第五話「薮ヲ突イテ蛇ヲ出スノ事」/其の十(完)

「いたた……」


 倒れこんだ衝撃でくらくらしながらも私は体を起こしました。体にまとわりついていた蛇はもういません。

 助かったんだ。

 私はほっと胸を撫で下ろしました。


「おい、あおい」


 体の下から声がしました。はて、と見下ろすと、先生が不機嫌そうな顔で私の下敷きになっています。


「重いぞ、さっさとどけー」


「お、重くありませんよ! 失礼な!」


 慌てて先生の上から退きます。先生はよっこらせ、と声を出しながら体を起こしました。

 私はえへへ、と先生に笑いかけました。

 何はともあれ、これで一件落着というやつじゃないですか。


 しかし先生は難しい顔をして私の後ろを指さすのです。


「まだ終わりじゃないぞ」


 振り返ってみるとそこには黒い蛇たちが、まるでお椀を伏せたような形になって群れていました。蛇たちの目が一斉に私を見て、私は思わずヒッと声を上げて目を逸らします。


 そんな私の頭に先生の大きな手が、ぽんと乗せられました。


「目を背けるな」


 先生は私の両手に何かを握り込ませました。私はそっと手を開きました。鮮やかな布が張られた立方体のこれは……、蛇蠱の箱です。


「これはお前が何とかしなけりゃならない問題だ。……お前が、その蛇を箱に戻すんだ」


 先生に促されて、私はおそるおそる蛇たちを見ました。蛇たちの中から銀色の小蛇がするすると滑り出てきて、私に向き合いました。


 小蛇はまっすぐに私を見つめていました。私はまた目を逸らしてしまいそうになりましたが、ぐっとこらえて蛇の眼をじっと見返しました。


 最初は睨みつけるような気分で蛇を見ていましたが、蛇がこちらを睨んでいるわけではないことはすぐに分かりました。


 そうして蛇の視線をまっすぐに受け止めて、私は気づきました。ただ怯えていた頃の私では、諦めていた頃の私では分からなかったその視線の本当の意味をようやく理解しました。


 この子たちは私と向き合おうとしてくれていた。自分と私とは違うものだと分かった上で、私のことを理解しようと必死で考えてくれていたんだ。

 私の感情に呼応して現れて、私の危機に助けに来てくれて、私が何を望んでいるか分からない場面では現れなかった。

 全部全部それは、私を理解しようとしての行動だったんだ。

 私は唇を噛みました。

 なのに私はどうだ。

 怯えてばかりで、最初から分かり合えないと決めつけて、退治することばかり考えて、この子たちのことを分かろうともしなかった。


 私は自分を恥ずかしく思いました。私は感情のままに、蛇蠱さんへと頭を下げました。


「蛇蠱さん、ごめんなさい」


 謝ってすぐに許されるようなことではないことは分かっています。だけどどうしても謝っておかなければならないと思ったのです。


「あなたたちはずっと私のことを考えてくれていた。私のことを理解しようとしてくれていた。……なのに私はあなたたちに何の気持ちも返そうとはしなかった」


 怖かったんです。私には到底理解できそうにないあなたたちのことが。だけどそこで諦めてしまうのは間違いだったんです。


「私のあり方と、あなたたちのあり方は大きく違うから、私とあなたたちが分かり合うのはすごく難しいと思う」


 そう、難しい。でも不可能じゃない。


「でも、いつかきっとあなたたちと本当の意味で向き合ってみせるから」


 今の私にできるのはこれくらい。

 私はもう一度、深く頭を下げました。



「だから、今はどうか箱に戻ってください。お願いします!」



 頭を下げたままどれだけの時間が経ったでしょうか。

 地面しか見えない私の視界の中に、するすると銀色の小蛇さんが入ってきました。


「蛇蠱さん……」


 私は蛇さんたちを迎えるようにひざをつきました。手の中には開かれた箱があります。

 小蛇さんは私を見上げて一度だけしゅるしゅると舌を出し入れすると、私の差し出した箱の中へと入っていきました。

 そこからはもう濁流のようでした。お椀状に固まっていた蛇たちが一斉に箱めがけて流れ込んできたのです。私はひっくりかえりそうになりながら、それを全て受け止めました。

 最後にカポンと間抜けな音がして、箱は閉じられました。

 それまでの騒ぎが嘘のように、静寂だけが私たちの周りを包みます。


「……ありがとう、蛇蠱さん」


 私は立ち上がりました。

 先生は「よくやった」と言って、頭を撫でてくれました。犬村さんはその後ろでほっと胸を撫で下ろしています。月野さんと三雄さんは蛇に呑まれたのがよほどショックだったのでしょう。放心状態で座り込んでいました。ただ一人、一助さんだけは興味なさそうにあさっての方向を向いています。

