獣の宝

 飛び掛かってくる狼の顎を双剣を当てて横へ逸らし、無防備の腹へと蹴りを叩き込む。

 続く二頭目と正対し、引き付けてからの跳躍。真上に跳んだ俺を追って狼は立ち上がるが、当然予想の範囲内。首を伸ばして追いすがる狼の鼻目掛けて踵落としを叩き込み、落下ついでに背中を蹴って距離を取る。

 着地するや否や、体勢を立て直した二頭が前後に連なるようにして飛び掛かってくる。その一頭目の噛みつきをあえて刀身で受け、咥え込んだ狼の頭ごと剣を捻って体勢を崩させ、後続の狼にぶち当てる。

 互いに衝突して動きが止まったその瞬間、俺は二頭それぞれの頭部目掛けて双剣を振り下ろした。引かずに振り下ろした剣は狼の毛皮を切り裂くことなく、鋭利な鈍器としてその頭を打ち据える。

 狼を含め、獣の体というのは相当に頑丈だが、それでも今のは間違いなく痛撃だったはずだ。

 だというのに、二頭の狼は前進をやめようとはしない。

「なんなんだよ一体……!」

 瞬間、二頭の狼は俺の戦意が揺らいだと見たか、進路を転換した。目指す方向は、ノエ。

 目の前の敵である俺を放置してまで、ノエのあの袋へと走っていく。その姿で、俺は理解した。

 あの袋の中身は――


 イェーナは矢と短剣で、ラウレンスは風を使って、それぞれ襲ってきた狼を迎撃していた。二人とも、あの程度の狼など即座に仕留められるにも関わらず、だ。つまり、今ならまだ間に合う。

 俺は自らの第一祖神、四ツ足の獣を統べる神、牙と爪持つトルル・テゴアに無言のまま祈りを捧げた後、叫んだ。

『我が神トルル・テゴアの名において! 我、敵にあらず!』

 その瞬間、狼たちが一斉に動きを止め、振り返った。


 急に静まり返った戦場で、狼たちは疑るような表情で、そしてイェーナとラウレンスとノエは呆気にとられた表情で、それぞれ俺を見ていた。

 三人の表情は、俺の言葉が聞き取れなかったせいだろう。何故なら、今俺が発したのは獣の言葉。本来人間には理解できない言葉だ。

 この場で俺の言葉が理解できたのは人間ではなく――

『貴様……何を言っている?』

 一番近くにいた狼が、眉間と鼻先にしわを寄せて低く長く唸った。その唸り声が、今だけは俺の耳に言葉として届く。

 四ツ足の獣、その中でも特に鋭利な爪と牙を持つ捕食者たちを統べる神が、トルル・テゴアだ。そのトルル・テゴアの加護をもってすれば、ほんの一時だが狼を含めた一部の獣との会話が可能になる。

 だが、効力はあくまで会話ができるようになるだけだ。言葉の通じる人間同士ですら殺し合いが起きるように、この加護を使ったところで普通は襲い来る狼を止めることなどはできない。

 しかし、ノエの持つ袋を最優先にしている狼たちと、殺さずに迎撃しているだけの俺たちとであれば、話し合いは不可能ではないはずだ。

『俺はお前たちを傷つけるつもりはない』

 その俺の言葉に、別の一頭がすかさず口を挟む。

『だったらあいつを引きずってこい! あの袋の中には――』

『分かってる。あいつの行為は許されない』

 そう答えて、俺は歩き出した。ノエに向かって。

『ここは俺に任せてくれ』


 俺は双剣を手にしたまま、ゆっくりとノエの前まで歩いていった。それでもノエは少しも怖気づいた様子を見せない。

「どうしました? 狼に加勢でもするつもりですか? 人間を裏切って?」

 歩いている間に加護が切れたのだろう、ノエの声は普通に聞き取れている。

 俺は双剣を握ったままの右手を持ち上げ、ノエの目の前にかざした。

「その袋を渡せ。そうすれば見逃してやる」

 だがノエは、俺の胸までしかない小さな少年は、強情だった。

「いいえ。それはできません」

「その結果、斬られるとしてもか?」

 これ以上ない、直接的な脅しだ。それでもなお、ノエは首を縦には振らなかった。

「それなら斬ってください。ノエはこの指示には逆らえませんので」

 そこでようやく、俺は思い至った。この強情さは狼たちと同じだと。

「……そうか」

 俺は右手を開き、剣を滑らせ――空になった手を握り込んだ。

 ドスッと俺の拳がノエの細い胴にめり込む。ノエは二つに折れ曲がるように崩れ落ち、袋を握りしめていた手が緩んだ。

 すかさずノエの手から袋をひったくり、温かい中身を取り出した。

 傷ついた、しかしまだ息のある、狼の子供だ。



「ぐっ、なんで……!」

 手渡した狼の子供をくわえて狼たちがおとなしく引き下がっていくのを見送っていると、うずくまったままのノエが苦しげに声を上げた。

 その緑髪の頭を見下ろしながら、俺は問いかける。

「それはどっちの意味だ?」

「……え?」

「狼どもを見逃した理由か、それとも?」

 ノエはしばし黙り込むと、呻くように答えた。

「後者、です……」

「そりゃ簡単だ」

 言いながらノエの隣にしゃがみこんで、俺はノエの頭に手を乗せた。

「お前が悪い奴じゃなかったからだ」

「え……」

 殴られた痛みも忘れたかのように、ノエが驚いた顔で見上げてきた。

「おおかた誰か人質にでも取られて脅されたとか、そんなとこだろ? 分かるってのそんくらい。まあ、無理やりやらされたにしてもやっていいことと悪いことはあるけどな、それに関してはさっき殴った分で終わりだ。死ななきゃいけないことじゃねえよ」

 言っているうちになんだか恥ずかしい気分になってきて、思わずノエの頭を押さえ込んでしまったりしたが、まあよし。言うべきことは言ったはずだ。

 と、頭をぐいぐいやっていると、イェーナとラウレンスもこちらまで歩いてきた。そして口を開いたのはラウレンスの方だった。

「いろいろ話したいことはあるじゃろうが、今は急を要するでな。二つだけ確認じゃ。ノエ、お前さんに命令したのはエドムントで、この件は昨夜の魔狼襲撃にも絡んでおる。間違いないかの?」

 ラウレンスにしてはらしからぬ、要点だけ押さえた端的な質問だ。

 ……というか、それが正しいならエドムントはわざわざ魔狼を呼び寄せて砦を襲わせたということになるんじゃ。

 聞かれたノエは、首を縦に振る。

「はい。どちらもその通りです」

「ちょ、おい、待てよ。だったら奴の目的は何だよ!」

 思わず、ラウレンスの両肩を掴んでいた。何のためにそんなことをするのか、わけが分からない。

「理由は分からん。じゃが、狙いは明確――わしらの抹殺じゃ」


 直後、背後の丘の向こうで、太陽でも落ちてきたかと思うほどの光が炸裂した。少し遅れて、何かが焼け焦げるような匂いも。

「――!? カジナ様が!」

 そう叫んだ時にはイェーナはもう走り出していた。

 慌てて、俺も双剣を抜きながら後を追う。

 分からないことだらけだが、やるべきことは明確だ。戦友であり命の恩人である神憑きの少年に加勢し、わけの分からん策略で仲間を苦しめるクソ野郎をぶちのめすだけだ。だから――

「無事でいてくれよ、カジナ殿……!」

 それだけを願いながら、俺は力いっぱい地面を蹴る。

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