7、第三王子正室、キヨラ


「大丈夫か、キヨラ」


 アルフ様に顔を覗き込まれても、反応はだいぶ遅れてしまった。


「……無理もないだろう、あんなことを言われてしまっては」


 気遣うような優しい手つきで髪を撫でられ、違うのだと首を横に振る。簡素な造りだけど、とてつもなく上等で肌触りの良い夜着の上から肩を抱き寄せられた。その夜着さえも、薄く紅色に染められている。


 夜会のために着せられたドレスは、アルフ様の髪色に合わせて赤色のものだった。余計なものはついていないけど、かといって豊かでもない私の体を飾るために、色々と細工が施してあった。それでもアルフ様の横に立ったら見劣りしそうだけど、美しい虹色に染まったパル族のレースで、いくらかましになっていたと信じている。

 それより問題は、ダンスだった。私が躍ったことのあるダンスなんて、祭りの時の伝統的なものくらいしかない。夜会で踊るようなダンスの教養なんて、おとぎ話のズンチャッチャ程度だ。

 あまりの練習のきつさに、泣いた。ダンス担当の教師がひたすらタップを踏み、それを正確に数えられないといけない夢を見たことすらある。でも当日ダンスは1曲だけ、と決められていたし、主賓は上座でニコニコしてなさいと、最終的に担当の教師からお許しを頂けた。お許しというか、お情けか。

 けれど、その心配事を吹っ飛ばすようなことが、ぽこん、と起きた。


 ずいぶん思考が飛躍したところで、ようやく言葉が口から落ちる。


「……違います、アルフ様」


 追いつめられすぎるると、別の何かを考えようとするのは、私の思考の癖だ。けれど口にする言葉は、話の流れに沿っているから、時折おかしなことになる。

 無骨な武人の手だからこその安心感に支えられるように、大きく深呼吸をした。柔らかな、けれど真っすぐな眼差しを、アルフ様がこちらに向けた。


「……申してみよ」


 大きな体がこちらを向いて、ぎしり、と足のすぐ下にあるばねが軋んだ。

 その音が、ここは、寝台の上だと私に思い出させる。


 夜会の後のこと。メイドさん達によって徹底的に、乗せた化粧を落としてドレスを脱がされ、体をもう一度ぴかぴかに磨かれた。寝るのに化粧は嫌ですシーツが汚れます、などと言ったら、大切な初夜ですよと説得を食らってしまった。そういう問題じゃない、と言い含めて、なんとか顔を香油びたしにするだけでとどめてもらった。

 とはいったものの、つけたこともない、綺羅やかな宝石を繋いだ、糸の様な下着だとか。局部が隠れているかと言われたら、首をかしげるしかないほど小さな、さらし布とか。

 もう完全に、今日はそういう日なんだなぁ、と腹をくくるほかなかったのだけど。


 寝台に行って、アルフ様の顔を見たら、そんなこともぷしゅるると体から抜けてしまった。

 あの騒がしすぎる用意は、メイドさん達なりの励まし方だったのかもしれない。夜会で起きたことを、忘れさせるための、心遣いだったの、かもしれない。

 それくらい、夜会で起きたことは、私を悩ませていた。


「……エルリア様は、ああいう言葉通りのことを、おっしゃりたかったわけじゃ、ないはずなんです」


 確証はどこにもない。けれど、言わなくちゃ、と、私は思っていた。





 夜会でのことが、頭の中をよぎる。

 荘厳で、壮麗で、その衣装を的確に表現する言葉を作ってほしいくらいの、真っ白な装束。街の導竜教会にいらっしゃる姿を見ることすら敵わない、《竜巫女》様。それが全員おそろいで、私のために来てくださったなど、生涯の誇りだと思えた。


「ご結婚おめでとうございます。アルフ様、そしてキヨラ様。お二人の万世の祝福と、銀龍フィーエのご加護があらんことを」


 全十八名の《竜巫女》様、全員による、挨拶。その荘厳さと言ったら、アローヴォス諸島国の国民なら涙を浮かべるに決まっている。


 その中でも《筆頭竜巫女》たるエルリア様の姿に、私は正直、舞い上がっていた。何しろ、この国を浮かべられた銀龍フィーエ様の如く感じてきたお方。その中でも特に力が強い上、美しい方だった。白を基調とした巫女服は、銀糸のような美しい御髪と、蒼穹の青い目をお持ちの、すらりと背の高いエルリア様にはとても似合っていらっしゃって、私のところに挨拶に来るまでにも方々からお声をかけられていた。そのどれもが、礼を言う言葉だった。

