第三話「狗神ニ腕ヲ食ワルルノ事」/其の五

 応援を呼んで戻ってきた後藤巡査に促され、一同は殺害現場に集まっていた。血だらけだった辰敏は服を着替えさせられ、顔や髪についた血も一応は洗い流されている。


「それでは順に自己紹介と犯行時刻に何をしていたか話していただけませんか」


「……では僕から」


 最初に前に出たのは三雄だった。


「犬村三雄。この犬村家の三男です。昨夜は自室にこもっていました」


「犬村友恵。三雄さんの妻です。私も三雄さんと同じく自室に……」


「……犬村直子。死んだ周二さんの妻です。昨夜は部屋から一歩も外に出ていません」


「お三方ともそれを証明できる方は?」


「いません」


「おりません」


「いないわ」


「なるほど、全員アリバイはないと。ところであなたは?」


 後藤巡査の目が、月野に向けられた。


「私は月野敬一郎。昨日こちらにお邪魔していた者だ。昨夜は所用があって一度帰宅し、今朝になってまたこちらを訪れた次第」


「では月野さんはとりあえず容疑者から外れますね。じゃあ最後に君は……」


 全員の目が辰敏を見る。辰敏は身を縮こまらせた。


「犬村辰敏くん。犬村家長男の息子で、その……、僕たちが周二さんを見つけた時、周二兄さんの死体の横に倒れていて……」


「その時、近くに凶器になりそうなものは落ちていませんでしたか?」


「いえ、何も……。辰敏君の口の周りにはべっとりと血がついていましたが」


 三雄からの説明を受け、後藤巡査は難しい顔をしながら手帳に何やら書きつけた。


「では次に事件発覚時の状況を整理してみましょう。周二さんは昨夜自室にいたんですよね」


「はい。ただ、兄は自室にこもる時、ドアに鍵をかける癖がありまして」


「そうなんです。でも今朝だけは朝食の時間を過ぎても起きてこなかったんです」


「それで不審に思って鍵を開けてみたら、中で周二さんと辰敏君が倒れていた、と」


「はい……」


 後藤巡査はペン先で手帳をとんとんと叩いた。


「鍵は外からは開けられないんですか?」


「一応合鍵はあります。お手伝いの野沢が持っていて……」


「野沢さんというのはどなたです?」


 集まっていたお手伝いさんたちに後藤巡査が声をかけると、野沢が一歩歩み出てきた。


「野沢です。この家で侍女長をしております」


「どうも。野沢さん、あなたはこの部屋の鍵を持っているということですが」


「はい、この鍵です」


 野沢は腰につけた鍵束を持ち上げた。


「この鍵以外に合鍵はありません。……ですが私には犯行は不可能です」


「というと?」


「昨日私たちは狗神様――辰敏様がいつ暴れまわってもいいように複数人で寝ずの番をしていたのです。だから周二様を殺すことは不可能です」


「あなたは一度もその部屋から外に出なかったのですか?」


「いえ、それは……」


 お手伝いさんたちの内の一人が手を上げた。


「野沢さんが部屋を出たのは二回だけです。二回とも短い時間でとても周二様のお部屋まで行くには足りません」


「それでは皆さんがここを開けるまでこの部屋は密室だったということですね?」


 後藤巡査が尋ねる。異論を唱える者はいない。


「野沢さんが誰かと共謀していなければ、の話ですが」


「そんな! 私やってません! 第一、周二様を殺したとして私に何の得があるっていうんですか!」


 声を荒げる野沢を、まあまあと後藤巡査は押しとどめる。

 そんな一同をよそに、シュテンは辰敏の後頭部を見下ろし、優しく指を這わせた。


「頭、怪我してる」


「えっ?」


 後藤巡査が寄ってきて、「本当だ」と呟く。


「ふむ、どうやら辰敏君は誰かに殴られて気絶させられたようですね」


「そ、そうなんです! 僕、周二叔父さんの部屋の前で後ろから殴られて……!」


 あの時のことを思い出して、辰敏は声を張り上げる。しかし後藤巡査は首をひねった。


「あれ、でもどうしてそんな深夜に出歩いていたんです?」


「えっと、なんだか急に外に出たくなって……、僕にもよく分からないんですけど……」


 しどろもどろになる辰敏に大人たちの疑念の眼差しが突き刺さる。

 後藤巡査はふと気づいて窓を見た。


「密室と言いましたが、窓は開いているようですね」


「はい、警察の方が来るまで現場は触らずにいましたから、発見時から窓は開いていたはずです」


「ふむ。それでは犯人は窓から侵入し、辰敏くんを気絶させて部屋に運び込んだあと、また窓から逃げ出したということも……」


