第三話「狗神ニ腕ヲ食ワルルノ事」/其の二
狗神。人に取り憑き禍福をなす、憑きものの一種。
その作り方は様々であるが、その多くは犬を殺すことによって作り出されていることはよく知られている。殺された犬の怨念を使役しているのが狗神なのだ。
狗神憑きには大きく分けて三つの特徴が現れる。
犬のような行動を取り始めること。
体のどこかに狗神が憑いているしるしが現れること。これは犬の噛み跡であったり小豆大の痣であったりすることが多い。
最後に、犬のような行動を取っている間の記憶を失ってしまうこと。
狗神憑きになった者は、頻繁に犬のような行動をし始め、日常生活も危うくなっていく。
だが、狗神は災いをもたらすだけの存在ではない。狗神憑きではなく、狗神を「持っている」家は、逆に裕福になると言われているのだ。
「狗神を持っている、ですか?」
「ああ、狗神持ちと狗神憑きは正確には違うものなんだよ」
裏島は右手で犬の形を作ってみせた。
「狗神持ちは言うなれば狗神使いのことだ。代々受け継いできた狗神を使役する」
次いで左手で人の形を作り、その上に右手の犬を乗せた。
「対する狗神憑きは、狗神持ちに狗神を憑かされた奴のことだ。有体に言ってしまえば、被害者だな」
ぱっと両手を開いて、裏島は真剣な顔を作った。
「……もっとも狗神持ちも、代々受け継がれる狗神からは逃れられないわけだから、ある意味被害者みたいなもんだけどな」
辰敏少年は暗い顔をして呟く。
「じゃあ僕は狗神持ちですね。……狗神を使うことはできないけど」
膝の上で握られた辰敏の拳がさらにぎゅっと握りしめられる。裏島はハァー、と本日二度目のため息を吐いた。
「いいさ、事情を話してみな、坊主。それ次第じゃ協力してやらんこともない」
辰敏は俯いたままこくりと頷いた。
「三か月前、僕の父さんと母さんが死にました。事故でした。それで僕は父さんの実家に引き取られることになって……、最初は実家の人たちも優しくしてくれたんです。ううん、今でもすごく良くしてもらってるんですけど!
……最初は僕が来てからすごく「かねまわり」が良くなったって喜ばれてたんです。直子叔母さんにだけはすごく嫌われてたけど、他の人たちがいつも庇ってくれてたんです。
でも僕が引き取られてから一か月経った頃、僕の右腕に犬の噛み跡みたいなものができたんです。それを叔父さんたちに見せたら、すごく怖い顔をされて、外に出るな、もう学校にも行ってはいけないって言われて。叔父さんたちが言うには、僕は代々受け継がれている「よくないもの」を持って生まれてきてしまったんだって……。
叔父さんたちは僕のことを「狗神様」って呼びました。最初は意味が分からなかったんです。でも何日か過ぎるうちに、僕は時々、何をしていたのか覚えていない時間があることに気付いたんです。
はじめは五分とか、十分とかの短い時間だったんです。でもそれがどんどん長くなって、その間に僕が何をしていたか、誰に聞いても答えてくれなくて……。でもある時、急に右腕が痛くなって、次に目を覚ましてみたら、僕は床にひっくり返った料理を四つん這いで食べていたんです。周りを見てみると、粉々になった食器とか、破れたカーテンとかがあって、その中に怪我をしたお手伝いさんが倒れていて、お手伝いさんは僕を見て「狗神様、どうかおしずまりください」って震えていて……。そこで僕はようやく、自分が知らない間にひどいことをしてしまっているって気付いたんです。
それから僕が覚えていない時間はどんどん長くなって……、今日も知らないうちに家を飛び出して走り回っていたみたいで……」
辰敏の目から涙がこぼれ落ちていく。ひっく、ひっくと何度もしゃくり上げながら、辰敏は言葉を絞り出した。
「もう誰も怪我させたくない……狗神様になんてなりたくない……」
「あーもう、これで拭け」
見かねた裏島がハンカチを差し出すも、辰敏はただぼろぼろと涙を流すばかりだった。裏島はハンカチを下ろし、前かがみに座りながら辰敏が泣き止むのを辛抱強く待った。
やがてしゃくり上げる声も小さくなり、目元の涙を服で拭い始めた頃、裏島は口を開いた。
「坊主」
「……はい」
「代々受け継がれている、そう言われたんだな?」
辰敏は頷いた。浦島は天井を見上げ、ハァーと本日三回目のため息を吐いた。
「荒ぶる狗神を受け継ぐ一族、ね……」
面倒だな、と喉をさらしながら小さく呟く裏島に、辰敏はびくりと肩を震わせた。