 ……本っ当に薄情な人ですね、一助さん。

 私は思わず苦笑いをしました。


 そうして何もかもが終わったと思ったその時、一人の女性が突然立ち上がって叫びました。……藤上さんです。


「まだよ! まだ諦めてなるもんですか!」


 きっちりと整えてあった髪を振り乱しながら、半狂乱で藤上さんはわめきます。

 私たちの対応は冷たいものでした。

 だってそうでしょう。エレキロイドは全て壊れ、月野さんと三雄さんはもう茫然自失状態になっているのですから。

 それでも藤上さんは諦めませんでした。


「狐たち! こいつらを殺しなさい! アンタにはそれくらいのことはできるはずでしょお!」


 そんな藤上さんを見て、先生は大きくため息を吐きました。


「おい」


「な、何よ!」


「悪戯もほどほどにしておけよ、オサキギツネ」


「……え?」


 先生がその名前を呼んだ途端、藤上さんの体の中から煙のような何かがぶわっと吹き出て私たちの頭上に浮かびました。


「ほどほどにしろ? ほどほどにしろじゃと!?」


 頭上にとどまった煙は、見る見るうちに獣の輪郭を取り、すさまじい形相で私たちを見下ろしました。


「ハン! 顔役ぶるなよ、吉備の温羅。このお上りさんの田舎者め!」


 言われた側の先生は特に気にした様子もなく、半目になって狐――先生がオサキギツネと呼んだそれを見上げています。

 藤上さんはよろめきながらオサキギツネへと歩み寄りました。


「き、狐、アンタそんなことまでできたの? でもちょうどよかったわ! さあ私の狐、こいつらを殺しなさい!」


 オサキギツネはそんな藤上さんを冷たく突っぱねました。


「つけあがるなよ人間! 貴様が儂を使役していたのではない。儂が寛大にも協力してやっていただけじゃ!」


 そうして前足を一振りすると、藤上さんは吹き飛ばされてしまいました。藤上さんの服は風でずたずたに引き裂かれています。先生はそんな藤上さんをかばうように立ちました。


「やめてやれよ、そこまでする必要はないだろ。人間いたぶって何が楽しいんだよ」


「五月蠅いわ! 元々東京はこの儂の縄張りじゃ! 後からやってきた分際でよくもぬけぬけと!」


 先生とオサキギツネは睨み合いました。とはいっても全身の毛を逆立てて睨んでいるのはオサキギツネの方で、先生はだらんと両手を下ろしながら視線だけでオサキギツネを見ていました。

 やがて先生はオサキギツネを見つめながら口を開きました。


「どうしてそこまで人間を嫌うんだ」


「そんなもの決まっておろう! 儂がアヤカシだからじゃ!」


 高らかにそう言うオサキギツネに、先生は少し声を落として問いました。


「……人間とアヤカシのよ、共存の道はねえのか?」


「無いわ! 人間の不安がアヤカシの平穏、アヤカシの不安が人間の平穏よ! 共存などできるものか!」


 オサキギツネは即答しました。


「だから人間の平穏を崩してやろうと思うたのじゃ! 全てはこの東京に住むアヤカシのためぞ! それの何が悪い!」


 先生は答えませんでした。その代わりに、じっとオサキギツネを睨み続けました。


「この屈辱は忘れぬぞ、吉備の温羅。必ずや貴様をその場所から引きずり下ろしてやろうぞ!」


 そう言い残すと、オサキギツネはひゅるひゅると音を立てて空へと溶けていきました。残されたのは私たちと、悪党三人組だけです。

 先生は肩を落として、ハァーと息を吐きました。


「……まあ、一件落着だな」





 こうして私の蛇蠱が引き起こした数奇な事件は幕を閉じたのです。

 オサキギツネが姿を消した後、犬村さんは慌てて、憲兵隊本部へと帰っていきました。犬村さんにはまだ仕事が残っているのでしょう。本当にお疲れさまです。

 一助さんは犬村さんに協力して、月野さんたちを連行するそうです。協力、だなんて概念が彼の中にあっただなんて驚きです。「珍しいですね」だなんて言ったら、ひどく冷めた目で見られました。心外です。本当のことじゃないですか。

 月野さんたちは本当に憔悴しきった顔で大人しく連行されていきました。よほど今回の件が堪えたのでしょうね。


 そんな中、私はといえばすっかり緊張が解けて腰が抜けてしまっていました。

 仕方ないな、乗れ。と言ってくれた先生の言葉に甘えて、私は今、先生の背中に揺られています。



「先生」


「なんだ」


「助けてくれてありがとうございます」


 私が素直にお礼を言うと、先生は、けっと息を吐きました。なんだというのでしょう。


「アヤカシの奴らが捕まってるってんで、アヤカシどもに依頼されて来ただけだよ。お前はそのオマケだ、オマケ」


 嘘ですね。私にはすぐに分かりました。

 だったらどうしてあの呪文の紙を持ってきていたっていうんでしょう。

 後ろから先生の顔を窺うと、耳が真っ赤になっているのに気づきました。私は小さく声を上げて笑ってしまいました。


「ふふ、先生は本当に良い人ですね」


「またそれか。寒気がするからやめろって言ってんだろ」


 私は目を閉じました。先生の背中は温かくてとても落ち着きます。


「だっていつも面倒だ面倒だって言いながら、みんなを助けてるじゃないですか」


 良い人ですよ、先生は。

 囁くようにそう言うと、先生は黙ってしまいました。

 私は先生の肩に頬をつけて、息を吸い込みました。お父さんみたいな匂いがする、だなんて言ったら先生は怒るでしょうか。


「……好きで良い人やってるわけじゃねえよ」


 私は目を開きました。


「アヤカシっていうのはな。人間に語られないと消えちまうものなんだよ」


 前にも聞いた気がします。そうだ、確か雷獣の震太郎さんのときですね。


「俺の仕事は、アヤカシが忘れ去られちまわないように、アヤカシの存在を発信し続けること。……でなけりゃいずれ、俺の生きる場所もなくなっちまうからな」


 先生は寂しそうにそう言いました。その言葉にはどれだけの感情がこめられているのでしょう。きっと、私の思うよりずっとずっと重い感慨がこめられているのだと思います。


 だけど私はふふっと笑いました。




「なんだ、やっぱり良い人じゃないですか」

「うっせえ、ほっとけ」

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