第二話「凌雲閣ニ雷獣ノ落チタルノ事」/其の六

 翌日の凌雲閣は静寂に包まれていました。空には今にも降り出しそうな黒雲が立ち込め、まだ昼だというのに夕方のような風景になっています。表玄関は完全に封鎖され、中には裏口から入るしかなさそうです。

 私たちは今日も三人連れです。出不精の一助さんがここまで着いてくるだなんて本当に珍しいですね。

 人目を忍んで私たちが隠れている場所にやってきた犬村さんは、手短に私たちに助言をしました。


「いいか、俺たち憲兵隊が道を切り開く。お前らはそれにこっそり着いてこい。憲兵隊が先に雷獣を見つけたら、雷獣は押収されてしまうから気をつけろよ」


「おー」


「はいっ」


「……」


 なんだかワクワクしてきました。隣の先生は全くワクワクしていないようですが。

 犬村さんは助言をし終えると、慌ただしく去っていきました。きっと憲兵隊の持ち場に戻ったのでしょう。

 それから程なくして、凌雲閣の裏口を蹴破る音が聞こえてきました。いよいよ作戦開始です。

 私たち三人は、憲兵隊全員が裏口から突入したことを確認し、こそこそとその後に続きました。

 凌雲閣の内部は噂通り蒸気機関庫になっていました。ここで作られた蒸気がこの付近の生活を支えているのでしょう。

 エレベーターが上に向かって動いていることから見て、憲兵隊の皆さんはエレベーターで上階まで向かったようです。ふむ、同じようにエレベーターを使ってはすぐに見つかってしまいますね。何か代わりになるものが必要です。

 辺りを見回すと、「非常用階段」と書かれた鉄の扉を見つけました。幸い、扉は半開きになっていて、中に入れそうです。


「先生、一助さん! あそこの階段から行きましょう!」


「元気だね、お前……」


「……」


 ふふん、先生たちとは若々しさが違いますからね。

 私の先導で私たち三人は扉をくぐり、階段を上っていきました。骨組みが剥き出しになっている金属の階段にブーツが当たって、カンカンと音を立てます。見つからないようにできれば音は立てたくないのですが、やっぱり多少は仕方ありません。その代わり、できるだけはやく上階に辿りついてしまおうと、私は歩調を早めました。先生たちはその後ろをのろのろと着いてきます。


 息を切らしながら十階までたどり着くと、非常用階段はそこで終わっていました。ここから先は表の道を通るしかなさそうです。

 私は表に続く戸を押し開けました。するとそこには使われなくなって久しい眺望室が広がっていました。元々この凌雲閣は、高いところからの景色を楽しむための場所なのです。十階は吹きさらしになっていて、この階の縁には落下防止用の手すりがぐるりとついています。

 しかし様子がおかしいようです。くんくんと匂いを嗅いでみると、何やら油のような匂いが漂ってきます。これは……機械に差す潤滑油の匂いでしょうか。その上、少し離れた場所からは争うような声が聞こえてきます。


 こうしてはいられません。憲兵さんたちがここで足止めされているのなら、その隙に震太郎さんを助けに行かなければ。

 私は急いで音のする方に駆け出しました。


「馬鹿っ、あおい!」


「え?」


 遅れて戸をくぐってきた先生に呼び止められて、立ち止まります。しかし先生の制止は少し遅すぎました。

 立ち止まった私の前に広がっていたのは、先に突入した憲兵さんたちが一様に床に倒れ伏している光景でした。気絶しているだけなのか死んでしまっているのかは傍目では分かりませんでしたが、異様な状況であることだけは確かです。

 まさに死屍累々。その言葉がふさわしいありさまでした。

 私はぶるりと全身が震えるのを感じました。続いて足がすくんで動かないことに気付きました。


「よけろ、あおい!」


 先生の声がやけに遠く聞こえます。私はその時になって、人型の何かが目の前に迫っていることに気付きました。何かは私に向かって拳を振り上げました。私は、ああ、今から殴られるんだ、と他人事のように感じ、それでも反射的に目を閉じて、腕で頭を庇おうとしました。

