第三話「狗神ニ腕ヲ食ワルルノ事」/其の三
辰敏が住んでいる家は、新宿区は市ヶ谷にある。武家屋敷が建っていた場所に作られた、いわゆる新興の高級住宅街で、建築様式はモダンな洋風、規模は邸宅と言って差し支えないほどの大きさだ。
ほとんど徒歩で行ったため、辰敏が自宅に到着したころには、時刻は夕方ごろになってしまっていた。
辰敏が玄関の呼び鈴を鳴らすと、お手伝いさんが一人、慌てて飛び出してきた。侍女長の野沢だ。
「狗神様!」
野沢は悲鳴のような声を上げて、辰敏に駆け寄ると、体のあちこちを触りはじめた。
「お怪我はありませんか? 急に飛び出していってしまって、皆、心配していたのですよ」
「ごめんなさい……」
俯きながら辰敏は謝る。その間も、シュテンは辰敏の右手を握って離さずにいてくれていた。
野沢は立ち上がり、シュテンへと頭を下げた。
「貴女が狗神様を連れてきてくださったのですね、ありがとうございます」
「一つお願いが」
「え、は、はい。なんでしょうか」
シュテンの唐突な言葉に面喰いながら、野沢はそう聞き返した。シュテンは美しく微笑みながら口を開いた。
「もうこんな時間ですし、今晩だけこちらに泊めていただきたいのです」
辰敏はぎょっとしてシュテンを見上げた。こんなにすらすらと話すことができるだなんて思わなかったのだ。
野沢は突然の申し出に困惑しているらしく、「ええと」だの、「その」だのと繰り返すばかりでなかなか返事をしようとしなかった。そんな様子を見て、辰敏は頭を下げた。
「あの、僕からもお願いします。今晩だけ、シュテンを泊まらせてほしいんです」
そう言った理由ははっきりとは分からない。だけど、ここで泊まってもらえれば、もしかしたらこの狗神を落とせるかもしれない。そんな予感がしたのだ。
野沢は辰敏を見て一瞬怯えた顔をした後、「少々お待ちください」と言って、家の中へと姿を消した。
辰敏は傍らのシュテンを見上げた。シュテンは完璧な笑顔のまま、野沢が消えていった邸宅へと視線を向けていた。
待つこと十数分。邸宅の扉はようやく開かれた。
「どうぞ。そちらのお嬢さんもゆっくりしていってください」
「はい、ありがとうございます」
作られた笑顔のまま、シュテンがまっすぐ野沢を見ると、野沢は顔を真っ赤にして、黙り込んだ。
招かれるままに扉をくぐると、そこにはエントランスが広がっていた。エントランスの奥には、大きな階段が二つあり、左右と正面には廊下へと繋がる扉がある。
エントランスには一組の男女が立っていた。
「辰敏くん!」
ぱっと表情を明るくして、辰敏に駆け寄ってきた男性は犬村三雄。犬村家の三男だ。狗神になってしまった辰敏を持て余している犬村家の中では、最も辰敏の味方になってくれている人だ。
「見つかってよかった。なあ、友恵」
「え、ええ。本当に」
目を泳がせながらそれに同意するのは犬村友恵。犬村家三男、三雄の妻だ。いつも三雄に話を合わせる形で辰敏の味方になってはくれているが、その実、怯えを含んだ目で見られていることを辰敏は知っている。
三雄は右腕にはめた大振りの腕時計をちらりと見ると、辰敏の肩に手を置いた。
「さあ、おなかがすいただろう。すぐに夕食だから一度部屋に戻って着替えておいで」
「……はい」
「シュテンさんだったね。きみの分も用意してあるよ。一緒に……」
「着いていく」
「ん?」
「たつとしに着いていく」
「あ、ああ、そうか。そうだな、そうするといい」
三雄はシュテンに微笑まれ、一瞬硬直した後に何度も頷いた。
その時、階段横の扉が開き、一人の男が姿を現した。黒縁のロイド眼鏡をかけた四十代ぐらいの紳士だ。見覚えのない人物の姿に、自然とシュテンと繋いだ手に力が入ってしまう。
「おや、きみは……」
「ああ、月野さん。この子が例の狗神の子ですよ」
月野と呼ばれた紳士は少し屈んで辰敏と視線を合わせた。
「はじめまして辰敏くん。私は月野敬一郎。軍で、君の狗神のような不思議な現象を研究している者だよ」
「はじめまして……」
警戒心もあらわに見上げてくる辰敏に、月野は笑いかけた。
