第五話「薮ヲ突イテ蛇ヲ出スノ事」/其の三
大正二十五年、五月十五日。
犬村辰敏は上官の部屋の前に立っていた。怪盗ムジナの退場劇が世間で話題になった直後、上官直々に呼び出されたのである。
何の用事かは犬村には分からなかった。しかし、任務として与えられるのであれば、それをこなすだけだ。犬村は右手を持ち上げて、上官の部屋の戸を軽くノックした。
「箒木さん、犬村です」
「……入れ」
「失礼します」
部屋に入り、一礼する。手招きされて、上官――箒木の机の前まで歩み寄った。
「犬村。面倒な案件が入った」
「はい」
珍しく単刀直入に切り出された話題に、これは本当に面倒な案件だ、と内心で考える。箒木は指先でとんとんと机を叩いた。
「軍内部のある一派がクーデターを企てている疑いがある」
犬村は表情を一層引き締める。
クーデター。あり得ない話ではない。大正に入って二十五年。初めは軍人が総理大臣になることもあったが、今では軍と政治はほぼ完全に分離され、軍人が政治に関わることが難しくなっている。それに不満を持つ者も多いだろう。
「しかもだ。どうやらそのためにアヤカシの力を借りているらしい」
「アヤカシの力を、ですか」
目の前の常識人そうに見える上司の口からそんな言葉が出るのは、大いに違和感がある。
こんな場で大まじめにアヤカシだなんて言葉が出るのも考えてみれば奇妙な話だ。だが、箒木はそういったことに対して割と柔軟な考え方をする男だった。
箒木は机に肘をついたまま、犬村を指さした。
「アヤカシ案件はお前の得意分野だろう」
「いえ、別にそういうわけでは」
「お前の、得意分野だろう」
「はい……」
わざわざゆっくりと繰り返され、犬村は頷くしかなかった。
本当にアヤカシ専門というわけではないのだ。ただ、成り行きでアヤカシに関わることが多いだけで。
犬村の脳裏に面倒くさそうな顔をしたあの男――裏島の姿が浮かんだ。
「犬村。お前の仕事は奴ら一派の調査だ。アヤカシの情報網も使って構わない。クーデターの証拠を掴んでこい」
営外の自宅に戻った犬村は早速、私服に着替えて心当たりを訪ねることにした。
大々的に捜査ができない以上、身分を隠して、足で情報を稼ぐしかない。華々しい仕事ではないが、これもまた立派な憲兵の仕事だ。
可愛らしい動物の刺繍があちこちに入ったシャツを着込み、柄物の上着を羽織る。下はだぼだぼのズボンだ。ぼろぼろの手袋をして、右腕の義手をしっかりと覆い隠す。
これでどこからどう見ても中流階級の労働者だ。……多分。
そうして部屋を出る直前、犬村は鏡に映った自分の姿をじっと見た。
「そんなにダサいか、この服……?」
自分としてはそれなりに格好いいと思うんだがなあ、と一人ごちる。
どちらにせよ両親が買ってきた服だ。着ない道理もないだろう。
犬村は誰にともなく一つ頷くと、部屋のドアを開け――ちょうどドアに手をかけようとしていた一人の男とはち合わせた。
「なんだ、犬村。今日仕事じゃなかったか?」
「これから仕事だ。どけ、上本」
自宅のドアの前に立っていたのは、同僚の上本だった。
軽く睨みつけてやったが、上本はへらへらと笑うばかりだ。
「まあまあ、俺もお前にちょっと聞きたいことがあって来たんだって。仕事の調査の件でさ」
「……俺が仕事だって知ってたのにか?」
「お前なかなか捕まらないから、置き手紙でもいいかなって」
「機密を置き手紙にするな!」
それなりの声量で怒鳴りつけても上本は悪い悪い、と笑うばかりだ。
裏島相手に情報漏洩をしている俺の言えたことではないが、こいつの情報管理意識はどうなっているんだ。仮にも憲兵だぞ。
じとっと睨みつける犬村の視線に気づいたのか、上本はすっとまじめな表情になった。
「……と、ここじゃまずいよな。中に入っていいか?」
「ああ」
上本を部屋に招き入れ、他に誰も部屋の外にいないことを確認し、戸口に鍵をかける。
「茶はないぞ」
「いいよ、期待してない」
勝手知ったる他人の家、といったふるまいで上本は既に椅子に座っていた。犬村は離して置いてあった椅子をもう一つ引きずってきて、上本の向かいに座った。
「犬村、お前、猫塚家の事件のこと覚えてるか?」
一瞬考えて、犬村は思い至る。
「ああ、あのエレキロイドの」
「そうそう。あのエレキロイドなんだけどな。陸軍の他の部署が持って行っちまったんだよ。こっちの管轄だって言ってな。まあそれだけならよくある話なんだが、どうやらその後、エレキロイドが盗まれたみたいでさ」
「盗まれた? 軍の施設にはあったんだろう?」
「あったさ。それでも盗まれたってことは、犯人は軍人ってことになる。……あんなちび人形でも立派な窃盗だ。罰は受けてもらうさ。軍人の犯罪を取り締まるのが俺たち憲兵の仕事だからなー」
「犯人の目星はついているのか」
上本はうーんと伸びをして天井を仰いだ。
「そーれが全く。動機からも当たってみてるんだけど、全然容疑者が出てこなくてさー」
「それでエレキロイドを見つけた俺のところまで来たってわけか」
「そういうこと。な、置き手紙でも済む話だったろ?」
「ぐう……」
そう言われればそうかもしれないが、釈然としないのも事実だ。なので、犬村は不満であることを顔で表すにとどめた。
「ははは、そう睨むなって」
「情報漏洩には変わらないだろう」
「はいはい、そうだなー。でさ、あのエレキロイド、猫塚の爺さんが残した遺言が入ってただろ? 俺が調べたところによると、どうやらあの遺言にはこう残されていたらしい。「猫塚家が出資した例の研究にこのエレキロイドを役立たせてくれ」ってな。暗号にはなってたらしいが」
「例の研究? エレキロイドの研究か?」
「さあな、そこも分かってないんだ。お前なんか手がかり知らないか? 何でもいいんだが」
「そう言われてもな……」
犬村は腕を組んで考え込む。
猫塚家。エレキロイド。研究。知っていた情報とたった今知った情報を組み上げて考える。
だがその結果は芳しくなかった。
「……いや、何も思い至らないな」
「そうか……、いや、気にしないでくれ。駄目で元々のつもりで来たんだ」
「役に立てなくてすまない」
それでも犬村は上本に頭を下げた。
上本はそんな犬村を見て、「お前はそういう奴だよなあ」と呟いた。
「で、お前は何の任務なんだ? 俺に協力できることがあるなら協力するぜ?」
そう言う上本に犬村は顔をこわばらせた。
……言うべきではないだろう。たとえ同じ憲兵の同僚であっても。
まだ例の一派に事を悟られるわけには行かないのだから。
「すまん、話せない」
上本の目を見て答える。それだけで上本は察してくれたようだった。
「そうか、まあそういう案件もあるわな」
上本はおもむろに立ち上がった。犬村もその後に続いて立ち上がる。
「帰るわ。協力ありがとな」
「ああ」
鍵を開け、上本を見送ろうとしたその時、上本は振り向いて犬村の服を指さした。
「それにしても相変わらずお前の私服はひでえな」
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