第三話「狗神ニ腕ヲ食ワルルノ事」
第三話「狗神ニ腕ヲ食ワルルノ事」/其の一
大正二十五年、五月十一日、夜。
大衆酒場。
「まったく、お前は、そういうところがあれなんだぞ分かってんのか……」
あれってなんだ、あれって。
アルコールに飲まれて醜態をさらす裏島正雄(うらしままさお)の隣で、犬村辰敏(いぬむらたつとし)は適当に相槌を打ちながらあたりめをかじっていた。
俺はなんでこいつなんかと酒を飲んでいるんだ。
いや、確かに数日前にこいつに酒をおごれと言われて、頷いた覚えはあるが、本気で言っていたのかあれは。
「あんな危ないところだって知ってたら、あおいは連れてかなかったっつーの。馬鹿じゃねーの。……おい聞いてるのか、犬村ァ!」
確かにあれは完全に俺の落ち度だ。相手を甘く見すぎていた。こいつだけならともかく、あおいちゃんを巻き込むべきではなかった。
……だがその話はもう十回目だ。いい加減にしろ酔っ払い。
「いっつも憲兵だからって偉そうにしやがって……。こちとら年上だぞ。敬えっつーの」
あーあーはいはい。その話は七回目だ。
「そもそもなんで憲兵なんかになったんだよ。軽々しく情報漏えいしてんじゃねえよ。馬っ鹿じゃねーの」
はいはいはい。悪うござんしたねえ。
次々と口にされる文句を聞き流しながら、安酒を流し込む。
昔はこんな風じゃなかった気がするんだがなあ。
そんな感傷にひたっていると、裏島は、犬村を上から下まで見回して、すっと表情を消した。
「ていうかお前、その私服ヤバいな。ダサすぎだろ」
うるさい、ほっとけ。
*
大正十年、一月十三日。
午前一時過ぎ。
人通りのない道の真ん中を、四つ足で駆ける一つの影があった。
ざざっ、ざざっと足音が響く。開かれた口からは舌がだらしなく垂れている。目は血走り、ここではないどこかを見据えている。衣服は着用しているが、靴は履いていない。固い地面を何度も蹴っているせいで、手足は血だらけだ。
深夜に出歩く酔客を避けるように、四つ足の獣は街中を走り回る。獣の頭上には丸い月が煌々と輝き、石畳にはっきりとした影を落としている。
路地から走り出た四つ足の獣は、ゴミ箱を足場に、ひさしの上へと飛び乗ると、月を見上げて大きく口を開いた。
蒸気都市東京の空に、甲高い遠吠えがこだまする。
同、十三日。午後二時ごろ。
飲食店と飲食店の間の、狭い路地で少年は正気を取り戻した。路地は少年のような小さな子供がやっと入れるぐらいの狭さで、それのおかげでこの時間まで誰にも見つからずに済んだようだった。
少年は立ち上がり、自分が靴を履いていないことに気がついた。と同時に、手も足も傷だらけで、剥がれかけている爪すらあることにも気がついた。
「痛い……」
口に出してみると途端に痛みが増してきて、少年は膝を抱えて座り込んだ。
またやってしまった。
もう家には帰れない。帰りたくない。
だからといって、他に行く当てがあるわけでもなく、少年は抱えた膝に頭を埋めて震えるしかなかった。
「ねえ」
ころころと鈴を転がすような声が頭上から降ってきたのはその時だった。
見上げるとそこにいたのは一人の少女だった。年の頃は十五、六歳ほど。肩の上で切りそろえられた真っ黒な髪に、色素の薄い瞳。儚げにかすかに微笑んだその表情は、整いすぎて作り物めいてさえ見える。紺色のワンピースが風に揺れる。スカートからは白く細い足が伸びている。
一言で言い表すならば、直視していられないほど美しい人だった。
「ねえ」
美しい人はそう繰り返し、少年に手を伸ばしていた。少女は目を細めてにこりと笑った。
「おいで」
少年は吸い寄せられるように、自然とその手を取っていた。
昼下がりの町を少女に手を引かれて少年は歩いていく。裸足の少年の手を、身なりのいい少女が引いて歩いている姿は、やはり注目を集めるらしく、あちらこちらから奇異の視線が飛んできている。少年は恥ずかしくなって俯いた。
「家出少年と、その姉」
突然、少女に言われた言葉に、少年は顔を上げた。
「そう見えてる」
だから堂々としろ、と言外に言われていることに気付いたが、少年はまた顔を伏せた。少年をちらりと見た少女の横顔が美しすぎて、見ていられなくなったのだ。
少年は最初、交番にでも連れていかれるのだとばかり思っていた。しかし少女は交番には向かおうともせず、大通りを何本も横切り、随分と歩いて、とあるビルヂングの前へと少年を連れてきた。
「ここは……?」
寒空の下、かなりの距離を歩かされ、ぼろぼろになった足を半ば引きずりながら少年は尋ねる。しかし少女は何も答えず、そのビルヂングの三階へと少年を引きずっていった。
誰もいない事務所の中へと連れ込まれ、少年は三人掛けのソファへと座らされた。
「あの、ここは、どこですか」
