下へまいります

二石臼杵

定員オーバー

 その日は、私と和夫かずおあきら里美さとみの四人で高校から家に帰っている途中だった。

 私たちはいわゆる幼なじみというやつで、子どもの頃からいつもこのメンバーで登下校している。

 高校生になったばかりの私たちは、門限を無視することが無性に楽しく思えて、寄り道をしようという流れになっていた。

 そしていつもとは違う、人通りの少ない方へとわざと足を運んでみた。

 普段は通らない住宅街の横にある細い道を抜けると、そこには廃墟のビルの溜まり場が広がっていた。


「ここ、入ってみねえ?」


 和夫が指差したのは、比較的新しげな、けれどもところどころ塗装の剥げているデパートと思しき建物だった。

 まだ夕暮れで空も黄金色に輝いていて、あまり不気味だとか、危ないとか思わなかった私たちは、賛成して廃デパートの中へ入っていった。

 おどけて亮が言った「お邪魔しま~す」という声が、ビル内で無数に反射して返ってきた。私はそれすらもなんだかおかしくて、思わず吹き出してしまった。私の笑いをきっかけに、みんなにもよくわからない面白さが伝播して、全員で笑いながら元デパート内を進んでいった。


 デパートは五階建てだった。当たり前だけど、中に商品も店員も客の姿もなく、ただがらんどうとしたコンクリートの部屋を、四人で喋りながら歩いていく。

 中は薄暗かったけど、すすけたショーウィンドウのガラスから入り込む夕日がちょうどいい明かりになってくれた。差し込む光の帯が、隠れて宙を舞っていた埃を暗がりから引きずり出す。