 なのに《竜巫女》として当然のことをしたまでです、と控えめにおっしゃられる姿に、感動した。何が、当然だろうか。《竜巫女》様は、国の隅々まで行く必要があるという。

 それは、各地に点在する竜についてのよしなしごとを、全て王都に暮らす《竜巫女》様が引き受けられるからだ。日常で暮らしていても、竜の言葉が分かればどんなによいか、と思うことは多々ある。うちの竜はああで、と竜使いらが悩むことも多い。そんなことすべてを《竜巫女》様が解決していたら大変だから、相談したいことは厳選され、重要度の高いものだけが依頼にふさわしいとして、扱われる。

 けれど、《竜巫女》様は、依頼にそぐうほどいらっしゃるはずもない。


 今代は十八人だが、ほんの数人だったときもあるというのだから、激務に違いない。それなのに、あのように美しく、凛として、《竜巫女》だからと己のことをちっともひけらかすことはない。そんなエルリア様のお姿に、私は自分が《竜巫女》と分かったからこそのことを、考えてしまった。


「ありがとうございます、エルリア様」


 アルフ様のお声かけに、ハッとして続く。エルリア様は、そんな私のふるまいを、目を細めて見守っていてくださった。


「ありがとうございます、エルリア様。本当に、《竜巫女》様にお祝いの言葉を頂くなんて……アローヴォス諸島国の一国民として、光栄です」

「そんな……キヨラ様も、そのようなことをおっしゃるのね。光栄、だなんて」


 上品に微笑まれたエルリア様だけど、周囲の空気が凍るのが分かった。私はその瞬間、その状況を商人として培った目で、分析していた。

 周囲は、今の会話を二つの視点からとらえている。一つは、貴族の令嬢でもあるエルリア様だからこその、商人の娘である私の言葉遣いへの揶揄。もう一つは、私の挨拶が光栄だなんて思ってもみませんでしたわ、という喧嘩腰だ。

 どっちからとっても、エルリア様にとって、最悪な状況だった。


「そ、その。エルリア様は、《竜巫女》様ですから」

「だから、なんでしょうか?」

「だから、特別なのです。アローヴォス諸島国に生を受けたものとして、竜と同じように」


 少し不思議そうな顔をして、けれどエルリア様は頷かなかった。それを見て、気が付いてしまった。私とエルリア様の間には、《竜巫女》という存在と、竜についての認識が、あまりにもかけ離れていることに、気が付いた。

 お小さいころから《竜巫女》として神殿に暮らされていたというエルリア様にとっては、《竜巫女》であることは私がホスロウ商会の三女であるのと同じくらい、当然のこと。その地位についても存在についても、私の感じ方とは何もかも違うのだろう。それをこの場で分かってもらえるほど、私の話術は高くない。


 会話が長引いただけ、この場の硬直が続く。そう判断して、私は会話を切り上げることにした。


「今後、未熟ゆえに《竜巫女》として至らぬこともでるかもしれません。先を行く方として、エルリア様からも教えを賜れるのであれば、幸いにございます。今後とも、仲良くしてくだされば、この上ない喜びです」

「教え、ですか」


 純粋無垢、そう表現するが相応しい、エルリア様の目。その目は私をまっすぐに見つめ、ただただ不思議そうに、問いかけられた。


「ゲイジュア様のお声を聴かれるような方に、私から教えるようなことはございません。どうぞ、ご自身のお務めに励まれますよう」


 私は、返事に、詰まった。

 ありがとうございます、と言うのも、何か違う。そうおっしゃらず、と言うのも、何か違う。私はただ話を、切り上げようとしただけなのに。エルリア様のその物言いは、先ほどの周囲からの意識の向けられ方からしても、飛躍した勘違いを受ける可能性が高い。

 アルフ様が声をかけられようとして、断念されたのが気配で分かった。それにもどかしい思いを抱えながらも、否定の意味を込めて首を横に振り、言葉を絞り出す。


「エルリア様は《筆頭竜巫女》様です。《竜巫女》であることがどういうことか、よくよくご存知のはず。たとえ竜の声が分かろうとも《竜巫女》として未熟な私には、教えてくださる方は大勢いてくださったほうが心強いのです」