 ガキンッ、と硬い音がしました。

 おそるおそる目を開けると、目の前には大きな背中が広がっていました。黄土色の軍服の後姿。……犬村さんです。


「あおいちゃん、離れてて!」


 その言葉を聞いて硬直が解けた私は慌てて、先生のいる方へとつんのめりながら走っていきました。

 走りこんだ勢いでそのまま倒れこみそうになった私を、先生が受け止めました。息を切らしながらお礼を言おうとしましたが、先生は硬い表情で犬村さんが対峙しているそれを睨みつけていました。


「あれは……スチームロイドか?」


 先生の言葉に、私は犬村さんたちの方へと目を向けます。そこでは、軍刀を構えた犬村さんと、金属製の体を持つ人形が向かい合っていました。人形の関節には筋が入り、まるで人間のように動かせるようになっているようです。

 信じられません。人間の大きさのスチームロイドが完成していただなんて!


「くっ……」


 犬村さんはスチームロイドに対して攻めあぐねているようでした。何度軍刀で切り込んでも、スチームロイドの着ている金属の鎧に阻まれてしまうのです。犬村さんは徐々に後退し、私たちのいる方へと下がってきてしまいました。このままではまずいです。

 視線はスチームロイドからそらさないまま、私は先生に声をかけようとしました。しかしその時、犬村さんに殴り掛かろうとしていたスチームロイドの横っ面を、誰かが蹴り飛ばしたのです。


「か、一助さん!?」


 いつの間にか飛び出していた一助さんが、右足を振りぬいた姿でそこに立っていました。

 私は当然驚きましたし、突然目の前の敵がいなくなった犬村さんも驚いてしばし動きを止めているようでした。しかし犬村さんはすぐに正気を取り戻すと、蹴り飛ばされて地面に転がるスチームロイドに駆け寄り、その首に刃を突き立てました。

 スチームロイドはしばらくじたばたと手足を動かしていましたが、犬村さんが軍刀に体重をかけて傷口を抉ると、やがて大人しくなりました。


「ふぅ……」


 犬村さんはスチームロイドから刀を抜きさり、鞘へと納めました。


「どうなってる憲兵、こんなの聞いてねえぞ」


「すまない、こちらの情報収集不足だ。こちらも俺以外はやられてしまった」


 犬村さんは苦々しい顔をしています。先生はまだ立ち上がれずにいた私に手を貸してくれました。一助さんは乱れた書生服の裾をぱんぱんと直しています。


「敵は奴だけか?」


「いや、まだいたはずだ。お前たちは早く脱出を……」


 その時です。派手な音を立てて、下の階からスチームロイドが私たちの背後になだれこんできました。

 数は三体。犬村さんと一助さんが協力してようやく一体倒せた相手です。多勢に無勢なのは明白でした。


「上に逃げるぞ!」


 私たちは慌てて上階への階段に向かいます。しかし先生たちは三人とも足が速く、私はあっという間にスチームロイドの近くに取り残されそうになりました。

 すると慌てて戻ってきた先生が私の腕を掴み、引きずるようにして階段へと連れてきてくれました。


 すんでのところで階段の扉を閉じて、鍵をかけます。扉の向こうからはスチームロイドが扉を叩く音がしました。

 私たちは振り返る間も惜しんで、上階へと駆け上がっていきます。ここでも私は三人に後れを取ってしまい、何度もつんのめりそうになっていました。


 十一階に辿りつきました。十一階は十階と同様に眺望室になっていて、ガラス張りの壁から浅草の町を見下ろすことができます。この階の中央には柱にへばりつくように巨大な機械がごうごうと音を立てていました。おそらく蒸気機関です。

 階段の下から破壊音が聞こえてきました。ドアが破られたのでしょう。


「くっ、早いな」


「あおい! お前は隠れてろ!」


 その直後、スチームロイドたちが階段から飛び出してきました。先生たちはそれを一人一体ずつ相手取ります。

 私は言われたとおり蒸気機関の陰に息をひそめて隠れていました。


 掴み掛ろうとしてきたスチームロイドと先生が両手で組み合っています。犬村さんは軍刀を相手に叩きつけていますし、一助さんはいつもより心なしか険しい顔でスチームロイドと向かい合っています。

