第一話「妖猫ノ足音ヲ追フノ事」/其の二
「事の始まりは、お祖父様が亡くなったことからでした」
依里子さんは静かに話し始めました。私はソファから身を乗り出してごくりと唾を飲み込みます。
「お祖父様が亡くなったのは五日前のことです。八十歳の大往生でした。もうお歳でしたのにしゃんとした方で、亡くなるつい数日前まで陸軍の方の要請で何かの研究をしていたぐらいはっきりとされた方でした。それがこんなにあっさりと亡くなってしまわれるだなんて、今でも信じられずにいます。
お祖父様は五日前の未明に息を引き取りました。いきなりのことでお医者様も呼べないままでしたので、慌ててその日のうちに死に装束に着替えていただき、屋敷の一部屋にお身体を安置いたしました。思えばその時、お祖父様の胸の上に守り刀を置いていなかったのが今回の事件の引き金になったのかもしれません。
五日前の夜、私はお祖父様が安置されている部屋のすぐそばの部屋で通夜の準備をしておりました。とはいっても準備はほとんどお手伝いさんにお任せしておりましたので夜中すぎには私の準備は終わり、もう寝るばかりの状態でございました。
明かりを消して、布団にもぐろうとしたその時、ごろごろがしゃんと激しい音が聞こえてきました。近くに雷が落ちたのでございましょう。その直後、私の部屋の障子に大きな人影が映ったのでございます。最初、私はお手伝いさんのうちの誰かがそこに立っているのだと思いました。私は『誰かそこにいるのですか』と尋ねました。しかし返事はありません。人影はゆっくりと障子の前を歩いていきました。私は奇妙に思いましたがそれだけならば、まさかそれがお祖父様だとは思いません。ところが人影が行った方向からぶつぶつ、ぶつぶつ、とお祖父様の声が聞こえてきたのです。
私はすっかり肝をつぶしてしまって、そのまま布団に包まって、震えて朝を待つ他ありませんでした。その翌日からです。奇妙な出来事が立て続けに起こるようになったのは」
依里子さんはそこで一度、言葉を切りました。私たちは奇妙な話にすっかりのまれてしまって、依里子さんを見つめたまま、話の続きを待ちました。
窓の外から蒸気自動車のクラクションが聞こえてきます。天井ではシーリングファンがゆっくりと回っています。
と、その時、書生姿の青年がお茶を持って事務所の奥から出てきました。先生は軽く手を上げてねぎらいの言葉をかけます。
「ご苦労さん、いちすけ」
「いちすけじゃなくて、一助(かずすけ)さんですって」
先生がそんな軽口を叩いてくれたおかげで、私も少し緊張がほぐれて息をつきました。
彼の名前は酒口一助(さかぐちかずすけ)さん。ここにお手伝いさんとして住み込みで働いているらしい方です。
お茶を二人の前に置いて、お盆を胸の前に引いた一助さんは、依里子さんを見て軽く会釈しました。依里子さんは彼と目が合うと、ぽっと顔を赤らめました。
一助さんは背筋が寒くなるほどの美青年です。いえ、たとえ話ではなく、彼を見ていると何故かぞくぞくっと悪寒が走るのです。私も見慣れてきたとはいえ、その整いすぎた横顔を見ていると、直視できなくなって目をそらしてしまいます。
「えー、ごほん。お話の続きをしていただいても?」
「は、はい。……翌日、お祖父様が歩いているのを見たと家族に告げたのですが、誰も本気には取ってくれませんでした。ですが、その夜、お手伝いさんたちも廊下を横切る影を見たのです」
「なるほど、それで化け猫の仕業だと?」
「はい。ですがそれだけではないのです」
「……というと?」
「その日を境に、天井裏から猫の声と足音がするようになったのです。ほら猫には足音がないと言うでしょう? それなのにバタバタ、バタバタと足音が聞こえてくるのです」
「ほう、足音が」
「それに、近所に老猫が住んでいて時々餌をやっていたのですが、その老猫がぱったりと姿を見せなくなりまして。他にも、屋根裏に住んでいたネズミたちが一斉に逃げていったり、夜になるとにゃあにゃあと人の声のような猫の鳴き声が聞こえたりで、お手伝いさんたちが言うには老猫が死者をまたいで猫又になったんじゃないかって」
依里子さんはそこまで言うと、ぶるりと身を震わせました。
「私、もう恐ろしくて恐ろしくて」
目を伏せて怯えるその表情は、妙に色っぽく見えます。私は見てはいけないものを見てしまったような気分になって、思わず素朴な疑問を声に出してしまっていました。
「でもそれでどうしてうちを訪ねていらしたんです? そういうのは探偵とか祈祷師とかの専門では?」
「馬鹿、黙ってろっ。折角のお客様だぞっ」
依里子さんは「いえ、気にしないでください」と言いながら、ゆっくりと首を振りました。
「妖怪に怯えて祈祷師など呼んだと知れたら猫塚家の恥。……少なくともそう考えている者が家族には多いのです。だから名前を伏せたままこのお話を記事にしていただいて、その新聞を見たどなたか博識な方へと助けを求めたいのです」
「なるほど、そういうことでしたか」
「不躾なお願いであることは承知の上です。どうかこの事件、記事にしていただけないでしょうか?」
私は先生をちらりと見ます。先生は胸を張って答えました。
「お任せください。この事件、しっかり記事にさせていただきますよ」
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