第三話「狗神ニ腕ヲ食ワルルノ事」/其の四

 次に辰敏が目を覚ました時、部屋の中にシュテンの姿はなかった。


「シュテン……?」


 名前を呼んで辺りを見回すも返事はない。壁時計によれば今は深夜の二時過ぎだ。

 なんでこんな時間に起きたんだろう。パジャマに着替えることもしないまま寝てしまったために、しわになってしまったシャツの釦(ボタン)を外しながら、辰敏はぼんやりと考える。

 と、その時、右腕がずきんと痛んだ。

 痛みに顔をゆがめるのと同時に、ある感覚が頭をよぎった。


 行かないと。

 どこに。

 ……部屋の外に。


 それはあたかも名案であるかのように、辰敏の心を揺さぶった。

 辰敏はふらふらと立ち上がると、部屋の戸口へと歩みを進めた。夜風が辰敏の髪を揺らす。窓が空いている。

 ドアにかかっていた内鍵を外し、辰敏は裸足のまま廊下へと出る。何かに右腕を引っ張られている。何かがこっちにおいでと手招きしている。辰敏は不思議な感覚に突き動かされるままに廊下を歩いていった。

 辰敏はある部屋の前で足を止めた。


 この邸宅で、広間を除けば一番広い部屋。犬村家次男、周二叔父さんの部屋だ。

 なんでこんなところに来てしまったんだろう。ぼんやりと鈍る頭で懸命に考えようとしていたその時、後頭部に強い衝撃を感じて、辰敏は倒れ伏した。




「う、ん……」


 誰かのざわめく声に辰敏は目を覚ました。

 窓からは朝日が差し込んできている。いつの間にか床にうつぶせに寝てしまっていたようだ。ずきずきと痛む頭を押さえて、辰敏は起き上がる。――絨毯を染める赤黒い何かが見えた。


「え」


 自分の姿を見下ろす。手の平にも、白かったシャツにも、赤黒いそれはべったりとへばりついている。顔に触れる。何かがへばりついているがさがさとした感触がある。

 辰敏はそこでようやく傍らに誰かが倒れていることに気付いた。


「周二叔父さん……?」


 うつ伏せで倒れる男、周二の顔を辰敏はおそるおそる覗き込む。血だまりに沈むその顔が、驚愕の表情のまま固まっていることに気付いて、辰敏は小さく悲鳴を上げた。

 死んでいる。なんで、どうして。

 ガタンッと物音がして顔を上げると、部屋の入口には三雄と友恵が呆然と立っていた。


「た、辰敏くん、それは君が」


 震える声で尋ねられ、辰敏は急に頭が冷え、自分の置かれている状況を理解した。


「ちがう」


 辰敏は震えながら首を横に振った。


「ちがう、ぼくじゃない」


 そうやって繰り返す。三雄たちから向けられる視線は変わらない。


「僕はやってない……!」


 その時、次男の妻、直子が部屋へと駆け込んできた。


「あなた!」


 直子は辰敏を押しのけるようにして、周二に駆け寄った。


「やってないんだ……」


 辰敏は尻餅をついて、後ずさる。直子は周二の体に縋り付き、泣き崩れた。


「あなた、あなたぁ……」


 僕じゃない、僕じゃない、と辰敏は繰り返す。三雄夫妻は身を寄せ合って、こそこそと言い合った。


「こんなことになるなんて……」


「周二さん、ううっ……」


 直子は突然がばりと顔を上げると、ヒステリックに叫んだ。


「だからそんな気味の悪い子、さっさと殺してしまえばよかったのよ!」


 その気迫に押されて、辰敏は言葉を失った。それをいいことに、直子はさらに言いつのる。


「また人を殺す前に、どこかに閉じ込めておくべきよ!」


「そうだな、もうその方がいいかもしれない」


 歩み寄ってきた三雄がそれに同意したのを、辰敏は信じられないという目で見上げた。辰敏は腰が抜けたまま、三雄の足に縋り付いた。


「違う、僕じゃない、僕じゃないんです、信じて、三雄叔父さん」


 三雄はしゃがみこみ、泣きそうになっている辰敏に視線を合わせ、両肩に手を置いた。


「いいかい辰敏くん。……君が、やったんだ」


 目をまっすぐに見てゆっくりと告げられる言葉に、辰敏は浅く息を吸い込むしかなかった。


「君は、君の知らない間に、人を殺してしまったんだ。分かるね?」


「ちがう、僕は、僕は……」


 何度も首を横に振って否定する。しかし三雄はそれには耳を貸さず、立ち上がって友恵となにやら相談をし始めた。


「これは大変なことだぞ」


「ええ、まさか次期当主の周二さんが殺されてしまうだなんて」


「国政への立候補はどうなるんだ。周二兄さんがする予定だっただろう」


「そんなことを言っている場合ではないでしょう。こんな事件が表沙汰になれば、国政どころか、事業も立ち行かなくなりますよ」


「そうだな……。ああ、いっそ事故で死んだということにしないか。その方が外面もいい」


 兄が死んだというのに悲しもうともせず事務的に処理しようとする三雄夫妻。いまだ泣き崩れたままの直子。部屋の外ではお手伝いさんたちがおろおろと顔を見合わせ、そんな大人たちに囲まれて、辰敏は一人絶望でうなだれていた。