 ここにいると、まるで自分たちだけがビル一つを丸々占拠したみたいで、少し興奮した。

 時間が凍ったまま動かないエスカレーターを踏みしめ、私たち四人は一気に最上階まで上がっていった。


「秘密基地みたいだな」


 和夫がそう言うと、里美は嬉しそうにうんうんとうなずいた。


「おーい! こんなものがあるぞー!」


 亮の声の方を向くと、視線の先にはエレベーターの扉があった。見ると、亮の指はボタンを押している。


「使えるわけないじゃん」


 私のその言葉の通り、エレベーターの動く気配はない。


「わかってるって。押してみただけ、押してみただけ」


 亮がとぼけてボタンから指を離すと、ごうんという静かな唸り声が響き、エレベーターの扉が開いた。

 扉の中には明かりが点いていて、鏡や床も新品のように綺麗だった。


「まじか……」


 和夫が言う。ここにいる誰もが同じ気持ちだった。耳が痛いほどの、どこか居心地の悪い沈黙を亮が破った。


「入ってみるか?」


 彼の目は好奇心の光に満ちていた。


「やめようよ、気味が悪い」


「そうだよ、だいたい途中で止まったらどうすんの」


 里美と私の不安の声を、亮は軽く笑い飛ばした。


「このエレベーターだけ電気が通ってるんだよ、きっと。大丈夫だって。それに、こんな機会滅多にないぜ」


 その言葉に、あれほど反対していた私も里美も考え込む。


「それもそうかもな」


 和夫の鶴の一声だった。


「歩くのも面倒くさいし、エレベーターで下りてみようか」


 エレベーターの中に四人が入る。それでもスペースには余裕があって、なかなか広かった。

 入り口の両側には和夫と亮。奥の方には私と里美が寄り添って、それぞれ陣取っている。


「下へまいりまーす」


 そう言って亮が扉の「閉」ボタンを押す。

 直後、やたら大きくかん高いブザーが鳴り響いた。


「ひっ」


 私と里美は驚いて身をすくめる。


「定員オーバーの音だよ。翔子しょうこ、お前が重いからじゃないか?」


 和夫が意地の悪い笑みを浮かべて私に聞いてくる。


「ひどいよ、和夫」


 私、そんなに太ってない。そう言おうとしたとき、ぽーんと澄んだ機械音が鳴って、扉が閉まった。


「下へまいります」


 電子音声の案内が始まる。ほんの少しの浮遊感と、賑やかなデパートでは気にすることのない、昇降路をくぐる感覚が体を揺さぶる。


「ちゃんと動くじゃんか。でも、さっきの定員オーバーはなんで?」


 不思議そうに首をかしげる亮へ、和夫は答える。


「まあ、どっか不調なところぐらいあるだろ」


 そのとき。がこん、と。エレベーターが急に止まった。


「えっ」


 里美が漏らした声に構わず、エレベーターの扉が開く。


「四階。ペット売り場です」


 機械の声は淡々とフロア名を告げた。


「誰か、四階押した?」


 里美の声は震えていた。


「いや、ボタン触ってないぞ」


 和夫が「閉」のボタンを何回か強めに押す。


「四階。ペット売り場です」


 再び電子音声。どうしようか? と私たちが顔を見合わせていると、低く、生々しい唸り声が耳に届いた。

 くるるるるる。

 それはエレベーターの外から鳴っている。

 いつの間にかだいぶ日が傾いて真っ暗な四階フロアから、たくさんの音が舞い込んできた。

 扉の外に広がっていたのは、おびただしい数の目だった。

 犬が。猫が。ハムスターが。ウサギが。トカゲが。蛇が。無数の動物たちの目が、闇の中に赤く光って私たちを見つめていた。私たちは、何十匹もの獣に囲まれていた。

 がうっがうっがうっがうっ!


「きゃあああっ!」


 いきなり吠えてきた動物たちに、里美をはじめ全員が身を強張らせる。


「なんだこれ! 上がったときは何もなかったのに!」


 亮が必死に「閉」ボタンを押す。何度も、何度も。けれども、ブザーが鳴るだけで扉は閉まらない。


「また定員オーバー!? くそっ、閉まれ! 閉まれよ!」


 このまま永遠に閉まらないんじゃないかと、みんなが思いかけたとき。


「下へまいります」


 三回目のブザーが鳴ったあと、ようやく扉は正常に閉まった。閉まると同時に、犬の爪ががりがりと扉を削る。そうしてひっかく音がやむ頃には、エレベーターは、また下へ向かって進みはじめていた。


