第五話「藪ヲ突イテ蛇ヲ出スノ事」

第五話「薮ヲ突イテ蛇ヲ出スノ事」/其の一

 大正二十五年、五月二十一日。

 私こと、籔内あおいは、自宅でぼんやりと鏡の前に座っていました。

 窓の外ではもうすっかり日が昇りきり、庭の木から雀が飛び立つ音が聞こえます。私は鏡をのぞき込んで、大きくため息をつきました。


「やっぱり、気づかれちゃってるよね……」


 鏡の中の私は現実の私と同じように、浮かない顔をしています。

 怪盗ムジナ事件から一週間以上。あれから先生は、あの「蛇」について何も聞かないでいてくれていました。だけどそれが逆に不気味なのです。


 あの時、オーナーさんを殺した谷川さんを締め上げて殺してしまいそうになったあの時、私の中から現れた蛇を、先生たちは確かに見ていたはずです。見ていないはずがないんです。だって腕の太さほどもある巨大な蛇が突然現れて、谷川さんの首を締め上げ始めたんですから。

 誤魔化し続けるのも限界かもしれません。

 それでも諦めきれないでいるのは、きっと未練というやつなんでしょう。


「……行こう」


 私は立ち上がると、いつも通り財布にお金を目一杯詰めて、自宅を後にしました。




 カン、カン、とブーツが階段を蹴っていきます。だけどその足取りはいつもより優れません。心なしか照明もいつもより暗く感じます。

 私はぶんぶんと首を横に振りました。

 いいえ、こんな風じゃだめです。いつも通り元気でいなければ。そうじゃないと、私の隠しているもの全てを気取られてしまいます。

 ……いつかは言わなきゃいけないことなんですけどね。でももうしばらくはこうしていたいじゃないですか。


 私はそのまま事務所の戸を開こうとして、中から聞こえてくる会話に気づきました。


「軍内部で不穏な動きが――」


「お前もすでに目を付けられて――」


 この声は……犬村さんですね。どうしたというのでしょう、いつも以上に真剣な声色です。私はドアに耳を引っ付けました。

 大きなため息の音が聞こえました。


「場合によっちゃこの事務所ごと捨てなきゃならないかもしれないな」


「え……」


 思わず漏れてしまった声を覆い隠すように、私は慌てて両手で口をふさぎます。部屋の中での会話は続いています。どうやらバレなかったようです。


「どちらにせよあおいを巻き込むわけにもいかないだろう」


「ああ」


「あおいには俺から言っておく。お前はお前の仕事に戻れ」


 そう言った先生の言葉に続いて、椅子から立ち上がる音が聞こえました。私は慌ててドアから離れます。しかし、なかなか入り口の戸は開きませんでした。


 そっと近づいてみると、中ではまだ会話が続いているようです。

 私は再びドアに耳を引っ付けようとして――いきなり開いたドアに額をぶつけてしまいました。


「いたっ!」


「あおいちゃん!?」


 見上げるとそこには、犬村さんが驚いた顔をして立っていました。

 完全に盗み聞きをしていたのがバレてしまいました。言い訳をしようと笑いながら口を開きかけたその時、犬村さんは難しい顔をして私を見ました。


「すまない、俺はこれで」


 そう言うと、犬村さんは眉間にしわを寄せたまま、階段を降りていってしまいました。

 いよいよ不穏な雰囲気です。普段の犬村さんなら私にもう少し声をかけてくれるはずですから。

 事務所の中に視線を戻すと、先生がいつも通り面倒くさそうな顔をして立っていました。だけど何でしょう。いつもよりその表情に険しいものが混じっているような……。


「先生……?」


「あおい、ちょっと来い」


「は、はい!」


 先生は私を来客用のソファに座らせました。そして、その向かい側にどかっと腰を下ろすと、考え込むように右手で額を覆って黙り込みました。

 私はといえばいつになく深刻な面もちの先生に気圧されて、大人しく座っていることしかできませんでした。窓の外から蒸気自動車の音が聞こえます。頭上でシーリングファンが回っています。たっぷり数分は経った後、先生は口を開きました。


