第五話「薮ヲ突イテ蛇ヲ出スノ事」/其の二
人気のない通りを、とぼとぼと歩きます。
ええ、そうです。とぼとぼとしたい気分なんです。大通りを歩く気分にはなれません。できればずっと一人でいたいぐらいです。……誰かを傷つけてしまうかもしれませんから。
こうしてとぼとぼしていると、事務所で過ごした日々のことを思い出してしまいます。
「……楽しかったなあ」
先生に出会って、一助さんに出会って、アヤカシの皆さんに、ミケさんや岸子さんたちに遊んでもらって、あちこちを駆けずり回って事件を解決して……。
「あ」
そこで私は不意に思い出してしまいました。
なんてこと。蛇蠱の箱を事務所に置き忘れてきてしまいました!
ど、どうしましょう。あれだけすっぱりきっぱりした別れを演出しておいて、忘れ物を取りに戻るだなんて格好悪すぎます。でも、まさか先生に蛇蠱を押し付けたままという訳にもいきませんし、うーん……。
その時、通りかかった蒸気自動車から、微妙に聞き覚えのある声が飛んできました。
「あれ、もしかしてあおいちゃん?」
運転席に乗っているのは、シャツの前を広めに開けて着崩した、軟派な印象を受ける方です。
はて、この方は?
私は少しだけ考えて、その人の正体に思い至りました。
「猫塚……智矢さん?」
「正解!」
ああ、化け猫事件の時の、猫塚家の次男の方ですね。
猫塚さんは人好きのする笑みを浮かべると、車を降りて私に近づいてきました。
「覚えていてくれたんだね、嬉しいよ」
「あはは……」
肩に手を置いてくる猫塚さんから一歩引きながら、私は笑います。猫塚さんはそんな私を気にもせず、話を続けました。
「こんなところでどうしたんだい? いつも通り、取材の最中かい?」
ぐっ、ちょうど抉られたくないところを抉られてしまいました。
「いえ、違うんです。たった今、記者見習いは辞めてきたので……」
「……そうだったのか、いや、悪いことを聞いたね」
猫塚さんは再び私の肩に手を置きました。私はまた逃げようとしましたが、がっしりと肩を掴まれていて、逃げることができません。
「ところでこれからどこに行くんだい? よかったら乗せてってあげようか」
「え、いいです。わざわざ悪いですし……」
「いいからいいから。ほら、乗って乗って」
「ちょっと……!」
無理矢理車に押し込められそうになって慌てて抵抗します。流石の私でも分かります。これはついていっちゃいけないやつです。
しかしその時、猫塚さんの取り出した布が、私の口に押し付けられました。
「む、ムーーッ!」
叫びますが、くぐもった声が出るばかりです。しかも叫ぼうと息を吸い込んだ時、ツンとした刺激臭を感じました。
薬を嗅がされたんだ。頭の中の冷静な部分がそう告げます。
私はしばらくの間、じたばたともがいていましたが、徐々に瞼を開けていられなくなっていきました。
ああ、どうしてこんな人気のない道なんて通ってしまったんでしょう。
後悔の念を置き去りにして、私の意識は真っ黒に塗りつぶされていきました。
次に目を覚ました時、私は小さな部屋の床に倒れていました。
床に転がされる、とはまさにこういう状況のことをいうのでしょう。まだ朦朧とする頭で、ぼんやりと壁を見つめます。硬い床に接している肩が鈍く痛みました。
「ああ、起きたんだね」
降ってきた声に慌てて起き上がると、目の前には椅子に座ってこちらを覗き込む猫塚さんの姿がありました。その途端に、私は自分の身に何が起こったのかはっきりと思い出しました。
「な、何が目的ですか。身代金なんて出ませんよ!」
私は声を張り上げました。すると猫塚さんは何が可笑しいのか、くっくっと小さく震えるように笑うのです。
「身代金? そんなのどうだっていいんだよ、あおいちゃん。だって俺は依頼されて、君をさらってきただけなんだから」
「依頼……?」
私は猫塚さんを睨みつけます。猫塚さんは笑みを深めて私に顔を近づけました。
「俺の両親はさ、俺が子供の頃に死んでるんだよ。おかしいと思わなかったか? 爺さんはいるのに父さん母さんがいないのはさ」
言われてみれば確かにそうです。猫塚依里子さんも「お義父様」ではなく「お祖父様」って言っていました。