 そうですか、と頷いてくれれば、良い。この言葉を否定されれば、この周りの空気をどうにかする手立てはもう、今の私には思いつかない。


「キヨラ様に、どうして私が教えねばならないのでしょうか」


 心底不思議そうな問い掛けに、私は、小さく息を飲んだ。この方は本当に、そう思っているのだ。何と言っていいか分からなくなって、私はつい、目を伏せてしまった。

 いけない、と思ったときにはもう遅い。軽やかに踵を返し、エルリア様は凛とした御姿のまま、私たちの前から立ち去っていく。きっと私が視線をそらしたせいで、だと思われたに違いない。

 本当は、私のことを疎ましいとか、嫌いだとか、そういう風に思われていて本気でおっしゃっていたのかもしれない。

 けれど何となく、違う気がした。


 去っていくエルリア様の後を庇うように、ほかの《竜巫女》様たちが、口々に私もお話させてくださいねと声をかけてくれた。エルリア様に言われて、傷ついた。そんな様子を見せれば、余計にあの状況はこじれてしまう。


「ありがとうございます。皆さまを一日でも早くお助けできますよう、努力いたしますわ」


 にっこりと微笑むと、ほっとした空気があたりに漂っていった。その後は何とかエルリア様のことを口に出すことなく、夜会を乗り切ることができた。

 大きな噂話にもなっていない様子だったと、騎士のキルド様がおっしゃられていた。





 憶測で物事を口にして生きていくには、私にはまだまだ難しい世界なのだと、覚悟している。でも今ここにいるのは、アルフ様だけだ。

 血まみれの私になんのためらいもなく、あの日手を伸ばして抱き上げて、平凡な私の髪や目を褒めてくれた。そして愛を、恋を、囁いてくれた、ただ一人のひとだけだ。

 今だけだ、と私は決めていた。


「あの言葉通りのことを、言いたかったわけでは、ないと思うのです」

「何故、という、理由はないのだな」

「分かりますか?」

「……過去に私にも、婚約者がいた。はやり病で、十五歳という若さで亡くなった。彼女も、時折、そう言っていた。女の勘だとか、そういうものなのだろうか」


 勘、ということに、間違いはなかった。だから頷いて、私は一番の不安を口にした。


「もしそうなら、もし私の勘のほうが正解なら、エルリア様は不当な思い込みを周りからされているということになると、思います」

「そうだな。私の妻となるキヨラからの申し出を蹴り、礼を欠いた態度をとったように見えただろう」

「そのせいでエルリア様が、《竜巫女》でなくなるということは、ありませんよね?」


 アルフ様は、しばし口を閉ざされた。それから記憶をなぞるように、静かに答えられた。


「キヨラを妻として迎えるにあたり、過去の資料を総ざらいにした。以前にも平民から《竜巫女》が出たことや、その者がどうなったかとか、そういうことを調べた。その中に……《竜巫女》としての存在価値を振りかざし、神殿を牛耳り、王家にも食い込んだ者の記録が……いくつかあった」

「……そんな方が、いたのですか。しかも、複数」


 驚くのを通り越して、愕然とした。《竜巫女》像、みたいなものを、どうしてもアローヴォス諸島国の国民は抱いてしまう。銀龍フィーエ様に近しい存在として、自分が《竜巫女》の素質を認められた今となっても、神格化して、遠い存在として見てしまう。

 神、つまり、きよい存在なのだと思い込んでいる節が、どうしてもあった。でも自分がいざ、素質があると言われると、話は別だ。けれど、いや、それにしたって。


「悪役、と言うに相応しい令嬢だったようでな。最終的には神殿に永久幽閉、巫女としては残されたが、それ以外の全てを奪われたようだ」

「それ以外?」

「《竜巫女》として、と言っただろう。子を残すことはもちろん、友を作ることも、なにもかも。その令嬢は、許されなかった。《竜巫女》という、道具として、生涯奴隷のごとく働かされたそうだ」


 私は思わず、息をのむ。

 それは、それはあまりに、重い罰ではないだろうか。


「それならいっそ」


 私の言葉に、アルフ様が頷く。


「そうだ。それならいっそ、《竜巫女》なぞからは引き下ろして、家に帰せばよい。いっそ、処刑という方法もなかったのか。そう、私も思った。だがそうもいかないのだ、そもそも《竜巫女》は、地位ではない、役職ではない、いいやそれどころか人とも思われてこなかった」


 そこまで言って、アルフ様の声が途切れた。同時に、私はその腕の中に抱き込まれる。私とアルフ様とでは、あまりに体格が違う。突然のことに息を詰めていると、どこか悲し気に、皮肉を言うような声が落ちてくる。