「……あおい」


「はい」


「お前、明日から来なくていいぞ」


 言われた意味が分かりませんでした。だけど同時についにこの日が来てしまったのだとも思いました。先生は斜め下を見ながら言葉を続けました。


「学費のためにアルバイトをしてるっていうの、あれ、嘘だろ」


「……はい」


「お前、「何」を持ってる」


 私はぎゅっと拳を握りました。もはや言い逃れはできません。私はいつもポケットに入れていた「それ」を取り出しました。

 「それ」は箱でした。材質は木。表面は綿入りの織り布で覆われており、鮮やかな模様になっています。蓋付きで、一方がもう一方を覆う形で立方体をなしていました。

 先生は「それ」を受け取ると、慎重に蓋を取り、中身をのぞき込みました。


「やっぱり、蛇蠱(へびみこ)か。どこでこんな面倒くさいものくっつけてきたんだ」




 蛇蠱(へびみこ)。香川県は小豆島という小さな島に伝わる憑きものの一種。

 蛇蠱を持つ者が誰かを妬み、恨み、憎悪すると、その呪いを受けた相手は体の中から蛇に食い破られて死に至るという。

 ある時、小豆島の海岸に一つの箱が流れ着いた。島の住人たちがそれを取り合って開けたところ、中から大量の蛇があふれ出し、箱を開けた者たちに取り憑いた。これが蛇蠱の始まりらしい。




「……詳しいですね、先生」


「だてに歳食ってないからな」


 先生は蛇蠱の箱をかぽん、と閉じました。私はそれを見ていたくなくて俯きます。


「先生。話、聞いてくれますか」


「……ああ。話してみろ」


 先生は私の方を見ないままです。私は勇気を出して口を開きました。




「これはまだ私が、女学校に通っていた頃の話です。


 あの頃、私には親友と呼べる友達が一人いました。彼女の名前は花ちゃんといいます。花ちゃんはなんというか……少し気の弱い子で、同級生や先輩に、よくいじめられていたんです。平民出の成り上がりだって。だから私が守ってあげなきゃって、そうやって思っていたんです。


 ある日、私が花ちゃんと一緒に帰っていたとき、私たちは蒸気自動車の事故現場にいきあいました。数台が絡む大きな事故で、警察の人によって大通りが封鎖されていたと記憶しています。私たちは仕方なく迂回して行こうとしたんです。でも、その時、私は「あれ」を見つけてしまったんです。


 「あれ」は道ばたに転がっていました。鮮やかな作りだったので、私は最初、お手玉か何かだと思ったんです。拾い上げてみると、それの周りには呪文のようなものが書かれた細い布が巻かれていました。なんとかかんとか……アビラウンケンソワカ、とか書いてあったような気がします。とにかくそれを私は拾ってしまったんです。それが何なのかも知らずに。


 私はまとわりついていた布を捨てて、箱の模様を見ました。すると不思議とその箱を開けてみたくなってしまったんです。私はそのまま箱を開けようとしました。「だめだよ拾ったものなんだから」と花ちゃんはそれを止めてくれました。だけど私は「大丈夫大丈夫」と言って、そのまま箱を開けてしまったんです。すると箱の中からはたくさんの蛇が飛び出してきました。……伝説通りですね。


 蛇は私の体の中にあっという間に入り込んで消えていってしまいました。その時のことを何度も花ちゃんに聞いてみたんですが、花ちゃんには蛇なんて見えていなかったみたいでした。だから私はただの気のせいだったんだと思って、その場は終わったんです。