さすがに不安になって少年が尋ねると、少女は少年のすぐ隣に座った。あまりに近い距離に心臓がばくばくと脈打ち、顔が耳まで真っ赤になっていく。
「あ、あの」
少年は言葉を絞り出した。少女は答えないまま、少年の肩をそっと押してソファへと押し倒し、にんまりと笑った。少年は体が動かせなくなっていることに気がついた。と、同時に背筋にぞくぞくっと寒いものが走るのを感じた。
少女は口を開いた。真っ赤な舌が唇を舐め、目は爛々と輝いている。人間じゃない。そう直感した。
少女は少年の首筋に顔を埋め、獣が獲物にそうするようにくんくんと匂いを嗅いだ。少年は声も出せず、されるがままになるしかなかった。
食べられるんだ。このままこの人に食べられてしまうんだ。
少年は震えながら、固く目を閉じた。
「いちすけー、いちすけー、今帰ったぞー」
やや乱暴な音とともに入口の戸が開かれ、背の高い男が入ってきたのはその時だ。少年は少女の肩越しにその男と目が合った。男は怪訝そうに眉を寄せた。
「何やってんだお前」
男が尋ねると、少女は顔を上げて振り向き、首を傾げた。
「食べていい? じゃねえよ馬鹿、駄目にきまってるだろ馬鹿」
ほら離れてやれ、と男は少女を押しのけた。少女は不満そうに唇を尖らせて、少年の上から退いた。少年は慌てて起き上がり、ソファの隅っこへと逃げ去った。
「どこから拐かしてきたんだ、元いた場所に返してこい」
「…………」
「やだ、じゃない。聞き分けろ馬鹿」
少女は何も喋らなかったが、男には少女の声が聞こえているようだった。少年はまるで別世界の人間を見ているかのような気分になって、ぼんやりとその様子を見守っていた。
「にしても、んな姿になって誘惑してくるとか趣味が悪いなお前」
男は少女に歩み寄り、その頭を軽く小突いた。
「いつもの姿に戻りなさい、調子狂うわ」
その途端、少女の姿が歪んだ。まるで編み物の糸がほどけるように、その姿がばらばらになり、まばたきをする間に、先ほどよりも背の高い青年へと少女は姿を変えたのだ。
「わっ!?」
声を上げて驚くと、美しい青年は少年を見て、にやりと笑った。背の高い男はそんな青年の視線を遮るように立ち、少年の頭に手を置いた。
「悪かったな坊主。お前も早くおうちに帰って……、ん?」
男は何かに気付いたように言葉を切ると、難しい顔をして少年をじろじろと眺めまわした。
「……お前、狗神(いぬがみ)が憑いてるな?」
「分かるんですか!?」
少年は男の腕に飛びついた。
分かってくれる人がいた。もしかしたらこれを治してくれるかもしれない。僕を狗神じゃなくしてくれるかもしれない。
男は少しびっくりした顔をした後、ハァーと長くため息をついて、少年に言った。
「ほら、見せてみろ。どうせ体のどこかに狗神のしるしがついてるんだろ」
「は、はい……!」
言われたとおり右腕をまくって差し出すと、男は顔をしかめた。
「ああー、これはひどいな」
少年の右腕にはまだら模様の痣が全体に浮かび上がっていた。痛々しい痣たちの中央には、大きな犬の噛み跡のようなものが残っている。
「手足と合わせて応急処置してやるからそのままにしてろ」
男はのしのしと奥の部屋へと歩いていくと、救急箱を手に戻ってきた。
「いちすけー、濡れタオルー」
いちすけ、と呼ばれた青年は何も言わずにタオルを数枚濡らして持ってきた。男がそれを受け取ると、青年は微笑みながら男の後ろに立ち、少年を見つめた。少年はすぐに目をそらした。
濡れタオルが手足の傷を拭っていく。冷たい感触が足の裏を撫で、痛みと冷たさで少年はぶるりと体を震わせた。
「しかし惜しいな。これで八犬伝なら主人公格になれただろうに」
「八犬伝?」
「南総里見八犬伝。滝沢馬琴が書いた長編小説だ。体に牡丹の痣を持つ八犬士たちが妖怪退治をしたりお家のために頑張ったりする話だよ」
喋りながらも、男は淡々と応急処置を続けていく。
「面白いからもう少し大きくなったら読んでみな」
ささくれだった大きな手で包帯を巻いていくその手つきは予想以上に優しく、少年は力を抜いてされるがままになっていた。
「よし、終わりだ」
「あ、ありがとうございます」
両手足と右腕に巻かれた包帯をぼんやりと見ながら、少年は礼を言った。男は屈みこみ、そんな少年に視線を合わせた。
「坊主。こいつは俺のお節介なんだが、お前、狗神についてどれぐらい知ってるんだ?」
少年は少し考えると、首を横に振った。
「そうか。じゃあ狗神がどんなものなのかだけでも知って帰るといい」
背の高い男は少年の向かいのソファにどかっと座った。
「俺は、裏島正雄。新聞記者をしてる」
「えっと、犬村辰敏です、十歳です」
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