「私も現に、その一人だ。だからこそ兄上や父上は、私がお前を娶ると言ったとき、ほっとされたのだろう。竜を束ねるからこそ、分かっていてほしいことをようやく理解する、と」


 何をおっしゃりたいのか、なんとなくわかってきた。私自身が、自分が《竜巫女》の素質がある、と言われて感じたことと、同じことだ。

 《竜巫女》は、竜の心と言葉を、人が人と話すように理解する。心、という面では、もっと深いところまで知ることができるという。それはかつて、この国を作った王と竜の血によるものとされ、神話を真実たらしめる証拠のようなものだ。導竜教会どうりゅうきょうかいで保護され、そして国のために民のために生きていく。そしてアローヴォス諸島国の民は、銀龍フィーエ様と同じくらいに《竜巫女》様を愛し、王族とはまた別に、敬意を払う。


 私は、《竜巫女》様に、敬意と親愛を抱いてきた。けれど自分がその立場になり、《竜巫女》というのはその人のと、分かってしまった。

 私たちは竜と会話できるという力そのものに、敬意と親愛を向けていたのではないだろうか。そう思ったとき、どきり、と胸が苦しくなった。


「キヨラがキヨラであるように、エルリア様もまた、エルリアという個なのだ。私はようやく、そのことに気が付いた。そしてきっとこの感覚は、巫女に近しくなければ分かるまい」

「アルフ様……」

「だからこそ、難しい。エルリア様を《竜巫女》としてではなく、エルリア様として守ることが、果たしてできるのか」


 感覚の共有は、難しいことだ。

 そう分かっているから、私も同じことを考えていると伝えようとして、小さく頷いてその胸へ身を委ねる。アルフ様の、燃えるような赤い目が、私をじっと見つめていた。


「お前がエルリア様を想う気持ちにも、答えてやりたい。全力を尽くす。だがそれ以上に……キヨラ」


 蜜菓子のような声色に、背筋が、とした。思わず身体を離そうとして、抑え込まれる。宝石の粒を連ねただけの飾りの下着が、肌をこすりあげる。細い糸で紡がれているそれが、ぶつり、と着れて、夜着のなかに粒が散らばっていく。その粒を拾い上げるように、夜着がほどかれ、宝石が散らばった薄い胸とくびれのない子供の様な体が、アルフ様の目の中に曝された。


「許してくれ。お前が傷つくのなら、私はお前をきっと、優先してしまうだろう」


 この人の言葉は、あまりに強い。特に、私にとっては、おそらくほかの人の倍は強い。

 落とされる香油と慣れた手つきに、納得しながら、拗ねてみたくなる。エルリア様のことについては、事態を待つほかはない。それが現状で、でも先手は打っておきたい。だけどその手段がなかなか見つからない、というのが今の状況だろう。

 だったら己のことを進めておこう、というアルフ様の今まさに行っている行為は、やっぱりこの人も王族なんだなぁと思うに足りた。


「痛くはせぬ。だから、その思考をどこかへやるのを、やめよ」


 香油にまみれた宝石が、その掌の下で、私を皮膚ごと焼いていく。暴かれようとする秘所に、私は恥を忍んで、恐る恐る告げた。


「……その、申し訳ありません。こういうこと、その。いわゆる、教養というか、その。原理、としてしか、知らなくて、あの」

「痛くはしない、無理もせぬ。今宵は、やめておくか」

「嫌とか、ではないのです。その、思考はどうしても、癖で。自分でもなかなか我慢できなくて」


 言っているうちに、涙が出てくる。私は、キヨラとして生きてきて、そして”竜巫女”になれた。エルリア様は”竜巫女”として生きてきて、おそらくエルリア様として生きたことはないのだろう。そして今、神殿に仕えていらっしゃる、あの方々も同じだろう。

 だから、だから私は、気が付いてしまった。


「お嫌いにならないでくださいませ、アルフ様。私を、わたしを、どうか、わたしのままに」

「ああ、愛し続けよう」


 愛し恋した人と共になった、だからこその感情。それを”竜巫女”というフィルターに遮られることなく、与えてほしいし、与えたい。そう思って、願ったからこその、私の涙。

 それを熱い舌ですくったアルフ様はそのまま、咢を振るう火竜のように、私の柔いところへ食らいついてきた。


 何も起こらなければいい。

 そんな思考を最後に、私の意思はふつりと、アルフ様の思うが儘になってしまったのだった。



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