風より出でて風より速し

 胴体が地面に付きそうなほどに重心を下げ、魔狼は走ってくる。ラウレンスの風の力を警戒してか速度は抑え気味だが、あの巨大な歩幅だ、悠長に構えている暇はない。

「来ます! 迎撃しますよ?」

 半ば反射的に注意を呼び掛け右拳を握った俺だったが、ずいっと俺の前に立ったのはまたしてもラウレンス。

「カジナ殿はもう少し待っててくだされ」

「な、なぜです?」

「次はおそらく噛みつきですからな。苦手でござろう、あのテの攻撃」

「あ、それは確かに……」

 俺の肉体は、右腕以外は普通の人間以下の強度しかない。そんな俺でもこれまで戦ってこられたのは、片腕で対処できるようながほとんどだったからというのもある。言い換えると、一方向からの一撃というものに対しては俺はかなり強い。

 逆に、二方向以上、それも左右や上下など真逆の方向から同時に繰り出される攻撃に対しては、俺はめっぽう弱い。理由は言うまでもなく、まともに戦闘に使えるのが右腕一本だけだからだ。そして、この魔狼ほどの巨体であれば噛みつきも二方向から繰り出される攻撃になる。

 というわけで、俺からすれば噛みつき攻撃に晒される危険性を回避できるのはありがたいことなのだが、まさかそこまで考えてもらっているとは思ってもみなかった。

「すみません、ありがとうございます」

「よいよい。カジナ殿にはもう少し後できっちり活躍して頂きますのでな。それより――」

「分かっています。私の番ですね!」

 凛とした声で答えながら、イェーナが弓を引く。

「そういうことじゃ。わしが一発叩いてから、まあ目でも狙って射っとくれ」

 そこまで話すと、ラウレンスは懐から握り拳大の石を改めて取り出した。どうやら今度こそあの石を使うらしい。

「さあて、まずは出鼻を挫かせてもらうぞい」

 年老いた風の繰り手が浮かべる笑みは、自信と歓喜と獰猛さに満ちていた。


 空中に緑の輝線が走り、再び風がざわめき始める。 

「なに、理屈としては簡単なことじゃ。――風とはすなわち空気の流れ、これを束ねて六重螺旋」

 極細の緑の光が6本現れ、ラウレンスの手元から前方へと、それぞれが互いに一定の距離を保ったまま螺旋を描いていく。その様子はさながら、銃身に刻まれたライフリングのごとく。

「――螺旋は空気を引き合いて、内に生ずるは真空のみち

 言葉に従うように6本の輝線は気流に変化し、一分の隙もないであろう円筒を作り出す。手前側の開口部もすぼむように閉鎖され、円筒の中は気流によって減圧されていく。

 ラウレンスの唱える言葉通りに、風が操作されていく。つまりこれがラウレンスの詠唱ということだ。だが、その雰囲気はエドムントのものと比較して、あまりにも。エドムントのそれは言わば修飾。豪華に飾り立てるような言葉選びだった。

「――圧し縮めた空気と共に、込めるは丸い石ひとつ」

 しかし、このラウレンスの詠唱は違う。形と理屈を淡々と述べているわけで、要するにこれは設計図なのだ。詠唱という設計図に従って組み立てれることさえできれば、必ず同じ結果に至る。誇張や粉飾とは真逆の、論理的で科学的な詠唱だ。

 そうして組み上げられたものは、火薬に相当する圧縮空気と、弾丸に相当する石、それらが装填された長大な銃身、否、このサイズなら砲身と呼ぶべきか。

 つまりこれは風の力で作り上げられた大砲に他ならない。


「――行く手に真空、背に爆風、石の疾駆はしるは風より速く」

 宙に描き出された風の大砲が完成する。詠唱開始からは十秒足らずといったところだが、その間に魔狼もかなり距離を詰めてきている。魔狼が巨大すぎて距離感が狂うが、もうほとんど猶予はないはずだ。

 しかし、俺は確信していた。ラウレンスのこの一撃は、確実に魔狼の脚を止めさせることができる。それだけの威力を秘めていると。

 そして、魔狼の鼻が風で作られた砲身の延長線上に来た瞬間、ラウレンスがその名を叫んだ。

「撃てぃ、『六重螺旋・真空砲』!!」

 瞬間、目の前に雷でも落ちたかと錯覚するほどの轟音が炸裂し、砲撃の余波が暴風となって吹き荒れた。



 悲鳴を上げ、たたらを踏んで、見上げるほどの巨体が立ち止まった。

 痛みを紛らわそうとしてか魔狼は大きく頭を振り、血が撒き散らされる。

 ラウレンスの一撃、『六重螺旋・真空砲』により超音速で放たれた石は、魔狼の鼻のすぐ横から耳のすぐ下までを表面を覆っていた黒曜石もろとも撃ち抜き、巨大な裂傷を残していた。

