第五話「薮ヲ突イテ蛇ヲ出スノ事」/其の四

 大正二十五年、五月十八日。

 犬村はミルクホールで、ある人物と待ち合わせていた。


「い、犬村さん、本当に後をつけられてはいないんですよね」


「ああ、何度も確認した。ここなら大丈夫だ」


 おどおどとそう尋ねる男の名は、森脇。クーデターの疑いがかかっている男の部屋付近を担当している、掃除夫だった。


「それで、何か分かったことは」


「……少ししか分かりませんでした。本当に少ししか」


「何でもいいんだ。彼らは何を言っていた?」


 森脇はカウンターにもたれかかっている犬村に顔を寄せた。


「これは立ち聞きした話なんですが、あの人たちは、エレキロイドを開発しているようなんです」


「エレキロイド……」


 犬村の脳裏に先日、上本のもたらした情報がよみがえる。盗まれたエレキロイド、猫塚家の出資した研究。まさか全てが繋がっている?


「それでですね、犬村さん。彼らの話を聞く限り、どうやら外部に研究所を持っているらしくて」


「なるほど、場所の手がかりはあるか?」


「いえ、そこまでは……」


「そうか。……情報提供、感謝する。少ないがこれは礼だ」


「あっ、ありがとうございます……!」


 森脇に報酬の封筒を押しつけると、犬村は足早に店を後にした。




 大正二十五年、五月十九日。

 帝国陸軍市ヶ谷駐屯地、資料室。

 犬村は憲兵権限で資料を漁っていた。具体的にはクーデター首謀者の関わった研究記録をだ。

 もちろん他に口実はでっちあげてある。だが、できればこの手は使いたくなかった。憲兵がこの資料室に出入りしたというだけで警戒には十分足る材料だろう。

 紐で綴られた資料を根気よく一枚ずつめくっていき、犬村はその資料にたどり着いた。


「……あった」


 十五年前。題目は「憑きものの性質とその軍事転用の可能性」。


「憑きものだと?」


 ずきん、と右腕の付け根が痛む気がした。

 忌まわしいあの狗神事件。狗神という憑きものが犬村一家をばらばらに壊した事件。そういえばちょうどあれも十五年前の出来事だ。

 資料をめくる。しかしその内容はほとんどが黒で塗りつぶされていた。


「先手を打たれたか……」


 ぱらぱらとめくっていくと、墨で塗りつぶされていない箇所も散見された。そのうちの一つ、とある一覧に犬村は目を留めた。


「猫塚篤史、猫塚俊子、死亡。憑依実験中の事故」


 これだ。

 やはり猫塚家がこの一件には関わっていた。憑依実験とは何のことだ。

 犬村はさらに目を走らせる。


「憑きものを持つ人間は少ない。だが我々はそれを解決する方法を見つけ出した。蛇蠱の調査をさらに進める必要がある」


 その後に残された署名は、「月野敬一郎」。


「……月野?」


 この名前には覚えがある。十五年前、あの事件があった日、犬村家を訪ねてきたあの軍人だ。

 それを証明するように、一覧の中に「犬村辰敏」と自分の名前が書かれているのを発見する。

 つまりこれは――俺の存在を元にして書かれた研究資料だ。

 犬村は広げたままの資料もそのままに、慌てて月野敬一郎についての資料を漁り始めた。

 軍属だったのなら、どこかに名簿が残っているはずだ。

 膨大な量の名簿の中から階級と所属を推測して探し続け、数十分後、ようやく犬村は目的の名前にたどり着いた。


「月野敬一郎。研究予算を打ち切られた直後、行方が分からなくなる。詳細は不明」




 大正二十五年、五月二十一日、朝。

 代々木のミルクホール。


「どうした、森脇。何か新しい情報があったのか?」


「はい、犬村さん。本当に些細な情報なんですが……」


「構わない。何があった」


「それがですね……、つい昨日彼らが言っていたことなんですが」


 森脇は声を潜めて囁いた。


「もう手段を選んでいられない。誰かをさらわなきゃいけないとかって」


 その情報に、犬村は唇を噛んだ。

 ついに嫌疑が掛かっていることがバレてしまったか。さすがに調査に時間をかけすぎた。すぐにでも上に報告をしなければ。


「分かった。他に情報はあるか?」


「ああ、あと一つ、ある人の名前を頻繁に出していて」


「その名前、覚えているか?」


「はい。たしか裏島正雄がどうとかって……」




 同日、昼。

 裏島の事務所。

 犬村は事務所の戸を勢いよく開け放った。


「裏島、邪魔するぞ」


「……なんだよ、憲兵。ノックぐらいしろよ」


「そんなことを言っている場合じゃない」


 つかつかと踵を鳴らして裏島の机の前まで歩み寄る。犬村の真剣な顔に気づいたのか、裏島はすっと表情を険しくした。