 ただし、いつの間にか蛇蠱の箱は私のポケットの中に入っていたんですが。


 次の日、私は花ちゃんが上級生にいじめられているところに行きあいました。花ちゃんは上級生の人たちに囲まれて、因縁をつけられていました。だから私はそこに割って入って、やめるように言ったんです。そうしたら上級生のうちの一人が花ちゃんを突き飛ばして、花ちゃんは転んでしまって……。花ちゃんが膝に怪我をしているのを見て、私は多分、頭に血が上ってしまったんだと思います。


 私は上級生を睨みつけました。すると、私の中から蛇が這い出てきて、上級生に襲いかかったんです。這い出てきた蛇は、他の人にも見えているようで、悲鳴が上がりました。悲鳴を上げたのは上級生の人たちもそうですが、隣にいた花ちゃんもでした。


 私は混乱してしまって、へたりこむことしかできませんでした。幸い、私の気が上級生から逸れていたおかげか、蛇に襲いかかられた上級生の人は逃げ出すことができていました。だけど私からあふれ出てくる蛇は止まらなくて、隣にいた花ちゃんにまでまとわりつこうとしていたんです。私は訳も分からないまま、花ちゃんをかばおうとして、そのまま意識を失いました。


 次に目を覚ますと、私たちは保健室にいました。保健室の先生が言うには、蛇が出たという事件は、集団ヒステリーだということになったらしいのです。上級生たちは私を怯えた目で見ていました。私は視界の端に無数の蛇がうごめいていることに気づきました。蛇は、私が上級生たちを見る度に、その動きを大きくしていったのです。……私は、これはこういうものなのだと理解しました。


 私は学校を休学することに決めました。これ以上、学校にいたら、上級生の人たちを殺してしまうかもしれないって思ったんです。それに、花ちゃんが……。花ちゃんはそれまで通り、私に接しようとしてくれました。だけど、本当は私のことが怖いのだと私は気づいていたんです。だから私は……」


 そこまで話して、私は言葉を切りました。先生は私を見たまま、何も言いません。私は喉がからからになっていることに気づきました。つばをごくりと飲み込みます。

 私は立ち上がり、深く深く頭を下げました。


「お願いです、裏島先生! 蛇蠱を、この蛇を退治してください!」


 先生はそんな私をじっと見つめた後、簡潔に答えました。


「駄目だ」


 私は顔をがばりと上げ、追いすがりました。


「お、お金ならあります! だから……!」


 慌ててお財布を取り出します。お財布にはお金がぱんぱんに詰まっています。

 この時のためにお金を稼いできたんです。全てはこの蛇を退治するために。

 なのに先生は首を横に振るのです。


「そりゃ俺にも手に負えねえよ。お前がなんとかしなきゃならない問題だ。何とかできないのなら……一生付き合う覚悟を決めるんだな」


「……っ!」


 私はお財布を握りしめます。


「蛇蠱が他の憑きものと違うのはな、自分の力じゃ制御できないことなんだよ。……自分が望むと望まざるとに関わらず、些細な悪意で動いて相手を傷つけちまう」


 ……そうですよね。実感してます。


「蛇蠱を持つお前をここに置いておくわけにはいかない。なんでかは分かるな?」


 分かってます。

 何がきっかけで私の悪意が向くかも分からない。ここを頼ってくるアヤカシさんたちをそれで傷つけるわけにはいかないんでしょう?


「あおい」


 先生は座ったまま、深く頭を下げました。


「俺たちのことを思うなら出てってくれ。……頼む」


 私は初めて見る先生のつむじを見下ろしながら、お財布を持った手を下ろしました。

 ……おしまいなんですね。これで本当に。

 お財布をポケットにしまいます。事務所の出口へと向かいます。


「先生、一助さん」


 目に涙がたまりそうになります。だけど駄目です。最後ぐらいはびしっときめさせてください。

 私は先生たちに、深くお辞儀をしました。


「これまで、お世話になりました……!」


 ドアが音を立てて閉まります。

 私は素早く踵を返すと、事務所の方を振り返らないようにして走り去りました。

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