「父さん母さんが事故で死んだらしいってのは聞かされていたんだが、家族の誰もその死因を知らなくてさ。そこで出てきたのがエレキロイドに残されていた爺さんの遺言さ。爺さんの遺言にはこうあった。「両親の死因を知りたいのならここに連絡しろ」ってな」
「…………」
「まんまとそれにつられて、言われた住所に行ってみたら、ここに着いたってわけだ。びっくりしたよ、まさか両親が軍に関わってただなんて。で、ここで依頼されたのが君の誘拐ってわけだよ、あおいちゃん」
そう言うと猫塚さんは猫塚家で初めて会った時のような嫌な視線を私に向けました。私は咄嗟に身構えます。
「な、なんですか、お金は持ってませんよ!」
「だからお金なんてどうでもいいんだって」
「じ、じゃあ何が望みだっていうんですか!」
猫塚さんは立ち上がると、未だ動けないでいる私の前にしゃがみこみました。
「実はね、あおいちゃん。誘拐した後は、君に何をしても構わないって言われてるんだ」
「な、何をしても、って……」
背筋に悪寒がぞぞぞっと走ります。私は座り込んだまま後ずさりました。
「元々俺は君ぐらいの女の子が好みなんだ。一番いいのは女学校に入ったばかりの子なんだけどね。この好みのせいで結婚がなかなかできなくて色々と溜まっているんだ。だからさ、……ちょっとひどいことをさせてもらうよ」
猫塚さんはにやにやと笑いながら私の服に手をかけようとしました。私は慌ててその手を振り払います。
「い、いやっ!」
何をされそうになっているのかは分かりました。
立ち上がり、唯一のドアに向かって走り出します。ドアノブを回しますが、がちゃがちゃと耳障りな音を立てるだけで開きません。
「なんでっ、開いてよっ……!」
「無駄だよ、あおいちゃん」
楽しそうな猫塚さんの声が後ろから迫ってきます。このままではおしまいです。私は最後の抵抗とばかりに、猫塚さんに突進しました。
「ははは」
猫塚さんはそれを易々と受け止めると、私の顔を殴りつけてきました。
その勢いで私は床に倒れこみます。床に肩を打ち付けて、強い痛みが私を襲いました。
「ううっ」
猫塚さんは私を見下ろしています。私は必死に手足を動かして猫塚さんから遠ざかろうとしました。
「やめ、やめてください、やめて」
「そうそう、もっと嫌がってくれ。その方がそそるからさ」
セーラー服のリボンを掴まれてほどかれます。体の上に圧し掛かられて、身動きが取れなくなります。セーラー服の前の金具を取られて、下着が露わになりました。
「だめ、だめです……」
「大丈夫大丈夫。じきによくなるからさ」
目に涙が溜まっていくのを感じます。視界の端にざわざわと「あれ」が見え始めています。
「だめです、だめだから」
縄のようなそれは、ずるずると音を立てて、徐々に這い出てきます。
「ははは、何がだめなんだい?」
猫塚さんはそれに全く気づいていません。私は叫びました。
「こ、殺さないで! 蛇蠱!」
その途端、私の中から無数の蛇があふれ出ました。猫塚さんの姿はあっという間に蛇に覆い尽くされて、まるで蛇で形作られた人型のようになってしまいます。
「やめて、蛇蠱! お願い!」
猫塚さんを覆う蛇に掴み掛って、引きはがそうとします。しかし、蛇たちは全く猫塚さんから剥がれません。それでいて蛇たちは私を一切襲おうとはしないのです。本当にこれは私を守るために動いているのだと思い知らされて、私は呆然とするしかありませんでした。
その状態が続くこと十数分。蛇たちは唐突に消え去り、その下から猫塚さんの体が出てきました。私は猫塚さんに駆け寄ります。
「大丈夫ですか、お、起きてください、猫塚さん」
肩を揺すりますが、猫塚さんからの返事はありません。それどころか猫塚さんの体は氷のように冷たく、おそるおそる口元に手を持っていきましたが、手に当たる息を感じることはできませんでした。
「そんな、そんな……」
死んでいる。
ううん、違う。
私が、私が殺したんだ。
私は自分の体を掻き抱きます。甲高い悲鳴が口からあふれました。
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