「じゃあこの事件は内々で処理するということで」


「ええ、このまま警察には知らせず……」


「ごめんください! 駐在所の者ですが!」


 玄関から響いた声に、大人たちはぎょっと顔を見合わせた。


「こちらで人が死んでいると聞いてやってきました! 開けていただけませんかー!」


 どうしましょう、とお手伝いさんたちが三雄に尋ねる。


「……開けないわけにはいかないでしょう」


 苦虫を噛み潰したような顔で、三雄が呟いた。


「一体誰が警察なんかを呼んだんだ」




 玄関には数人の男女が立っていた。


「ああ、やっと開けてくださった。もう寒くて寒くて凍えてしまうかと思いましたよ。あっ、自分は後藤といいます。近くの駐在所勤務の巡査です!」


 後藤と名乗った男は、そう言うとびしっと敬礼をしてみせた。


「はあ、でもなんでうちに……」


「人が死んだらコレを連れてくるものなのでしょう?」


 全く悪びれずにそう言うのはシュテンだ。


「一体何の騒ぎかね? 私は辰敏くんに話を聞きに来たのだが……」


 その隣で陸軍の男、月野が首を傾げている。


「死体なんてうちにはありません。帰っていただけませんか」


「いえ、そういうわけにもいかないんです。こちらのお嬢さんがこの家で他殺体を見たと言うもんですから。とりあえず現場だけでも見せていただけませんかね」


 犬村家の大人たちはすさまじい形相でシュテンを睨みつけた。シュテンはそんな視線を意にも介さず、ただ美しく微笑んでいる。

 三雄は渋々といった顔で三人を招き入れた。


「こっち」


 簡潔にそう言うと、シュテンは後藤巡査をまっすぐ周二の部屋へと案内していった。

 部屋の前に集まっていたお手伝いさんたちを押しのけて、シュテンが勢いよく扉を開けると、そこには血だまりに沈む周二の遺体と、部屋の隅で毛布をかけられて震える辰敏の姿があった。


「こ、これは……殺人事件じゃないですか!」


 後藤巡査は声を震わせて叫んだ。そんな後藤巡査に友恵は深く頭を下げた。


「お願いです、刑事さん! この事件、公にはしないでもらえませんか!」


「そうはいきませんよ。これは殺人事件です。警察がしっかり捜査して犯人を上げなければなりません」


 きっぱりと断られ、犬村家の大人たちは一様に肩を落とした。

 その時、大人たちの後ろからひょっこりと顔を出したのは、辰敏が昨日出会った大男だった。


「おー邪魔するぞー」


「ウラさん! どうしてこちらに!」


 裏島と後藤巡査は顔見知りのようで、後藤巡査は嬉しそうに声を上げた。


「ちょっと野暮用でな。ここは俺が見ててやるから、ほら、お前は応援を呼んで来いって」


「はっ! ご協力感謝いたします!」


 後藤巡査はびしっと敬礼をすると、「死体には触らないでくださいね」と言い置いて、一目散に応援を呼びに行ってしまった。

 それをよそに、裏島はシュテンへと歩み寄り、風呂敷包みを手渡した。


「ほら、いちすけ。小豆飯だ」


 シュテンは何も言わずにそれを受け取った。

 裏島は部屋の隅で肩を震わせる辰敏に歩み寄ると、その頭にぽんと手を置いた。


「泣くな、坊主」


 辰敏は泣きはらした目で裏島を見上げる。裏島はふっと微笑んだ。


「なんとかしてやるから、な?」


「はい……」


 涙でぐしゃぐしゃになった顔で、辰敏はなんとか頷いた。その時、焦れたという様子で、三雄が裏島に話しかけてきた。


「あなたは何者なんですか、警察の方とお知り合いのようでしたが」


「あー俺は裏島正雄。新聞記者をやっています。そこにいるいちすけ――いや、シュテンのまあ、保護者みたいなもんです」


「新聞記者? なんで新聞記者が……」


「いいじゃないですかそんなこと。それより、とりあえず状況を整理しませんか」

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