第一話「妖猫ノ足音ヲ追フノ事」/其の三
猫の足音。
それは蛇の足のように存在しないものの象徴とされているものだ。
猫に足音がないという話の起源は、北欧神話の狼、フェンリルを捕縛するための紐、グレイプニルを作った際に、材料として使われてしまったところからだと言われている。
とはいえそもそも猫が歩くときにはどこの国でも足音がしないのだから、一概にそれだけが起源だとは言えないのだが。
「へぇー。先生は物知りですね」
「だてに歳は食ってないからな」
猫の足音の話をしながら、私たちはタクシーに揺られていました。取材のため、赤坂にある猫塚家の邸宅に行くことになったのです。
「しかし化け猫っていうならむしろ足音は立てないと思うんだがな」
「あ、それもそうですね」
車内にはボイラーの発する音が響いています。運転手さんは私たちの話には全く入ってこず、まっすぐ前を向いて運転をしていました。身長が一九〇センチもある先生は、車の天井に頭をぶつけてしまっていて窮屈そうです。
「化け猫ってあれですよね、二本足で立ってほっかむりをして踊るっていう」
「そのイメージが強いな。俗に言う猫又ってやつだ」
「たしか長く生きすぎた猫が猫又になるんでしたよね」
「それから死体の上をまたいだ猫もだな」
「死体をですか」
「ああ、人間の死体だ。妙な話だろ?」
私は少しおかしくなって、小さく声を上げて笑いました。
「ふふ、そんな簡単に猫又になれるのなら今頃私たちの周りには化け猫だらけになってますよ」
「分からないぞ? 気付いていないだけでお前の周りも猫又であふれてるのかもしれないだろ」
「そうですかね、ふふふ」
先生は、ふと気づいたように人差し指を立てました。
「ああ、化け猫といえば歌川芳藤の寄せ絵も有名だな」
「歌川芳藤?」
知らない名前が出てきました。私は首を傾げます。
「歌川国芳の弟子だよ。こっちは名前ぐらい聞いたことあるだろ」
ああ、そっちなら分かります。猫が大好きな浮世絵師さんです。
「寄せ絵ってのはほら、たくさんの猫が集まって一匹の大化け猫を形作るってやつだ。だまし絵の一種だな」
先生は両手を組み合わせて猫の形を作ってみせました。
ふむ、どこかで見たことがある気がします。大きな鈴を猫の目に見立てて、猫たちが寄り集まっているやつですね。
「依里子さんは、化け猫が死者を生き返らせたって言ってましたよね」
「よくある話だな。化け猫が死者を踊らせるだとか死者になりかわるだとか。葬式の時に胸の上に置く守り刀も猫除けらしいからな」
先生は狭い車内で、腕を前に伸ばしてうーんと伸びをしてみせました。自然と私の席が圧迫されて、私は少しだけ眉根を寄せます。
「とかく猫には妖怪譚が多いってことだ」
「猫は化けるものですからね」
狐や狸と同じように。浅学な私でも知っているぐらいには、猫は化けるものです。
「それにしても猫の足音に、寄せ絵に、死者を踊らせる化け猫。……案外今回の事件も、猫が妖術で自分を大きく見せているだけかもしれませんね!」
「死者の威を借る猫ってか? ははは、そうならいいな」
赤坂の邸宅に着くと、門の前には一人の男性が立っていました。
「げ」
先生がいかにも嫌そうな声を上げます。私はといえば、思わぬ人との再会に自然と笑顔になっていました。
「どーも、憲兵さん。お元気そうで何よりデス」
門の前に立っていたのは帝国陸軍の憲兵さんです。お名前は確か、犬村辰敏(いぬむらたつとし)さん。
犬村さんはいつも通り黄土色の軍服に身を包んで、腰には長い軍刀を差しています。
「そちらも変わりないようだな、インチキ記者の裏島先生」
「インチキとはひどいな。俺は事実のみを書いているつもりだぜ?」
先生は大げさに肩をすくめてみせました。犬村さんの眉間のしわが深くなります。
「で、ここに何の用だ」
地を這うような声でそう尋ねる犬村さんに、先生は嫌そうな顔をしながらしぶしぶ答えました。
「猫塚依里子さんに化け猫の取材を依頼されたんだよ。別に怪しい目的で来たわけじゃないっつーの。そっちこそ猫塚の家に何の用だよ」
「……新型スチームロイドの調査だ。それ以上は言えない」
犬村さんは苦々しい表情でしたが、素直に答えました。
ちょっと意外です。そういうものは軍事機密というやつで守られているものと思っていましたから。
「良いのか、言っちまって? 俺は新聞記者だぞ?」
「お前はそういう記事は書かないだろう。それぐらい把握している」
「……ある意味、信頼されてるってことにしておくよ」
「なんだその認識は。気持ち悪い」
案の定、先生にも咎められていましたが、犬村さんは反省する素振りも見せません。何か考えでもあるのでしょうか。
ところで、スチームロイドについてお話ししておかなければなりませんね。
スチームロイドとは、蒸気機関で動く人形のことを指します。まだまだ大きさは三、四〇センチにも満たない程度ですが、将来的には人間と変わらないほどの大きさのスチームロイドが作ることを目標としているらしいです。
「ねえ先生」
「なんだ」
「一助さんってスチームロイドじゃないですよね」