「狗神を落とす方法がないわけじゃない。狗神憑きに憑いた狗神は飼い主――狗神持ちのことだな、そいつに呼ばれれば帰っていく。だが狗神持ちはな……、そうそう捨てられるものでもないからな……」
裏島は少しの間、斜め下を見ながら口元に手を当てて考え込んでいたが、ふと何かに気付いたように視線だけを辰敏に向けた。
「なあ、お前本当に狗神を……」
「え?」
「いや、何でもない」
首を傾げる辰敏をよそに、裏島は腕を組んでうーんと唸った。
「だとしてもここまで深く浸食されてると、落とすのも難しいだろうな……」
「……そうですか」
目に見えて落胆する辰敏の頭に、裏島はぽんと手を置いた。
「坊主、今日のところはもう帰るといい。お前の家族も心配してるだろう」
「……え、」
「待ってろ、今、靴持ってきてやるから」
言うが速いか裏島は部屋の奥に歩いていき、棚の中をごそごそと引っ掻き回し始めた。
「あの」
「お、あったあった」
戻ってきた裏島に、ほら、と足元に靴を置かれ、辰敏は沈黙する。裏島はすぐに合点がいったという顔をした。
「ああ、履きづらいよな。今履かせてやるからそのまま座ってろよ」
「そ、そうじゃなくて……」
「ん?」
靴を履かせようとしゃがみこんだ姿勢で、裏島は辰敏を見上げる。
帰りたくない。そんなワガママな言葉が出そうになって、辰敏は口をつぐんだ。
帰らなきゃいけない。狗神の僕がここにいたら、この人たちにも迷惑がかかるんだ。
その時、静観していた青年が声を上げた。
「送ってく」
「え」
「は?」
間抜けな声で裏島が聞き返す。青年は微笑を浮かべたまま二人を見た。
「送ってくって……お前がか?」
「うん」
「どういう風の吹き回しだよ、お前そういうガラじゃないだろ」
「悪い?」
「いや、悪かないけどよ……」
辰敏に靴を履かせてやりながら裏島はぼやく。青年はその姿を再び揺らめかせると、瞬く間に少女へと姿を変えた。
振り向いた裏島がそれを咎める声を上げる。
「あっ、お前また……」
「こっちの方がいい」
「……まあいつもの姿より警戒はされないか」
ほら、終わったぞ、と声をかけられ辰敏が足元を見ると、少し大きめの革靴が包帯の巻かれた足にはまっていた。
少女はつかつかと辰敏に歩み寄ると、その右手を掴み、無理矢理ソファから立ち上がらせた。
その手は予想以上に熱く、この人に手を握られているということを強く意識してしまって、辰敏は顔を赤らめた。
「ええと、いちすけさん」
「シュテン」
少女はすぱりと言う。辰敏はおずおずと少女を見上げた。
「シュテンって呼んでいいよ」
「シ、シュテンさん……」
「「さん」は要らない」
「は、はいっ」
ついさっき食べられそうになったことも忘れて、辰敏はシュテンの一挙一動にどぎまぎとしてしまっていた。
シュテンは少し屈んで、そんな辰敏に視線を合わせた。
「たつとし」
名前を囁かれ、心臓が跳ね上がる。バクバクと鼓動が速くなり、口の中がからからに乾いていく。シュテンはぞっとするほど美しく微笑んだ。
「よろしくね」
辰敏は答えることもできず、顔を真っ赤にしてぱくぱくと口を開け閉めした。
「おーおー青春だねぇ」
にやにや笑いながら裏島は二人を覗きこんできた。
「そんなに気に入ったのかよ。おじさん嫉妬しちゃうぞ」
「ぬかせ」
見た目に似合わぬドスの効いた声が少女の口から出て、辰敏はびくっと肩を震わせた。見回してみても自分たち以外に誰もいないことを考えると、どうやら先ほどの声は本当にシュテンのものらしい。
「行く」
シュテンはそのまま辰敏の手をぐいぐい引いて、事務所の入り口へと歩いていった。慌てて裏島も上着を羽織って後を追う。
「待て、俺も……」
そんな裏島を、シュテンは手で制した。
「ウラ」
「なんだ」
「小豆飯」
「あー……分かったよ」
単語だけで何を言いたいのか察したらしく、裏島はそれ以上食い下がらなかった。
「いってきます」
「おー、気を付けてな」
振り返ろうともせずにそう言うシュテンを、裏島はひらひらと手を振って見送った。
カン、カン、と音を立てて階段を下りていくシュテンに引きずられながら、辰敏は尋ねる。
「……シュテン、小豆飯って?」
「狗神の好物」
端的な言葉で答えると、シュテンはそれ以上何も語らずに階段を下りていった。
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