魔狼猛進

 魔狼は勇ましく大地を蹴り、草原を駆け抜けてくる。手負いにも関わらず、その速度はこれまでを遥かに上回る最高速。すなわち全力だ。


「牽制します!」

 叫びつつイェーナが弓を引く。射撃で痛みを与えて少しでも走りを鈍らせるのが狙いだろう。目や口はともかく、たった今開かれた傷口は塞ぎようがない。そこに目掛けて矢を叩き込むというわけだ。

 そしてイェーナが矢を放った瞬間、魔狼は大きく頭を振った。あたかも傷口を動かすことで狙撃を逃れようという動きだ。

 その時、魔狼が素早く頭を振ったせいか、傷口からの血はバケツでばらまいたかのように飛び――

 血が空中で硬化した。俺にはそうとしか見えなかった。


 イェーナが放った矢は飛び散った血の塊に正面から突っ込み、ガキャンと甲高い音を立てて弾かれた。

 しかも現象はそれだけでは終わらない。

 血は、いや、血だったものは飛びながら鮮やかな赤い光を纏い、ぬらついた光沢は金属にも似た耀かがやきに、丸みのあった先端部は牙よりも爪よりも鋭い切っ先に。

 つまりそれは血でできた黒曜石。魔狼が放った血の塊は、大小さまざまな鮮血色の刃に姿を変えていた。そして刃は一層強い光を帯びる。

「まずい、下がれ!」

 叫ぶや否やトビアスが躍り出る。真紅の軌跡を残して飛ぶ刃は、飛び出しざまのトビアスの一刀と交錯し――

 バギャン、とけたたましい音を立て、鮮血の刃は二つに割れ砕けた。

 そこから息つく暇もなく刃の弾幕が降り掛かり、トビアスは両の剣に加え、蹴りまで織り交ぜて飛来する血の色の刃を迎撃していく。その音はすさまじく、まるで鉄塊に水晶の雨が降り注ぐかのような、とんでもない音の連続だった。

「これで――最後だ!」

 語気に気合を乗せて繰り出されたトビアスの後ろ回し蹴りが、最後の一片――刃渡り二メートルにも達しそうな巨大な刃の側面に命中し、真横へと叩き飛ばされていく。と同時に、血色の刃の猛攻をしのぎ切ったトビアスもまた、その場に崩れるように倒れ込んだ。

「だぁーっ、くそ……流石に、立ち上がれねえ、な」

「構わん、寝ておけ。即座に飛ばせる血は今ので使い切ったはずじゃ」

 息も絶え絶えなトビアスにそう返すと、今度はラウレンスが両手を掲げる。その手の先を見ると、今の攻防の間にも魔狼は距離を詰めており、しかも同時に十分に加速しきってもいた。

 いや、如何に魔狼が速度を上げようが、俺の右拳であれば迎撃するのに不足はない。これは自信というよりも、これまでの結果から来る確実性の高い予想のようなものだ。

 だが、不安要素がないわけではない。俺が対処できるのは、基本的には一方向から来る一つの攻撃に対してだけ。さっきの飛び道具のような攻撃をまた繰り出されると、俺ではどうしようもない。

 と考えていると、俺の心を読んだかのように、ラウレンスが声をかけてきた。

「心配はいらぬよ、カジナ殿。確かに奴はまだ手札を残しておる。じゃがな、そんなものは使い切らせればいいだけの話よ!」

 啖呵を切ったラウレンスの手から伸びるのは、螺旋を描く緑の輝線が6本。輝線は即座に気流に変じ、風の砲身をそこに作り出す。構築されていくのは、まぎれもなく『六重螺旋・真空砲』だ。

 そして、その特徴的な風の動きでラウレンスの次の手を察知したのは俺たちだけではなかった。

「ヴァルッ!」

 短く吠え声を上げ、魔狼が姿勢を低くした。魔狼もまた、二度も受けた大技の予兆を見逃してはいなかった。

 これでは避けられてしまうのではないかと一瞬考えた後に、俺は理解した。これは避けさせるためのなのだと。

 直後、魔狼は勢いよく踏み切って高々と飛び上がった。ラウレンスが『真空砲』を再構築する時間よりも、自分が着地――否、着弾する方が早いと踏んだのだろう。実際、その見立ては合っている。無論、ラウレンスの妨害がなければ、だが。

 当然のようにラウレンスは作りかけていた『真空砲』を消滅させ、緑に光る極細の直線を、斜め上へと何本も走らせていく。

 光の線一本は風の流れの一本にすぐさま形を変え、大樹の幹のような極太の気流が、魔狼目掛けて殺到していく。『真空砲』が技巧の術であれば、これは物量にあかせた力技と言える。これでは魔狼も身動きが取れないどころか、さらに高く吹き飛ばされてしまうはずだ。

 しかし、そんな圧倒的な力を行使しながらも、ラウレンスの顔は晴れなかった。

「飛び技は悪手だと言ったはずじゃがな……」

 その顔は落胆か疑念か。だが次の瞬間には、そんな陰気な表情はラウレンスの顔から吹き飛んでいた。


 音はなかった。

 生じたのは、鮮血の如き赤い光。

 宙に飛び上がり、ラウレンスの風によって押し流されていくはずだった魔狼の体に、斑点のように赤い光が宿っていた。

 まだらだった光はすぐさま点に収束し、魔狼の体表に生え並ぶ黒曜石の刃の一つに宿っていく。そうして出来た真紅に光る刃は、魔狼の体の複数箇所に点在していて、その赤い光の力によって刃は瞬く間に変形していった。

 ただひたすらに、まっすぐ、長く。

 そして、その変形を待っていたかのように、魔狼が空中で体を一回転させた。

 瞬間、魔狼を吹き飛ばすべく用意されていた気流の束が、ズタズタに切り裂かれて霧散した。


 魔狼の四肢が大地を踏む。巨大で頑丈な四本の脚は落下の衝撃をがっしりと吸収し、前方への推進力に変えて、なおも走る。

 その巨体に追いすがろうと何条かの風が纏わりつくが、しかし魔狼の走りを止めるほどの力は風にはなかった。

「くぅ……してやられたのぉ」

 あえぐようにラウレンスは呻いた。そう、相手の手札を使い切らせるという作戦は、向こうも同じだったのだ。その結果、今の一合は魔狼の作戦勝ち。大量の風の流れを切り刻まれたラウレンスはすぐには次の手を繰り出せず、対する魔狼は変わらず走り続けている。

 そして、俺たちに残されたのは俺という切り札が一枚きり。

 もう、やるしかない。

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