第三話「狗神ニ腕ヲ食ワルルノ事」/其の六

 不安そうな面持ちで一同が待ち続けて十数分、後藤巡査は布の塊のようなものを持って帰ってきた。


「ウラさーん! 見つかりましたよー!」


 ぶんぶんと大きく手を振りながら駆けてくるその様は、まるでボールを取ってきた子犬のようだ。

 裏島は、おう、と返事をして後藤巡査の持ってきたものを覗き込み、それから犬村家の大人たちに向き直った。


「あー、大体分かりましたよ。誰が、どうやって周二さんを殺したのか」


 その場の全員の顔がこわばる。裏島は頭痛をこらえるように、目と目の間を揉んだ。


「まずは狗神持ちが周二さんを殺したという前提で話を進めましょうか。辰敏が狗神として容疑を受けているという現状から考えるに、そうでなければ狗神持ちが辰敏に狗神を憑ける意味はないはずですから」


 後藤巡査が分かってもいないのにうんうんともっともらしく頷く。裏島は人差し指をぴんと立てた。


「ここで狗神について少々おさらいを。狗神に関する人々は狗神憑きと狗神持ちに分かれています。その内の狗神憑きには次のような症状が現れます。


 一つ、狗神憑きは犬のような行動を取り始める。一つ、狗神憑きには体のどこかに「しるし」が現れる。一つ、狗神憑きが犬のような行動を取っているときはその間の記憶を失ってしまう。


 ……それからこれはおまけですが、憑かされた狗神を落とすには飼い主が呼べばいい、というのもあります」


 その辺りは皆さんご存知です? と裏島が尋ねると、月野は目を輝かせ、犬村家の大人たちは曖昧に頷いた。昨日の辰敏の話で一応全員知ってはいるのだ。


「じゃあ知っているという体で話していきますね。ご存じのとおり狗神持ちとは狗神使いのことです。狗神を使役し、人の行動をある程度操ることができ、しかもその間の記憶は残らない。犯人はこれを利用したんです。


 犯人はまずお手伝いの野沢さんに狗神を憑かせ、部屋の外に鍵を持ってこさせた。そしてその鍵で周二さんの部屋に行き、周二さんを殺害。同様に狗神を憑かせた辰敏を部屋までおびき出して気絶させ、何事もなかったかのように、再び部屋の外に呼び出した野沢さんに鍵を返したというわけです」


 裏島の推理に、犬村家の人々はざわついた。友恵がおずおずと進み出て、異議を唱える。


「そ、そんな非現実的なことがありえるんですか? 野沢さんが誰かと共謀していたと考える方が自然なのでは……」


「証拠ならありますよ。確たる証拠、とまでは言えないかもしれませんが」


 ねえ、野沢さん。と裏島が声をかける。野沢は慌てて首を振った。


「わ、私は何も」


「いえ、そうではなく。……ちょっと右腕をまくって見せてもらえません?」


 野沢は急いで袖を肘までまくった。そこにあったのは、大きな噛み跡と、小豆のような痣。

 自分のものとちょうど同じような傷跡を見て、辰敏は思わず右腕を押さえた。


「これが証拠です。間違いなく野沢さんには狗神が憑いていた。……辰敏と同じように」


 野沢の傷跡を見ながらも、直子は声を張り上げた。


「で、でも! 周二さんの首は狗神に食いちぎられていたのよ! 凶器なんてあの部屋のどこにもなかったじゃない!」


「それが、見つかったんですよ。凶器のナイフが」


 裏島は、後藤巡査が持ってきた布の塊の中から、一本のナイフを取り出した。ナイフには赤黒く変色した血がべっとりと付着している。


「被害者の致命傷となった傷は首にありました。首なんかを刺せば、必ず返り血を浴びてしまいます。でも首以外では狗神が食いちぎったようには見えにくい。だから犯人はこの布越しに周二さんの首を刺したんです。返り血をこの布で防ぐために」