「ははは、そう怖がらなくてもいい。少し君に話が聞きたいだけなんだ。どうだろう、夕食を食べながらでも、狗神について知っていることを話してはもらえないだろうか」
人好きのする笑顔を向けられ、辰敏は戸惑いながらもこくりと頷いた。
「そうか、それはよかった」
そう言って離れていく月野にほっとしながら、辰敏はふと傍らのシュテンを見上げた。シュテンはその場にいる三人の大人たちに視線を向けていた。
辰敏は身を強張らせた。光の加減だろうか。その時一瞬だけ、笑顔の形で固められた唇が、笑みを深めたように見えたのだ。
慌てて前へと視線を戻して、辰敏は自室へと急いだ。そして、こちらを凝視してくるシュテンから隠れながら着替え終わると、気は進まなかったが、夕食の席につくために大広間へと歩みを進めた。
「ああ、来たね、辰敏君」
お手伝いさんが重い扉を引き開けると、犬村一家と月野が長細いテーブルを囲んで座っていた。
「さあ座るといい、そして話を私に聞かせておくれ」
「はい……」
席に座ると、月野は根掘り葉掘り狗神について尋ねてきた。
「君はいつから狗神に憑かれたのかね?」
「狗神に憑かれているときはどんな感覚なのかね?」
「飢餓感はあるかね?」
「狗神の衝動を制御することは?」
問いかけられる質問一つ一つに答えつくし、こうなった成り行きや消える記憶のこと、体験したことなども話しつくして、それでもそれ以上のことを聞きたがるので、辰敏は今日裏島から教わったばかりの「狗神憑き」と「狗神持ち」の話、狗神の特徴の話までする羽目になった。
「狗神憑き」と「狗神持ち」の話をしている間、辰敏は嫌な視線を家族から受けていることに気付いていた。きっと、どうしてそんなことを知っているのか、不思議でならないのだろう。そしてきっとそれを気味が悪いとも思われている。
辰敏は目だけを動かして、隣に座ったシュテンをちらりと見た。シュテンは次々と繰り出される質問にはまるで興味がないようで、慣れた手つきでナイフとフォークを操り、食事を口に運んでいた。
怒涛の質問の奔流が収まってきた頃、お手伝いさんのうちの一人がすっと月野の傍らに寄ると、何事かを耳打ちした。月野は難しい顔をした。
「すまない、非常に楽しい食事だったのだが、少々用事ができてしまった。また明日お邪魔するが、ここはお暇させてもらうよ」
言うが速いか月野は席を立ち、慌ただしく部屋から出ていった。ぎいいと扉が閉まった後は音らしい音もなく、犬村家とシュテンは静かに食事を続けていた。そんな沈黙に耐えきれなくなって、辰敏は口を開いた。
「あの、ごめんなさい、僕また飛び出しちゃったみたいで、迷惑をかけてしまって……」
「その通りよ、この疫病神」
間髪入れずに返された言葉に、辰敏は硬直する。辰敏を疫病神と呼んだ女性は言葉を続けた。
「あんたなんてあのまま戻ってこなければよかったのに」
とげとげしくそう言う女性の名前は犬村直子。犬村家次男の妻だ。
「な、なんてこと言うんだ、直子さん!」
「あら、本当のことじゃない。三雄さんだって本当はそう思ってるんでしょう?」
「そ、んなことは……」
三雄は否定しきれずに言葉を濁した。
「そもそもあんたがいるせいでお義父様の遺産の取り分が減るのよ。長男の隆一さんは事業を立ち上げてお家から出奔していたから遺産には関係ないと思ってたのに」
辰敏は視線を向けることもできなくなって、俯いた。
「あんたなんか、いっそ親と一緒に死んでしまえばよかったのよ」
「直子」
たしなめるように口を開いたのは犬村家次男、犬村周二だ。一瞬、庇ってくれるのかと思って辰敏は顔を上げる。
「狗神に祟られたらどうする。口を慎みなさい」
無感情に続けられた言葉に、辰敏は再び俯いた。
味方はどこにもいない。知っていたはずの事実に改めて打ちのめされる。
その時、包帯が巻かれた右腕がずきんと痛んだ。
「う……」
右腕を押さえて呻くと、一斉に部屋中の視線が辰敏へと集まった。また狗神様になるのではないかと警戒されているのだ。
辰敏は右腕を押さえたまま、よろよろと席を立った。
「……僕、もう部屋に戻ります」