「ですがここは三階ですよ。窓から出入りすることは不可能でしょう。……少なくとも人間には」


「まるで人間じゃないものが関わっているとでも言いたそうな口ぶりですね」


 冗談交じりに発せられた後藤巡査の言葉に、三雄は口を噤んだ。ちらちらと辰敏に視線が向けられる。

 その時、それまで沈黙していた直子が俯きながら口を開いた。


「そんなの簡単なことじゃない」


 直子は辰敏を指さし、すさまじい形相で睨みつけた。


「狗神よ! そこの狗神がやったんだわ!」


「な、直子さん!」


 掴み掛らんばかりの勢いの直子を、三雄が後ろから引きとどめる。後藤巡査も辰敏を守るように、直子の前に立ちふさがった。それまで事態を静観していた月野は、眼鏡を直しながらそれを凝視していた。


「狗神だったら、窓から部屋に入ることもできるでしょう! あの首の傷だって狗神が噛み千切ったに決まってる!」


「確かに凶器は発見されていませんが、そうと決まったわけでは……」


「この人殺し! あんたなんて、あんたなんて生まれてこなければよかったのよぉ!」


「奥さん、落ち着いて」


「どうしてあの人なのよ! あんたが死ねばよかったのよ! この狗神持ち!」


 唾を飛ばして怒り狂う直子に、辰敏は一歩後ずさる。

 と、その時、事態を見守っていたシュテンが直子の前に歩み出た。


「狗神憑き」


 全てを見透かしているかのような完璧な笑顔でそう言われ、その場にいた全員が一瞬、動きを止める。


「狗神持ちじゃない。狗神憑き」


「あーやっぱりそうなのか」


 歩み寄ってきた裏島が背筋を丸めながら尋ねると、シュテンは振り返り、にこりと笑った。

 裏島は固まったままの一同をぐるりと見回した。


「そもそもがおかしいんですよ。狗神持ちに狗神が危害を加えるはずがない。だって狗神は飼い主に福をもたらす存在なんですから。辰敏君は狗神を受け継いだわけじゃなかった。逆に、狗神を憑かされた側だったんです」


「何が言いたいんですか。えっと……裏島さん」


「つまり本物の狗神持ちは、この中にいるってことですよ」


 辰敏はぱっと表情を明るくして裏島を見た。犬村家の大人たちは怯えた顔でお互いの顔を見た。

 そして居心地悪そうにそろそろと後藤巡査が手を上げる。


「あのう、ウラさん。自分、話についていけないんですが……」


「まあ適当に聞いとけって。こっちの話だからな」


「なるほど、そっちの分野の話ですか。ならばウラさんの専門ですね。自分は静観いたします!」


 それでいいのか、という視線がその場の全員から向けられるが、後藤巡査はにこにこと笑うばかりだ。


「それより後藤、お前ちょっとあそこに行って……」


 裏島は低い位置にある後藤巡査の顔に顔を寄せると、何事かをひそひそと囁き始めた。

 その間、シュテンは大して興味もなさそうな目で、部屋全体を見回していた。

 机の上が荒らされた様子はない。椅子は斜めに引かれ、被害者が立ち上がった後のように見える。ベッドに乱れはない。壁には西洋剣がかかっている。そして、死体から窓に向かってぽつぽつと血痕が残されている。


 次にシュテンは犬村家の人々を見た。

 犬村直子は辰敏を疑心の眼差しで見ている。犬村三雄は居心地悪そうに左の手首を掻いている。犬村友恵はその隣でおろおろと後藤巡査と裏島を見比べている。野沢は他のお手伝いさんと不安そうに顔を見合わせている。月野はそんな犬村家から少し離れた場所で事態を見守っていた。


「じゃあ頼むぞ」


「分っかりました! すぐに行ってきますね!」


 ばね仕掛けのおもちゃのようにぴょんっと跳ねあがり、後藤巡査はどこかへと駆け出そうとした。

 しかしその最初の一歩を踏み出そうとしたとき、その軸足をシュテンがすいっと引っかけた。

 派手な音を立てて顔からすっころんだ後藤巡査を、シュテンは冷たく見下ろした。


「後藤」


「は、はいっ」


 びくっと肩を震わせる後藤巡査の傍らにシュテンはしゃがみこむと、耳元でぼそぼそと何かを囁いた。


「ええっ、そんなものが落ちてるんですか?」


 驚きもあらわに声を上げる後藤巡査。シュテンは鼻を鳴らし、顎で外を指し示した。


「早く行け」


「はいっ!」


 後藤巡査は、ぱっと跳ね起きると、部屋の外へと駆けていった。

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