 布の一部はナイフ同様、赤黒く変色している。そしてその部分を隠すように、しっかりと結ばれていたようだった。


「ナイフはこの通り、縛った布の中に包まれていました。より遠くに投げ飛ばすためでしょう。辰敏に罪を着せて、事件を内々に処理した後に、悠々と回収するつもりだったんでしょうね。だけどそうはならなかった」


「で、でもそれだけなら辰敏君がナイフで周二兄さんを殺して、ナイフを捨てたとも考えられるでしょう?」


 三雄がそうやって言い立てる。裏島は大きくため息を吐いた。


「いい加減にしてください。子供がこんなに深くナイフを刺せるはずがないでしょう」


 刃渡り二十センチほどのナイフは、柄までべっとりと血に塗れている。

 友恵は胸の前で不安そうに手を組みながら、裏島に尋ねた。


「じゃあ、じゃあ誰がやったっていうんです? 誰が周二さんを殺したんですか?」


「あーそれは……」


 裏島は言葉を濁し、ちらりとシュテンを見た。シュテンは可憐ににこりと笑うと、鈴を転がすような声で言葉を発した。


「ところで三雄さん、今、何時ですか?」


 三雄は咄嗟に左手の手首を見ようとして、慌てて左手をばっと隠した。


「お探しの物はこれでしょう?」


 シュテンが白く細い指で布の中からつまみあげたのは血まみれの腕時計。三雄が愛用している大ぶりの腕時計だった。裏島は肩をすくめた。


「ま、そういうことです」


 シュテンの持つ腕時計を見つめて浅く息をする三雄を、裏島はまっすぐに見据えた。


「本物の狗神持ちはあんただ。犬村三雄さん」


 その場の全員の視線が三雄に集中する。三雄はあからさまにうろたえ、首を横に振った。


「ち、ちが……」


「それでも自分じゃないっていうんなら、こいつらに向かって狗神を呼び戻してみればいい。本物の狗神持ちなら狗神はあんたの所に帰っていくはずだ」


 裏島は辰敏の後ろに立つと、その頭に腕を乗せて、軽く体重をかけた。


「帰っていかなければあんたは狗神持ちじゃない。どうだ? 試してみるか?」


 三雄は目を泳がせた後、大きく深呼吸をして、裏島を見返した。


「違う、私じゃない。第一、狗神なんて本当にいるわけがないだろう。こんなものはただの集団ヒステリーだ。馬鹿馬鹿しい! そんな迷信で逮捕されてたまるか!」


「いえ、凶器のナイフとあなたの腕時計だけで証拠能力としては十分です。鍵はこっそり盗み出したとして、立件は可能と考えます」


 後藤巡査が小さく手を上げて、話に割って入ってくる。裏島は片眉を跳ね上げた。


「……だそうだが?」


「ぐうう……」


 三雄は唸り声を上げて膝から崩れ落ちた。

 友恵がその肩を支えようと手を伸ばす。


「ど、どうしてですか三雄さん。どうしてあなたがこんなことを……」


「……どうして? どうしてだと? そんなもの決まってるだろう」


 地を這うような声とともに持ち上げられたその顔は、下卑た笑みで歪んでいた。辰敏は思わず、すぐ近くにいた裏島の後ろに隠れた。


「金だよ! 死にかけの父さんの遺産が欲しかったのさ!」


 開き直った三雄は、顔に笑顔を貼りつけたまま、大声でそう言い放つ。犬村家の人々は豹変した三雄から逃げるように後ずさり、距離を取った。


「この犬村家の狗神は代々末っ子が受け継ぐことになっていてな。父さんからそれを聞いたとき絶望したぜ。どうしてこんなものと一生一緒に過ごしていかなきゃならないのかってな。……末っ子の俺は貧乏くじを引かされたってわけだ」