 どう考えても私は足手まといでしかありません。何か、何か役に立つことができたらいいのに。


 ざわり。

 私の影がさざめきます。視界の端に蛇がちらつきます。

 駄目です。出てきちゃ駄目。

 私は必死にそれから目をそらしました。


 スチームロイドのうちの一体が犬村さんの刀を避け、犬村さんの右肩めがけて、振りかぶった拳を叩きつけました。犬村さんの右腕はだらりと垂れさがり、持っていた刀は地面に落ちてしまいました。


「犬村さんっ!」


 目の前で犬村さんが蹴り飛ばされて、私は声を上げます。するとスチームロイドは私を見つけたようで、私の方に向き直りました。私はしゃがみこんだまま、後ずさりします。すぐに壁に背中がぶつかってしまいました。


「こ、来ないでください、来ないで」


「あおいちゃん!」


 スチームロイドの腕が私に伸ばされたその時、その背中めがけて犬村さんが刃を突き立てました。スチームロイドは暴れて、刃を振り落とします。床に落ちた軍刀を、犬村さんは素早く左手で掴みあげました。

 犬村さんの右腕は相変わらず力なく垂れ下がっています。犬村さんは苛立たしげに声を上げました。


「ええい、ぶらぶらと! 邪魔だ!」


 軍刀を持ったまま、犬村さんは左手を懐に差し入れ、何かの留め具をパチンと外しました。

 その途端、犬村さんの右腕は外れ、地面へと落ちていきました。――義手です。

 スチームロイドは再び犬村さんを目標に定めたらしく、片手で軍刀を構える犬村さんへと突進していきました。それを犬村さんは片手で迎え撃ちます。私は邪魔にならないよう、もう一度機械の陰に隠れるほかありませんでした。


 と、その時、離れて戦っていた一助さんが投げ飛ばされ、勢いよく機械へとぶつかりました。


「シュテン!」


 犬村さんが叫びます。犬村さんの対峙しているスチームロイドがほんの一秒に満たない間だけ、支えを失ったようにふらつきました。

 気のせいでしょうか。今、一瞬、スチームロイドの動きが止まったような……。

 それに先生も気づいたようで、先生は叫びました。


「あおい、その機械だ! そいつを壊せ!」


「は、はいっ!」


 慌てて辺りを見回すと、足元に工の形をした石ブロックが積み上げてありました。きっと工事の時に置き去りにされたのでしょう。

 私は石ブロックを両手で持ち上げると、ごうごうと音を立てる機械に思いきり叩きつけました。

 バキッと音を立てて、表面が凹みます。つけることができた傷はそれだけでしたが、幸いにも中身にも影響が出たようで、機械の駆動音は徐々に弱まり、やがて完全に沈黙しました。

 振り返ると、三人が相手取っていたスチームロイドも床に崩れ落ちています。私は腰が抜けてしまって、半分泣きそうになりながら床にへたり込みました。


「大丈夫か、あおい。よくやったな」


「せ、先生ぃ……」


 駆け寄ってきた先生に縋り付いて、私はみっともなく声を上げて泣いてしまいました。本当に怖かったんですからね。みんなが死んでしまうかもって思ったんですからね。これくらいは許してほしいです。


 泣きに泣いてようやく涙も収まってきたころ、犬村さんがたくさんの軍人さんたちをつれて戻ってきました。姿が見えないと思ったら、応援を呼んできてくれていたんですね。


 同時に犬村さんは、雷獣の震太郎さんが入った檻を持ってきてくれました。震太郎さんはぷるぷると震えて怯えているようです。


「彼らには、きみたちは捜査協力者でこの獣の飼い主だと伝えておいた。雷獣くんは持って帰るなり逃がすなり好きにしてくれ。……迷惑をかけてすまなかった」


 そう言って犬村さんは深く頭を下げました。


「雷獣くんもすまなかったな、人間の都合に付き合わせて」


「い、いえいえ、自分は絶対助けが来るって分かってましたから」


 震太郎さんは立ち上がることはしないまま、小声で答えました。きっと周りの軍人さんたちに自分が喋れることを知られたくないのでしょう。


「迷惑ついでに最後に一つだけ聞きたいんだが、奴らはきみに何をするつもりだったんだ?」


「それがですね憲兵の旦那、あの人たちは自分に「お前は雷を呼ぶ力があるのか」って刃物で脅してきたんです。自分はそれに「そんな力はない。自分たちにできるのは雷と一緒に落ちることだけだ」って答えたんですが」