「どうした、犬村」


 珍しくまじめな面持ちの裏島に対して、犬村は端的に用件を伝えた。


「軍内部で不穏な動きがある。おそらくはクーデターだ」


「……俺たちにも累が及びそうなのか」


「ああ、お前もすでに目を付けられている。おそらくはお前の周辺のアヤカシ連中もだ」


「そうか」


 裏島は言葉を切り、背もたれに体を預けた。椅子がぎしりと音を立てる。


「そうか……」


 そうやって天井を見上げながら繰り返すと、大きなため息をついた。


「場合によっちゃこの事務所ごと捨てなきゃならないかもしれないな……」


「……俺一人ではお前たちを守りきれない。身を守るのか、それとも敵と見なして戦うのかはお前たちに任せる。できる限り、協力はしよう」


 犬村はまっすぐに裏島を見た。裏島は緩慢な動きで体を起こし、両肘を机に立てて指を組んだ。そして組んだ指の上に額を乗せ、考え込む。


「……どちらにせよあおいを巻き込むわけにもいかないだろう」


「ああ」


 裏島は大きくため息をついたあと、顔を上げた。


「あおいには俺から言っておく。お前はお前の仕事に戻れ」


「分かった」


 犬村が踵を返すと、裏島も椅子を立ち上がった。こいつが人を見送るだなんて珍しい。


「最後に一つだけ。奴らの目的は憑きものとエレキロイドだ。それから蛇蠱、という単語も出ていた。何か心当たりはないか?」


「……いや、ないな。だがこっちでも当たってみる」


「助かる。じゃあ……」


 そのままドアノブに手をかけようとしたその時、犬村の袖を小さく引く者がいた。見下ろすとワンピース姿の美少女――シュテンの姿があった。


「な、なんでしょう」


「…………」


 思わず敬語で尋ねるが、シュテンは無表情のままじっと犬村の顔を見上げるばかりで答えない。


「死ぬな、だってよ」


 代わりに裏島がそう答える。犬村は背筋にぞぞっと寒いものが走るのを感じた。

 それって「お前は俺が食うから」とか下につくんじゃ……。

 おそるおそるシュテンの顔を窺うと、シュテンはにんまりと笑った。思わず小さな悲鳴が出る。

 裏島は小さく声を出して笑った。


「まあ、無茶はしてくれるなよ憲兵。……親御さん、悲しませるもんじゃないぜ」


「……分かっている」


 シュテンが袖から手を離し、するりと青年の姿へと戻る。犬村はドアノブをひねり、ドアを押し開けた。

 するとドアの向こうで、ゴン、と何かがぶつかる鈍い音がした。


「いたっ!」


「あおいちゃん!?」


 のぞき込むと、額を押さえてしゃがみ込んだあおいの姿があった。犬村はぐっと唇を引き締めた。今の話を聞かれてしまっただろうか。

 見ると、あおいは照れくさそうに笑っていた。


「すまない、俺はこれで」


 挨拶も早々に事務所の前を去る。

 申し訳ないが、後のことは裏島に任せよう。例の件にあおいちゃんを関わらせないように言っておくという話だったから、きっとうまく説明するか、誤魔化してくれるだろう。

 階段を降り終わり、犬村はタクシー乗り場へ向かって歩き始めた。

 緊急性が高いと判断したため、駐屯地に行く道すがら、ここに寄ったのだ。急いで軍にも報告を上げなければ。


「辰敏」


 不意に名前を呼ばれて立ち止まる。目の前には五十代の見知らぬ男性が立っていた。

 ――いや、犬村はその男を知っていた。


「久しぶりだな、辰敏。俺のこと、覚えているか?」


「三雄、叔父さん……」


 犬村三雄。狗神事件を起こした張本人。それがどうしてここにいる。

 自分の体が強張るのを感じる。喉が急にからからに渇き、犬村はごくりと唾を飲み込んだ。

 駄目だ。もう俺はあの時のような子供じゃないんだ。この人を恐れる理由がどこにある。

 犬村は険しい目で三雄を睨みつけた。


「何故ここに」


「刑期を終えたんだよ、警察に連れていっても無駄だぞ?」


 内心を見透かされ、動揺する。

 駄目だ、駄目だ。体の底から湧き出てくる震えを必死に押し隠す。そうだ、わざわざこいつに関わらなくたっていいんだ。

 犬村はつとめて冷静を装って、三雄の横をすり抜けようとした。


「そうですか、では俺は忙しいので」


「月野さんの消息を知りたくないか?」


 足を止める。三雄は犬村の横で、にまにまと笑っていた。


「何か知っているのか」


 犬村は地を這うような声で三雄に尋ねた。三雄はそれを意にも介さず、犬村に背を向けて歩き出した。


「着いてこい、辰敏。月野さんに会わせてやる」

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