてくれて、助かった。緊張が弛緩し、全身の力が抜けていく。膝に手を置いて、片手で額の汗を拭った。「……やった……」
光線が消え、訪れた暗闇。目が慣れてくる。死獣の足元、無残な死体がそこにあった。
「いっ、いやあああああああ」
そこに駆け寄る一人の女。「なりちゃん……! ああ、こんな……ひどい……うそよっ」
そこに広がっているのは、血の海と肉塊だ。
一琉は何も言えず、ただ見ていることしかできない。
誰だが知らないが、おまえのおかげで、俺は……。そして、この場の全員が、一つになることができた。
女は泣き叫びながら、振り返る。
「ああっ、あ、あ、あんたたち! ……っく、……っく、あっ、あっ、あんたたちがっ――! あんたたちがモタモタしてるからッ、あたしのッ、彼が死んだじゃない! !」
誰も、何も言えない。あの時、あの一瞬を、今は死者となったこの男が作らなかったら、一琉はやられていた。生理的な拒絶感をもたらすはずのむごたらしいその肉と血は、しかし、この世のものとは思えぬほどとても神聖なものに見えた。一琉は、人生で初めて、自然と手を合わせていた。
だが、
「う……うるせぇ! こ、こ、こ……こっちだってな、ひっ、必死なんだよ! !」
耐えきれなくなったように、周囲の兵から声が上がる。
「怪我したら、おおおおまえらみたいに、ここに堕ちちまうだろうが! !」
「そうだ、こんな場所で、そうなってたまるかよ――っ」
狂気の現実の中では、狂っていく自分を正しいと認めるしか、生き残る方法がない。
「この人でなし! !」
恋人を失った女が涙を流しながら、至極真っ当な批判をしたところで、
「お、おまえらはそれ以下だろ! さっさと死ねよ!」
逃げるようにして、去っていく。
そうでないと、壊れてしまうから。
それは、慟哭する女も、同じだった。
商人が近寄ってきて、彼女にそっと何かを握らせる。女はその場に座り込み、渡された何かを吸い始めた。
「はあ……ああ…………」
みるみるうちに、その女は落ち着きを取り戻していく。
「ありがとう……気持ちが、楽に……なった……ああ、もっと、もっとちょうだい……」
薬か。
商人は喜んで倍量渡すと、「また、ここでね」と悪魔のような囁きを残して消えた。いいカモが見つかったというような死神の笑顔だった。
見る影もない無残な姿に変わり果てた恋人の亡骸の傍で、彼女は一人幸福そうにぼーっと空を見上げていた。
一琉のように、目を背けずに立ち止まっていた何人かの街人も、彼女のその様子に哀れむような、蔑むような視線を残して、解散していく。
救いようがない。
なんだ、これは。
「そんなんで……いいのか」
風の音に重ねるようにかすかにつぶやいた言葉に、彼女は敏感に反応した。急に正気を取り戻して、
「なによ……なにがわかるの……。あたしに……心壊して死ねっていうの……っ! ? 何がわかるのよ! ! 他に、他に、どうしろっていうのよ……っ」
立ち上がって、また、あふれる涙をそのままに、叫ぶ。
「なりちゃんはね……! 元は軍人だったのよ……! でも怪我で、除隊になって……ここに回されて……!」
一琉は、死体――いや、なりちゃんと呼ばれたその男を見た。
そうか、軍人だったのか。
「ここで国から、死骸処理部隊よりももっと誰もやりたがらないような汚くて嫌な仕事を押しつけられて……。出会ったときはあたし、正直最初は、この人みっともない、ダサいなって思ってたわ。貧乏だし、長時間労働で時間もないし、いつも疲れてて、デートしたって、休み休みで。でもね! なりちゃんはあたしと違って、それでも、誰かがやらなくちゃいけない大事な仕事だからって誇りを持って、やってたのよ! あたし、見習わなくちゃって、思って……薬も辞めたし……盗みとか、詐欺とか、そういう仕事も、辞めたのよ……」
元はどんな階級かとか、今はどんな役をしているかとか関係なく、この「なり」という男は、立派な人間だったのだろう。女は、彼を思い出して悲しくなったのか、こらえきれなくなったように、袋に口を付けた。
「――っは。はあ……。はああ……。ああ……ちょっと、あたしも横になろ……」
アスファルトの上に散らばる無残な血肉の横に、彼女はリビングのソファに寝転ぶように横たわる。
誰もがそんな風に、正しく立派に、強いわけじゃない。