「どうしてそういう発想になったんだ」
「だって人間離れして美しいじゃないですか」
「そりゃまあそうだけどな、あいつだって一応生きてるよ」
「あおいちゃん」
背を屈める先生とひそひそ話していた私は、犬村さんを見上げます。
犬村さんは巨漢の先生よりは小さいですが、私から見れば高身長です。ですが犬村さんは少しだけ屈んで私に視線を合わせようとしてくれています。
「あおいちゃんもこんな男に付き合わず、早めに帰りなさい」
犬村さんは私のようなチンチクリンな学生に対してもこうやって気遣ってくださる、紳士的でとても魅力的な方です。
だから私は犬村さんのことが結構好きです。もちろん、お兄さんのように思っているという意味ですが。
「あら、憲兵さんに裏島さん。いらしていたんですね」
木でできた重そうな扉を押し開けて、依里子さんが顔を出しました。
「どうぞ、中にお入りください」
依里子さんに招かれて入った先には、それはもう立派なお屋敷がありました。重厚な瓦屋根を頂いた平屋建ての木造建築で、いかにも歴史ある建物という佇まいです。庭には松を中心とした整えられた木々が上品に立ち、玄関には格子戸がはまっています。
「お邪魔します……」
屋敷の雰囲気に気圧されて、自然と小声になってしまいます。玄関へ入ると、古い木造建築特有の木の香りがむっと押し寄せてきました。よほど良い建材を使っているのでしょう。梁も床も滑らかで、吸い付くような感触ですらあります。
「どうぞ、こちらです」
依里子さん自らの案内で奥に進むと、中庭が見えてきました。中庭の四方には廊下があり、どうやらそこから景色を楽しむようなのです。
私は、へえ、と声を上げながら依里子さんたちに続いて廊下に出ました。
「きゃっ」
その先に広がっていた光景に、私は思わず悲鳴を上げ、先生の後ろに隠れました。
中庭を囲むように四角を描く廊下の端には、びっしりと人形が立っていたのです。
「ふふ、びっくりされたでしょう? 人形集めはお祖父様の趣味でしたの」
「うう……」
一つ一つは可愛らしい人形でもこうも大量にあると不気味です。
私は人形からできるだけ距離を置いてそろそろと廊下を歩いていきました。当然といえば当然ですが、先生と犬村さんは全く気にせずのしのしと廊下を歩いていきます。
「それにしたってこれはちょっと異常ですって」
こんなに人形があってはどれか一つぐらい動いてしまうような気さえしてきます。
欄干にしがみつく私に、依里子さんは苦々しく笑いました。
「私たちもそうは思うのですが、なにぶんお祖父様の趣味でしたから……。趣味が高じてご自分でも人形を作ってしまわれるほどの耽溺ぶりで」
「はぇー。自分でも人形をですか」
私は感心して何度も頷きます。
と、その時。
――ウラサマ。
声が聞こえたような気がして私は振り向きました。そこには誰の姿もありません。しかし何かがいる気がして、私はぞくぞくと背筋が震えるのを感じました。
まさか、まさか人形が喋った?
「せ、せせ、先生」
慌てて先生にしがみつきます。しかし先生は、私の方を見ようともせず足元の床と天井を交互に見比べていました。
「裏島さん、どうかされましたか?」
先生は床のとある部分をぎしぎしと踏みながら、渋い顔をして依里子さんに尋ねました。
「……もしかしてここ、最近雨漏りを直しました?」
「? はい。五日前に直しましたが……、それが何か?」
先生は答えずに、天井を睨みつけていました。何やら剣呑な雰囲気です。
「何だと言うんだ、裏島」
しびれを切らした犬村さんが腕を組んで尋ねます。すると先生はまとっていた空気をふっと緩め、私たちに向き直りました。
「いや、何でもなかったみたいだ」
「……何なんだまったく」
犬村さんがふんと鼻を鳴らします。私は先生の陰に隠れながら、先生と犬村さんを見比べました。
「やあ、義姉さん。お客さんかい?」
その時、廊下の奥から歩いてきたのは、爽やかな笑顔が似合う男性でした。年齢は二十代後半ぐらいでしょうか。白シャツに黒ズボンという洋装ですが、首のあたりの釦(ボタン)を開けて着崩しています。……正直に言うと軟派な方に見えます。
「憲兵さんと、……そちらの方は件の新聞記者さんかな?」
「どうも、記者の裏島です」
「記者見習いの薮内あおいです」
「猫塚智矢(ねこづかともや)。現当主様の弟で、依里子さんの義弟だ。よろしく」
智矢さんはにこにこと笑いながら、そうやって自己紹介をしました。その時、一瞬だけ嫌な視線が私に向けられた気がして、私はもう一度先生を盾にして隠れました。
「おや。はは、嫌われてしまったなあ」
「あーすみません。……どうしたんだお前」
「……なんか嫌です、あの人」
小声で聞いてくる先生に、同じく小声で答えます。その間も智矢さんはにこにこと笑ったままです。さっきの視線は私の気のせいだったのでしょうか。
「ま、ゆっくりしていきなよ、俺が言える身分でもないけどさ」
「はあ……」
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