「雷を呼ぶ……? 奴らは雷を呼びたいのか……?」


 犬村さんは少し考える素振りを見せたあと、震太郎さんに「ありがとう」と言って他の軍人さんたちのところへと行ってしまいました。お仕事ご苦労様です。


 さて、私たちはどうしましょうか。私は目に残った涙をごしごしと拭った後、震太郎さんを檻の中から出してあげました。


「震太郎さん、これからどうしたいですか?」


「雲の上に帰りたいです。自分らは雲の上に住んでいるもんですから」


 なるほど、それならここは絶好の場所ですね。何しろ雲にこんなに近い場所はそうそうありません。

 震太郎さんにそう伝えると、震太郎さんは気まずそうに俯いてしまいました。


「そ、それが、自分には帰り方が分からなくて……」


 なんと。雷獣は落ちるものとは聞いていましたが、まさか帰り方を知らない雷獣がいるとは。

 私たちがうーんと考え込んでいると、それまで隣で様子を窺っていた先生が声をかけてきました。


「あおい」


「はい」


「追ってやれ」


「はい?」


 私は先生を見上げて首を傾げました。震太郎さんも同じように首を傾げています。


「だから、追いかけてやれ。そうすりゃ雷獣は本分を果たせて力が増す」


「……そういうものなんですか?」


「そういうものなんだよ。ほら、やってやれ」


 本気でやるんだぞ、と付け加えて先生は私から距離を取りました。


「ええとじゃあ震太郎さん。本気で追いかけるので、本気で逃げてくださいね」


「は、はいっ! 全力で逃げます!」


 一助さんが私たちの前に腕を出してきました。号令をかけてくれるのでしょう。


「用意、どん」


 いまいちやる気の出ない号令でしたが、とにかく私たちは走り始めました。

 震太郎さんは決して長いとは言えないあの手足でどうやってと思うほどに、敏捷な動きで十一階の床を駆け抜けていきました。私も負けじと手足を動かしますが、やはり人間の脚力には限界があります。ついでに言うと本気になりすぎるとスカートがめくれそうでこわいです。


 ですが本気でやれ、との指示ですからね。多少の羞恥心は捨てましょう。私はちょっと前傾姿勢になって、思いきり大股で駆け始めました。まだ残っていた軍人さんが驚いたようにこちらを振り返るのが見えます。びっくりさせてごめんなさい。あと、この醜態は忘れてくださると嬉しいです。


 円形になっているこの階を二周ほどした後、震太郎さんは十階へと繋がる階段へと駆け込みました。私も慌ててその後を追います。落っこちるようにして階段を下っていく震太郎さんを、数段飛ばしで私は追いかけていきます。

 吹きさらしの十階に辿りつきました。階段で少し差を縮めたので、震太郎さんの背中はすぐ目の前にあります。私は走りながら両手を伸ばして震太郎さんを捕まえようとしました。


「ひえええ」


 震太郎さんは情けない声を上げてさらに速度を上げました。私の手は空を切ります。

 そして震太郎さんはその勢いのまま、手すりに飛び乗り、空へと身を躍らせました。


「ああっ」


 落ちてしまう!

 私は目を覆いかけましたが、急に吹いた冷たい風に驚いて目を開きました。

 見ると、黒雲が一塊、私たちの前に降りてきていました。震太郎さんはその上で嬉しそうに立ち上がると、大きく手を振りました。


「ありがとうございます、ありがとうございます旦那方ぁ!」


 雲が風に吹かれて徐々に遠ざかっていきます。このまま空に帰るのでしょう。黒雲が遠く見えなくなってしまうまで、震太郎さんは大きく手を振っていました。



「このご恩は必ず返しますよぉ!」

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