 よろよろと三雄は立ち上がる。


「辰敏ぃ。お前が隆一兄さんの遺産を持ってこの家にやってきたとき、焦ったぜ。隆一兄さんの遺産で金回りは良くなったが、同時に遺産の取り分が減っちまうからなあ」


 鬼のような形相で睨みつけられ、辰敏はヒッと声を上げる。


「狗神なんてものを押し付けられて、その上、遺産の取り分は兄弟の内の誰よりも少ない! そんなのおかしいだろう!」


「み、三雄さん、だからって殺すことはないじゃないですか! あなたたちは兄弟なんですよ!」


「黙ってろ、友恵! 知ってんだよ、お前が本当は遺産狙いでうちに嫁いだ、金に汚い女だってことぐらいなあ!」


「そ、そんなこと」


「直子だって、今は悲しんじゃいるが、頭では遺産のことを考え始めてんだろ! 分かってんだよ、この家の人間が全員クソだってことくらいなあ!」


 後藤巡査が焦って、暴れ出しそうな三雄に駆け寄る。


「犬村三雄さん! 犬村周二さん殺害容疑で逮捕します! 抵抗せずに……」


 捕まれた腕を三雄は振り払った。


「はっ、ただで捕まるかよ!」


 そのまま逃げ出そうともせず、三雄は天に向かって咆哮する。


「暴れろ、狗神ぃ! みんなみんな台無しにしてしまえ!」


 その途端、激しい衝撃が走り、辰敏の視界は赤色に塗りつぶされた。


「う……ああああああ!」


「辰敏!」


 その場に崩れ落ち、右腕を押さえてもだえ苦しむ。巻かれていた包帯がほどけ、床に落ちていく。醜い右腕の傷跡がシャツの下で脈打っている。視界の片隅で野沢が倒れるのが見えた。


「ウウ、ウウウウ……」


 歯をがちがちと噛み鳴らす。四つ足で地面を踏みしめる。目がぎょろぎょろと動き、周囲の人間を見回した。


「ははははは! あーっはははは!」


 三雄の哄笑を遠くに聞きながら、辰敏は唸り声を上げる。


 腹が減った、暴れたい、噛みつきたい、暴れたい、喰らいたい、暴れたい、暴れたい、暴れたい。


 自分ではないものの声ががんがんと響き、あっという間に自分が塗り替えられていく。


「これが憑きものか……!」


 月野が興奮した声を上げる。野沢が自分同様に四つ足で唸り声を上げているのが見える。

 裏島が押さえつけようと手を伸ばしてくる。辰敏はその手に噛みつき、飛び退った。

 顔をゆがめ、ぎりぎりと歯ぎしりをする。剥がれかけた爪が床をひっかく。

 食べたい、嫌だ、食べたくない、食べたくない、もう誰も傷つけたくない!

 辰敏は開いていた窓に飛び乗ると、そのまま外へと身を躍らせた。


「辰敏!」


 叫ぶ裏島を振り返ろうともせず、辰敏は一目散に庭を駆け抜けていく。裏島がその後を追う前に、風呂敷と壁にかかっていた西洋剣を引っ掴み、窓から飛び降りた影があった。――シュテンだ。


