第4話 『逢魔が時』上

 眠りは浅かった。一琉はわけもなく目が覚めた。定刻にうるさく鳴らされるラッパよりもずっと早い。ぬめっとした脂汗。歯もなんかガリガリする。体中がだるい。昨日の服のままだ。あのまま寝たんだ。たしか。

 何かの夢を見ていた気がした。しかし思い出せない。頭が痛いな……だるい。ああ、のどが渇いた。その欲求だけで無理やり体を起こす。片付いてはいるが、必要な物しか置いていないだけの部屋。窓もない。換気扇さえあれば必要ないからだ。

 何かを求めて、ドアへ向かった。今はまだ昼間か? 一瞬よぎる。どうでもよくなった。ガチャリと開ける。目がしみる。漏れてくるのはオレンジ色の光。もっと開けると、ガランとした部屋が焼けるように朱色に染められた。ああ……夕方か。感傷めいたものが一緒に流れ込んできて、一瞬うっとなるが、今ひきこもるのも怖かった。邪魔なものを散らすように、ドアを全開にすると外へ出た。ラジオ放送で、日光指数を確認してから出ないと――。生暖かい風にやんわりと押し戻される。もういいやくだらない。出よう。

 人はいなかった。基地内でこんな時間に起きているやつや、ましてや外に出るやつなんてそうはいない。延々と連なる似たり寄ったりの住居と住居の間を歩いていると、だんだん、何をやっているんだ自分は? と自問自答しそうになる。夜勤基地に建てられているのは、画一的で無味乾燥なアパートばっかりだ。高層ビルだとかカラフルな屋根やソーラーパネル付きの屋根だとかでがちゃがちゃした昼の世界とは違う。基地内で見かけたらそれは国から特別に認可を受けた店か、国直営の何かだ。というのも、夜勤基地は国のものなので、勝手に建て替えたり増築したりすることは禁止されていて不動産屋も存在しない。夜勤は世帯ごとに割り当てられた団地に(大所帯というのは少ないが)住むことになる。限りある安全な基地を夜勤のみんなで分け合いましょう、というわけだ。

(こんな――、掃き溜めのような場所――。どうして、俺は夜に生まれた――)

 頭痛を覚えたようなふりをして、一琉は耳をふさいだ。もちろん、自分の思考の中から生み出される声は消えるわけもなく。

(なにやってんだ俺……帰ろう。気分を変えるべき――そうだ、佐伯さんに声かけて……)

 ようやく賢く我に返り、引き返そうとしたその時、ふと、違和感を覚えた。

 足を止めた。

 道の少し先に人影。――女の子が立っていた。

 幻か? ファンタジー世界かここは?

 別に女の子が立っているだけだ。それなのにそうツッコミを入れたくなるような不思議な光景だった。

 彼女の着ている薄手のワンピースとソックスが無限に白かった。透き通るように淡い色をしたセミロングの髪は、一琉の頭の中にしかない春の日差しのイメージ。そして顔の輪郭や、腕や足、腰も、どれもすべてが細くそしてやわらかそうだった。昼生まれなら、「細めの体型」で通るかもしれないが、ここではありえない。見た目が華奢で小柄な部類に入る棟方でも、彼女の横に立てば屈強な兵士に見えるだろう。棟方はそもそもとても強いが。

 ここに来るまで彼女にどうして気付かなかったのだろうと思うほど、彼女は強烈な違和感を放ってそこに佇んでいた。天使か霊的なモノのようにも見える。でも、その唇は桜より赤く、さくらんぼのような潤いがあった。小さいようでくりりとした瞳にはツヤがあった。ただ、足には一切の装飾のない白のスリッパ(おそらく室内用? なぜ?)を履いていて、ぶかぶかだった。量産されていそうなチープなデザインだった。その子はじっとこちらを見ていた。おそらく、一琉が気付く前から。遠くから。不安げにその目が、いや体が揺れている。ゴミで満杯の焼却炉に過って運ばれてしまった新品のハンカチーフを彷彿とさせた。きっと、通りかかった夜勤共は自分の境遇を忘れて思わず同情してしまいそうになるのだろう、そんな綺麗であやうい感じだ。彼女はおそらくは、ここの住人じゃないのだろうな。ここにいる理由も読み取れないけど。

 本能的にもうちょっと近づきたいと思うと同時に、この子からもうちょっと離れたいという嫌悪感を覚えた。

 これが、昼生まれの人間か。

 美しさは厭味となって口の中を苦くさせた。一歩、引き下がる。嫌悪が勝った。

 こいつは敵だ。

 劣等感、コンプレックス……なんとでもいえ。

 正体を言い当てられたところで、今、ここに存在する俺の感情を消すことなどはできないのだから。

 すると、彼女が一歩踏み出してくる。一琉はまた下がる。今度は背を向けた。その途端、

「あの……」

 声をかけられた。声まで綺麗かよ。色にすれば銀色のような。たった二つの音が、きらきらして聞こえて、心臓が嫌に跳ねた。まだひどく脈打っている。

「あの、すみません」

「……なんでしょう」

「ここはどこでしょう……?」

「えーと、はい……?」

 ぼうっとしたまま、彼女はもう一度訊ねる。

「ここは……どこ……」

 な、なんなんだ? 予期せぬ展開に、一琉は面食らってしまった。彼女は寝起きのように、視線を彷徨わせている。もしかして「君さ……迷子?」

「迷子……でしょうか」

 いや聞かれても。

「どっから来た? ここは基地だ。昼生まれなんだろ?」

「昼……? 基地って、ここ……?」

 はあ。こいつはちょっと話が通じなさすぎるぞ? ああ、頭が少々あれな方か。

「ちょっと、本部行こうか」

 手に負えん。本部という言葉に首を傾げるから「軍の本部だ。身元を調べて元の場所に返してくれるさ」そう言った時だった。

「だめ……だめ! だめ!!!」

 少女が急に叫び出した。強い拒絶に一琉は驚いて目を丸くする。

(な……なんだよ)

 それきり少女は黙り込んでしまう。このまま放置して通り過ぎようかとも思ったが、彼女の目から一筋の涙がこぼれ落ちていくのを見てしまった。

(困ったな……)

 そのうち大人が駆け付けてくるかもしれないし、その時にこんな光景を見られたら自分が泣かせたと思われる可能性がある。それは迷惑だなと思いながらも、やはり置いていくのは憚られた。

 頭の中で、自分よりずっと大人の親戚が浮かぶ。

「じゃあ……佐伯さんのところに、連れていこうか。大人だし」

 少女は大人しく頷いた。一琉はほっと胸を撫で下ろす。

「名前は」

 連れて歩きながらそう聞く。名を尋ねるときはまず自分の方からうんぬんというアホなやりとりはなく、彼女は答えた。

野々ののはらまひる、です」

 まひる、ねえ。

 夜勤にとってはかなり気に障る名前のような気がしたが、おそらく何も知らずに育った幸せな昼生まれのサラブレッドなのだろう。

「あの、お兄さんは……」

「滝本一琉」

 彼女――野々原まひるは、たきもといちる、と練習する様に数回唱えると、頭を下げてきた。

「あの、ありがとうございます」

「はあ……、いいえ」

 一瞬止めた足をあわてて早めるまひるの様子は、なんかうさぎみたいだと感じた。謎めいてはいるが、幽霊よりはうさぎのほうがまだ理解できる。名前のせいか、真昼の草原をひょこひょこ駆け回る小さな野うさぎのように見えてくる。明るく、穏やかな春の日差しの草原を。

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