第三話「狗神ニ腕ヲ食ワルルノ事」/其の七(終)

 次に目が覚めた時、辰敏は病院のベッドの上にいた。あの後、病院に担ぎ込まれ、なんとか一命を取り留めたのだという。

 ベッドの横には裏島たちの姿はなく、代わりに僅かばかりの金子と手紙、それから養子先が残されていた。手紙によると、「いちすけが迷惑をかけたお詫び」だそうだ。

 あれから二人の叔母は一度も辰敏の前に姿を現さなかった。その代わりに裏島が手配してくれた新しい両親が親身になって看病してくれたから、寂しくはなかった。

 すっかり大人になってから聞いたところによると、あの二人は遺産だけ受け取ってさっさと姿を消したらしい。薄情なものだ。二人とも辰敏の引き取り手にはなりたくなかったのだろう。

 それ以来、裏島とシュテンも辰敏の前に姿を現すことはなかった。

 二人の行き先を養父母に聞いても答えてはくれず、あの時の事務所にも行ってみたが、既に空き部屋になっていた。

 せめて一言、感謝の言葉を、と思っていたのだが、あちらが自分に会いたくないのなら仕方がない。

 辰敏はその記憶を、ほんの短い間だけ見た夢のように抱えて、生きていくことに決めたのだった。



 ――だったのだが、



 大正二十五年、五月十二日、未明。


「ほら自分で歩け、インチキ記者」


「おー、歩いてる歩いてるー」


「歩けてないから言ってるんだ」


 大衆酒場帰りの犬村辰敏は、酔いつぶれた裏島正雄に肩を貸して――いや、身長差のために半ば圧し掛かられるような姿勢で、夜明け前の街を歩いていた。


 裏島は右手で口元を押さえて、えずいた。


「うっ、吐きそ……」


「俺の服に吐いたら殴るぞ」


「うえっ、右手でか?」


「右手でだ」


「本気でか?」


「本気でだ」


 鋼鉄でできた右手を握ってみせる。裏島は、うーと唸った後、「やべ、吐く」と言い残して、側溝に頭を突っ込んだ。

 聞くに堪えない音が明け方の街に響く。犬村はハァと天を仰ぎながら、裏島には聞こえないように呟いた。


「憧れてたんだけどな、……昔は」


 胃の中身をすっかり吐き終わった裏島を引きずって、裏島の事務所へと連れてくる。犬村はなんとはなしにその薄汚れたビルヂングを見上げた。

 このビルヂングの三階には、あの時の恩人であるシュテンがいるはずだ。

 ここまで来たんだ。一応挨拶でもしていくべきだろうか。

 ふとそんな思い付きが頭をよぎる。だが、何を考えているのか分からない、あのぎらぎらとした目を思い出して犬村は踏みとどまった。ぶるりと全身が震える。……関わらないのが得策だ。このまま帰ってしまおう。

 犬村は酔いつぶれた裏島を階段の下に放置すると、そのままその場を立ち去った。




「いちすけー、いちすけー、今帰ったぞー」


 やや乱暴な音とともに、事務所のドアが開け放たれる。事務所の奥から、書生姿の青年が顔を出した。


「ほら、土産の酒だ。上物だぞ」


 にこにこながら裏島が一升瓶を持ち上げる。


「目の前に酒があるのに飲めないってのも苦痛だろ。お前も飲んどけ飲んどけ」


 いちすけは首を傾げた。裏島は戸棚からコップを二つ取り出しながら、それに答えた。


「いいんだよ。ここには俺たちだけだし、お前もとっくに酒が飲める年齢はこえてんだから」


 机の上に置かれた酒瓶に、青年と少女の姿が重なって映る。いちすけはひどく美しい作り笑顔を浮かべてみせた。



「なぁ、酒呑童子?」

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