それからどうやって自室に戻ったのかは思い出せない。辰敏は気付いたら自室の前にいて、その右手はシュテンに握られていた。
「シュテン……」
シュテンは辰敏を部屋の中に引きこむと、後ろ手で戸を閉めた。その途端に辰敏は全身から力が抜けてしまって、床にへたりこんだ。
「もう嫌だよ……」
右腕を押さえながら、体を震わせる。シュテンはそんな辰敏の隣に膝をつくと、両腕で包み込むように辰敏を抱きしめた。
熱い体温が伝わってくる。とくとくと鼓動の音が規則正しく聞こえてくる。辰敏ははじめ、小さくしゃくり上げながら涙をこぼしていたが、シュテンの体温を感じるうちに瞼が重くなり、いつの間にか眠りに落ちていた。
微睡みの中、控えめなノック音を耳が捉える。身じろぎすると、柔らかなシーツの感触が頬に触れた。誰かがベッドまで運んでくれたのだろうか。そう思いながら辰敏がぼんやりと目を開くと、部屋の入り口でシュテンが三雄を迎え入れているのが見えた。
「やあ、シュテンさん。辰敏君は……もう寝てしまったかな?」
こんな時間だからな、と三雄が手首を見る。かちゃりと金属同士が触れ合う音がする。腕時計を確認する音だ。
「でも丁度いい。シュテンさん、話があるんだ」
「話」
「立ち話もなんだ。中に入ってもいいかい?」
にこやかにそう言う三雄に対して、シュテンは首を横に振った。
「そ、そうか。じゃあここで話させてもらうよ」
シュテンはこくりと頷いた。三雄はごほんと一度咳ばらいをして、話し始めた。
「さっきの話を聞いていて大体分かったと思うんだが、辰敏君は狗神持ちでね。君には信じられないかもしれないが、たまに正気を失っては暴れまわっているんだよ。これは犬村家には度々現れる症状でね、僕たちは「狗神様」と呼んでいるんだ。
犬村家は最近四国から東京に越してきた家でね。まあぶっちゃけて言えば国政進出のためなんだが、それとは他にもう一つ東京に出てきた理由があるんだ。
それが、「狗神様」を断ち切ること。
「狗神様」は代々、犬村家の分家に現れていてね。本家の人間には現れないものなんだ。より正確に言えば「狗神様」が現れた一家が分家とされてきたというのが正確なところなんだけど。
とにかく僕たち犬村の本家筋は四国の片田舎に分家を置き去りにして縁を切ることで、「狗神様」の因縁を断ち切ったんだ。そのはずだった。だけどよりにもよって犬村本家の長男の息子、辰敏君が「狗神様」になってしまった。……可哀想な子だよ、辰敏君は。両親が亡くなって、本家の遺産争いに巻き込まれた上に、自分が「狗神様」になってしまったんだから。
だけどこれ以上辰敏君をこの家に置いておくこともできない。さっき言った通り僕たち犬村家は国政に進出するために東京に出てきたわけだから、身内からそんなものを出したと知れたら犬村の名に傷がつく。だから辰敏君は今日来ていた月野さんが所属している、「そういうもの」専門の機関に預けようと思っているんだ。
それでその……君も辰敏君には関わらない方がいいと思うんだ。見たところいいところのお嬢さんだろう? これ以上辰敏君と一緒にいれば君の家の名にも傷がつくだろうし、もしかしたら辰敏君がきみに怪我をさせるかもしれない。馬車なりタクシーなり呼んであげるから、もう帰ってもらえないかな。その方が君のためなんだ」
辰敏は寝たふりをしながらその全てを聞いていた。家の事情はなんとなく知っていた。だけどまさか捨てられるだなんて。辰敏はシーツをぎゅっと握りしめた。
シュテンは三雄の顔をじっと見上げていた。三雄もシュテンの顔を見下ろして、返答を待っていた。
ややあって、シュテンは首を横に振った。三雄はため息を吐いた。
「……そうだよね。君のような女の子にこんな話をしても分からなかったよね。すまなかった。今の話は忘れてくれ」
じゃあおやすみ、と言い残して三雄は去っていった。その様子に辰敏はほっとして、起き上がることもしないまま再び微睡みの淵へと落ちていった。
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