第10話

 アラートの音で目を覚ました。

 枕元の端末を確認すると、出社されたしと仰々しい文体のメールが届いている。たぶん、依頼人の誰かが〈現実〉のフィルターを導入した際に、他人にタグ付けをされたデータまで書き換えてしまったんだろう。

 あくびしてから起き上がり、部屋のカーテンを開ける。空はよく晴れていて、夏らしいくっきりとした青がまぶしい。

 リビングに降りていくと、母さんがおはようと笑う。父さんはもう朝食を終えるところだ。

「今日はスーツなの」

「うん、ちょっと会社」

「遅くなる?」

「たぶん。早く帰れそうで夕飯はうちで食べるってなったら、電話する」

 冷蔵庫から取り出した牛乳をコップに注ぐ。朝はあまり食べる気がしないから、せめてカルシウムを摂ることにしている。

「努は在宅勤務なんじゃないのか?」

「たまに呼び出される案件もあるんだよ」

 ぼくと違って背広を着るのが当たり前の父さんは、不思議そうにしている。行かなきゃいけない日があるなら、最初から会社に行くようにすればいいのにと思っている顔だ。

 ぼくは急いでコップに口をつける。父さんと議論する気はない。ぼくは今の勤務態勢を気に入っているけど、仕事のやり方は人それぞれでいい。

 飲み干したコップを洗うと水切りかごに立てて、すぐに玄関に向かう。メールの呼び出しはそれなりに緊急のときだから、急ぐに越したことはない。

 再就職に苦労していたぼくに、〈現実〉コーディネーターの講習を受けるように勧めてくれたのは忠だ。幸いぼくには向いていたようで、講習を終えると同時に今の事務所に採用された。

 コーディネーターは、依頼人の〈現実〉のカスタマイズに伴う周囲との交渉を行う。どんなデータをどこまで変更するかを当事者同士で話し合うと、些細なすれちがいが大きな軋轢を呼ぶ場合がある。第三者としてコーディネーターが事前調整しておくことで、トラブルの大半は回避できる。

 ただ、今回みたいな呼び出しは、たいてい後手に回った事後処理だ。

 自分にタグ付けされたデータだけを一括変換したつもりが他まで変わってしまったとか、変えたつもりが変わってなくて齟齬がどんどん大きくなるとか、〈現実〉にまつわる事故は色々ある。

 大事な思い出を勝手に変えられて憤る人に納得のいく代替案を出すのも、コーディネーターの重要な任務だ。

「じゃあ、行ってきます」

 リビングに声をかけ、ぼくは扉を開く。

 それぞれの人が、人それぞれの幸せを手に入れられる世界は、もうそこにある。

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夢見合わせ 桐井フミオ @doriruko

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