「ちょっと、なに今の?」


 里美は涙声になっていた。


「わかんないよ、私だって!」


 私は思わず怒鳴り返す。とうとう里美は本格的に泣きだした。


「もうやだあ」


 里美の泣き声をBGMに、私と和夫と亮は話し合う。


「ねえ、エスカレーターを上って通ったときには何もいなかったよね、四階」


「ああ」


 答えたのは和夫だった。


「でも、さっきのあれは確実にいた。おれたちを襲おうとしていた」


「じゃあ、どうすんだよお」


 冷静に分析する和夫に、亮が食ってかかった。


「とにかく、エレベーターから外に出るのは危険だ。絶対に他の階のボタンは押すな。このまままっすぐ一階まで下りて、それからダッシュで建物の外に出よう」


 和夫がそう結論付けると、みんな黙ってうなずいた。里美も、しゃっくりみたいな嗚咽を漏らしながらそれに倣う。


 ぽーん。


「三階。生活用品売り場です」


 扉がおそろしいほど静かに、また開く。


「だから押してねえって言ってんだろ!」


 亮がばんばんとボタンを連打するけど、それもむなしく扉は微動だにしない。


「定員オーバーです。一人降りてください」


 電子アナウンスが無情に告げた。


「ふざけんな! 降りられるわけないだろ!」


 ばんばん、ばんばんと、見てるこっちが痛いくらいにボタンを叩きながら叫ぶ亮。

 すると三階の暗闇から、何本もの人間の手が這い寄ってきた。床を虫のようにさかさかと這って移動する、手。それらは思い思いに包丁やハサミを持っていた。


「くるなああああああ!」


 亮の叫び声は、手の一本が飛びかかって喉に突き刺したハサミによって両断された。

 がぼりと、口から血の泡を拭く亮。その体に次々と新しい手の獲物が突き刺さる。私の目の前を通り過ぎた白く細い腕の表面には、毒々しい紫色の血管が浮き出ていた。


「亮!」


 和夫が呼びかけるも、もう遅かった。亮は、体に咲いた刃物ごと、無数の手に連れ去られ、三階の闇へと引きずり込まれていく。


「……ちくしょう!」


 だん! と和夫は忌々しげにボタンを殴りつける。亮の右足が扉にひっかかり、片方の靴だけがエレベーターの床に転がった。


「下へまいります」


 そして、扉は素直に閉じていった。


「ちょっとなにしてんの和夫! 亮を置いていく気!?」


「あいつはもう助からない! お前も見ただろ!」


 和夫の顔は真っ赤だった。


「下に、下に下りるんだ。そうすれば、あとは警察に駆け込むなり何なりできる。おれたちはまず、ここから生きて出なくちゃならないんだ」


 がちがちと歯を打ち鳴らし、血走った目で和夫は言い聞かせる。

 そんな彼の様子を見て、ようやく自分たちは取り返しのつかないことをしてしまったんだという実感が湧いた。


「生きよう、里美。生きよう」


 私はもうわけがわからなくなって、ひたすら泣き続ける里美の体を抱きしめた。

 ぽーん。


「二階。電化製品売り場です」


 無慈悲に扉は開く。

 二階の闇が、私たちに迫ってくる。


「定員オーバーです。一人降りてください」


 残酷な電子音声が私たちの耳を揺さぶった。


「いやだ、いやだ、いやだいやだいやだいやだ」


 和夫ががちゃがちゃボタンを操作していると、真っ暗な闇の中から、白いものが飛び込んできた。

 それは冷蔵庫だった。冷蔵庫は上の冷凍室の扉を開け、和夫の頭に覆いかぶさった。


「はん」


 冷蔵庫の上の扉が閉まり、和夫の頭部がかじり取られる。頭を失ったままボタンを押し続けている和夫の体は、私の目にひどく滑稽に映った。


「い」


 一拍遅れて、恐怖が押し寄せる。


「いやああああああああああああ!」


 その悲鳴は私のものだったのかもしれないし、里美のものだったのかもしれない。けれど、どちらでもたいして変わらなかった。

 ぐいと手を引っ張られる。里美だ。里美が私の手をつかみ、エレベーターから外に出ていく。

 そこでエレベーターの入り口をまたぎ越す際に、私はふと後ろを振り返ってしまった。


「外に、出ればいいんだよね! これならっ、定員オーバーにならないもんね!」


 息が切れるほど走りながら、里美は叫ぶ。


「このままエスカレーターを下りて、外に出れば……!」


 手を痛いほど引っ張られ、私は里美に大声で伝えた。伝えなきゃと思った。


「違う、違うの里美! もう定員オーバーになってるの!」


「え?」


 だって、私は見てしまったのだから。


「一人、乗ってきたのよ!」


 私は喉を震わせて声を振り絞る。

 私は見てしまったのだ。エレベーターから外に出るときに。エレベーターの鏡の中に映る大勢の、目と口が黒い洞穴になっている者たちの姿を。

 定員オーバーだったのは、「彼ら」が乗っていたからだ。あのエレベーターは「彼ら」専用だったんだ。

 そして鏡の中では、そのうちの一人が私の肩をつかみ、鎖骨のくぼみのあたりから徐々に私の体に沈み込もうとしていた。筋肉注射を受けたときみたいに、体内に冷たいものが染み渡っていく。


「もう、私の中に一人乗ってきたのよ! だから――」


 だから。そう、だから。


「ここで一人、降りないといけないの」


 自分でも驚くほど冷めた声が口からあふれる。私の、私じゃない手が里美の首に噛みついた。


 ごきん。


 力に負けて骨がずれる感触が手のひらから伝わったとたん、あっけなく里美は崩れ落ちた。手足はだらんとして、口から唾液の糸が空中へ伸びていく。

 里美のその姿を見納めに、私は手を離して無我夢中でエスカレーターを駆け下りた。


「……はあっ、はあっ、はあっ、はあっ」


 それからは、景色が流れるように過ぎていった。里美を、和夫を、亮を。みんなを置いて私は走った。一階へ下りて、デパートから飛び出し、すっかり暗くなった街の中へ飛び込んだ。


「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 息が整う頃には、いつの間にか自分の家の前にたどり着いていた。

 合鍵を使うのもわずらわしくて、ドアを叩く。


「あら、なあに、翔子。どこ行ってたの。心配してたのよ」


 出迎えた母さんに私はただいまも言わず、これまでの事情の説明もせず、黙って二階にある自分の部屋へ逃げ込んだ。


「翔子? 翔子!?」


 部屋に入り、今日あったことを思い出す――のをやめて、ベッドへ寝転がる。

 深呼吸をして、どうにか自分を落ち着けた。とにかく、私は生きて帰ってこられたんだ。それだけは間違いない。

 夢だ。あれは夢だったんだ。明日になればきっとまたみんなに会える。そうに違いない。そうに決まってる。

 ようやく鼓動が自分のペースを取り戻したのを確認して、私は首を横に向ける。

 ベッドに倒れている私が、部屋の鏡に映っていた。

 鏡の中の私が、笑って口を開く。


「下へまいります」


 がこんと、私の部屋全体が下に落ちていく感覚に見舞われた。

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