「いちすけ! そっちは任せた!」


 裏島が叫ぶ。シュテンは姿勢を低くして庭を駆け抜けていく。




 頭が熱い。手足が勝手に動く。どこかへ行かないと。どこへ。人のいないところへ。

 庭に出ていた警察官がこちらを振り向くのが見える。ここはだめだ。どこかへ行かないと。冷たい地面を蹴り、塀を飛び越え、隣家の庭へと飛び降りる。

 姿勢を低くし、地面の匂いを嗅ぎまわる。鼻先に土がつく。ここなら誰もいないだろうか。


「な、なんだ、君は」


 ばっと顔を上げると、じょうろを持った男性が驚きの表情を浮かべているのが見えた。


 腹が減った。美味そう。食べたい。襲いたい。


 喉の奥から唸り声が出る。前足をゆっくりと動かして、男性との距離を詰める。

 その時、背後で風を切る音が聞こえ、咄嗟にその場から飛びのいた。

 ざんっと音を立てて、一振りの剣が先ほどまでいた場所へと突き刺さった。その柄を握っているのはシュテンだ。


「ひ、ひいい……」


 男性はじょうろを取り落して逃げ去っていった。獲物を見失った辰敏は、即座にシュテンへと標的を切り替える。シュテンは片手で持っていた風呂敷包みから手を離した。小豆飯が入った風呂敷包みが落ちていく。――風呂敷包みが地面に触れたその瞬間、辰敏はその体めがけて飛びかかった。


「ガアアアアア!」


「…………」


 シュテンは抵抗しなかった。されるがままに柔らかい地面へと押し倒され、辰敏はシュテンに馬乗りになった。

 彼女の黒髪は地面へと広がっていた。彼女は脱力して、斜めに辰敏を見上げていた。辰敏は口をぼんやりと開け、何度も浅く息をした。

 掴んだ手首から彼女の熱が伝わってくる。彼女の息は乱れていない。視線には怯えはなく、むしろわずかに微笑んですらいる。

 腹が減った。喰らいたい。この白くて柔らかな肌に牙を突き立ててしまいたい。この人の喉を噛みきってしまえたら、どれだけ素敵なことだろう。


「ウウ、アアアア……」


 嫌だ、嫌だ、嫌だ。

 食べたくない。これ以上、誰かを傷つけたくない。狗神様になんてなりたくない。

 口を開いたまま硬直したその時、シュテンは辰敏の右手を掴み返すと、片腕だけでその体を投げ飛ばした。

 辰敏は塀に叩きつけられ、そのまま地面へと倒れ伏した。


「狗神の作り方、知ってる?」


 シュテンがぱんぱんと土を払い、歩み寄ってくる。塀で頭を打ったのか、手足が震えて動かない。


「犬を首だけ残して土に埋めて」


 シュテンは辰敏の襟首を掴んである場所へずるずると引きずっていく。


「好物を目の前に置いて」


 そこには目の前に小豆飯があった。シュテンは辰敏の左腕を足で踏んで固定する。

 猛烈な飢餓感が辰敏を襲った。


 食べたい、食べたい、食べたい。


 右腕だけが勝手に動いて、小豆飯へと手を伸ばし始めた。指ががりがりと土を掻いて、なんとか前へと進もうとしている。シュテンは右腕の真上に剣を持ち上げた。

 辰敏はそれを見上げた。ここで死ぬんだ、と思った。だけど彼女から目をそらせなかった。


「食べようと首を伸ばした所で首を刎ねるの」


 シュテンはまっすぐに刃を振り下ろした。

 右腕が飛ぶ。斬られたという感覚はなかった。ただ右腕が燃えるように熱く、次いで急激に全身が冷えていく。シュテンは辰敏を仰向けに放り出すと、切り飛ばした腕へと歩み寄っていった。


「辰敏!」


 かすむ視界の端で裏島が駆け寄ってくるのが見えた。裏島は辰敏を抱え上げると、上着を巻いて止血をしようとしていた。


「目を開けてろ! 絶対に気を失うなよ!」


 その声をぼんやりと聞きながらも、辰敏の目はシュテンの姿を追っていた。

 斬り飛ばされた腕は小豆飯の上で蠢いていた。シュテンはそれを拾い上げる。そして、腕に纏わりついた袖を投げ捨てると、シュテンは天を仰ぎ、大きく開けた口に辰敏の腕を放り込んで丸呑みにした。

 ごくり、と喉が動く。

 シュテンは愛しそうに腹を撫でて、唇を舐めた。

 そうか、最初からこのために僕に親切にしてくれていたんだ。

 辰敏は何故かほっとして笑みを浮かべると、襲い来る眠気のままに意識を手放した。

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