「もう……、なりちゃん、ねえ、まだ、寝ないで~。おきて、おきてよ~。なりちゃんってば、すぐ、寝ちゃうんだもんーいつも……」
それならば、
「そっか、でも、そうだね……疲れてるんだね。いいよ……おやすみ。ねえ……もしかして……さあ。そんなに、頑張って働くのって、さあ……、うふ。あたしの、ためかなあ? あたし、結婚したいって、言ったことあったよね。まだ、自信ないなんて、言われて、あたし、冗談にしたけど、でも、なりちゃんってば、なんだか、前より仕事頑張ってるなって、思ったから。もし……か……して、って…………」
これを悲劇と言わずに、なんと言おう。
この女の目には、この肉塊が、愛しい彼の寝顔に見えているらしい。いや、そう思おうとしているのか。彼女は袋に明らかに致死量とわかる量の薬を足して一気に吸い込むと、そのまま添い寝するように、目を閉じた。
上には上があると言うが、下には下があって、地獄の中に、地獄があった。
「終わったかな、一琉くん」
「あ……時江さん」
いつの間にか買い物を終えて外に出ていた時江に、事務的ともいえる口調でそう確認された。
「こんなの……って、おかしく、ないですか」
酩酊する女が、まひるの話に出てきた精神崩壊者の姿と被った。肉塊となり横たわる死体は、手術台の上の開かれた実験体。
そして、今にも起こりうる可能性としての、まひるの変わり果てた姿として。
「……俺は、こんな、こんな世界を……認めるのが、嫌だ」
時江の目を見る。
「私も、そう思うよ」
さらっと。彼女が簡単にそう頷ける理由が、一琉にはもうわかる。
彼女のその瞳には、いつかの佐伯と同じ熱量の火を灯している。
怒りの表現など、必要としていないのだ。どんな冷たい言い方も、その熱を冷ますには、到底足りるわけがないのだから。
「俺は……俺は……」
そんな一琉の背に、
「キィ~ヒヒヒ」
あの耳障りな笑い声が聞こえたと思ったら、曲がった腰に手を当てつつ、浮浪者然としたさっきのオヤジがドアを押して出てきた。ハードおじさんとかいう奴だ。
「おーぅい、金はもらったけど、アレ、アレがまだじゃ! ワシの、生きがい! !」
にかーっと、笑いを浮かべる。
「あ……あー……ま、忘れてたわけじゃないよ」
時江は、げーっと顔をしかめて言う。
「たのむじぇ~、ソフトな姉ちゃんっ」
「はぁ~ちょっとっ、そんな言い方しないで~! あたしはハードおじさんみたいにそんな風に名乗ってないんだから!」
一琉は身構えた。時江はこの爺に身体でも売るのだろうか。だが、――時江の貞操の危機とも思えるこの状況を、貝原は呆れたように見ているだけだ。
「はいこれ」
時江は興奮気味のハードおじさんにCDのようなものを握らせた。
「マニュアルもデータで入ってる」
「やったーっ!」
「んもう、嫁入り前の女子に、こんなの作らせて。――でも私は、ツールを作っただけ。その用途は聞きませんからね! !」
べーっと舌を出す時江。ハードおじさんは気を悪くした風もなく、CDに音を立ててキスをしていた。
「でも本当、よく廃材かき集めてあんな性能のいいもの組み立ててくれますね」
「フハッ。ワシのゴミ漁りは家電専門だからな。アルミ缶ハンターの縄張りは荒らさない代わりに、今のところ、ブルーオーシャンなんじゃよイッヒッヒ」
「そうは言っても、ちょっと知識があって目を付けただけの浮浪者にはここまでできないと思いますけど。修理の限界に挑戦とか言ってはんだ付けまでしてくれるし」
「あんたこそ、OSを自作しようとする人間なんて、そうはいないね」
「それは大げさですよ~自作って言っても、電子空間にある既存のプログラムを取り入れて組み合わせたりしていて完全オリジナルじゃないし……。だって、基本がないとなにやるにしたってできないし……買えたらいいのに売ってくれないし! ! こーのー、ばか国はーっ! !」
テレビすらまともに見たことの無い一琉にはその会話の意味が分からず、貝原を見た。貝原も表情を変えず聞いている。まったく理解していないようだった。まあでも、国の悪口を大声で言えるのはここだけだ。
「よし。あのソフトをテストするには――ここってちょうどいい環境かも。一琉くん、こっちおいで」
「俺……ですか?」
時江に連れられて、一琉はプレハブ小屋の中へと招かれた。
「これは……」
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