「見たかよカジナ。これが風使いラウレンスっつー奴だぜ」

 カジン・ケラトスが後ろからしゃがれ声で話しかけてくる。

 いや、しかし、見たも何も……

「とんでもない、ですね」

 言葉にできたのはなんとかそれだけだった。

「まーそういうこった。若いころは今の技使って単身で神殺しを成し遂げたって話でな」

「単身で神殺し!?」

 声では驚きながらも、俺は一方で納得もしていた。確かにそれほどの実力者ならば神であるカジン・ケラトスも知っていて当然だと。

「つっても、神っつーのもその辺の雑魚から月だの太陽だのまであるからな。格で言うならおめーの大地の神殺しの方が上だがよ」

 ……そういえば俺のも神殺しだったか。単身ではないけど。

「ヴァルァアア!!」

 と、俺たちの緊張感の欠けた会話を邪魔するかのように魔狼が吠えた。

 見れば、ラウレンスの一撃で業を煮やしたのか、牙を剥き、怒りを目に灯して魔狼は再び駆けだそうとしていた。だが、こちらに狙いをつけるために頭を下へ向けた瞬間、またしても魔狼は悲鳴を上げる羽目になった。

「命中です。流石に魔狼だけあって眼球自体も頑丈ですが、痛みは感じるようですね」

 標的から目を外さずに、淡々とイェーナが言う。昨夜の戦いでもそうだったが、『針通し』の彼女にとってはこれほど巨大な魔狼の目など、少々動いていたところで狙いにくくもなんともないのだろう。

 そして、岩石の巨人なんかとは違い、痛覚のある魔狼にとっては痛みなどそうそう無視できるものではない。

 再度の痛みにより攻撃を妨害された魔狼は怒り心頭と言わんばかりに牙を剥き、怒りに身を任せたかのような荒々しい走りで飛び込んできた。

 その鼻面目掛けて、緑の光が六重螺旋を描いていく。そうして再び風の大砲を組み上げながらラウレンスが口にしたのは、詠唱ではなかった。

「……わしはなぁ、お前みたいな頭のいい奴は嫌いじゃないぞ」

 そう言いながら、ラウレンスは懐からもう一つの石を取り出した。それを装填しつつ、呟く。

「ただ、巡り合わせが悪かったんじゃ。恨むなら、わしとお前さんの不運を恨むことじゃな」

 砲身の底に弾丸が設置され、螺旋の砲身は唸りを上げて手前から奥へと吹き抜けていく。あとはもう、圧縮空気を解放して発射するだけの状態だ。

 そして、二度の痛撃で怒りに身をやつした魔狼は、俺たちを噛み砕かんと半ば本能的に口を開き牙を光らせた。

「――撃て」

 砲に込められた石は、圧縮空気が膨張する勢いに後ろから押され、六重螺旋の空気の流れによってより加速しつつ横回転、進行方向の真空により本来音速で生じるはずの空気の壁をも超えてさらに加速、超音速の弾丸となった石は一瞬で魔狼の口内に飛び込み――二度目の轟音。


 ◆


 暴風を撒き散らし、爆音を轟かせ、おそらくはラウレンスの狙い通りに噛みついてくる魔狼の口目掛けて撃ち込まれた二度目の砲撃。

 この上なく有効で、この上なく凶悪な一撃は、けれども魔狼に致命的なダメージを負わせるには至らなかったようだった。

「……手を抜いたつもりはないんじゃがな」

 放たれた弾丸は、確かに魔狼の口へと飛び込んでいった。だが、ギリギリで攻撃を察知した魔狼は、命中する寸前で体をのけぞらせて頭を振り上げた。

 その結果、口内から脳や延髄を狙ったラウレンスの砲撃は、狙いよりも下に命中。下顎の付け根を貫通した弾丸は喉元から胸までの黒曜石を割り砕き、皮膚を浅くえぐっただけで抜けていた。

 ボタボタと、新たに開いた傷口からまたしても大量の血が零れ落ちる。だが、魔狼はもはや気にも留めていないのか、ヴォウと一つ吠えてみせた。まるで「今のは俺の勝ちだ」とでも言うように。


 再び、魔狼は俺たちに背を向け、鮮血を散らしながら駆けていく。

「次が正念場じゃな」

「また勢いをつけて仕掛けてくる気ですね」

「つっても、同じ手で来ることはないだろうな」

 俺たちも、もう魔狼が逃げるわけではないことなど理解していた。加えて、手傷を負ったからといってやけになってゴリ押ししてくるような相手ではないことも。

「……俺の出番、ですか」

 ラウレンスも、今度ばかりは自信満々に断言するというわけにはいかないようだ。

「左様。……おそらく、じゃがな」

 分かっていることとしては、これまで通りの攻撃は来ないだろうということ。これまでと同じ技を使うにしても、一度対処されたということをこの魔狼は理解し学習するはずだと。

 そして、魔狼が遠くでこちらに向き直る。


 ヴァルオオオオオオオオオオオオ――


 血に塗れた鼻を天高く掲げ、長い長い遠吠えを響かせる。己が存在を全世界に知らしめるかのように。

 そして魔狼に応じるように、ラウレンスは風を操って炸裂音を一発鳴り響かせた。

「さあ、来い。決着を付けようぞ」

 炸裂音が号砲であったかのように、魔狼は走り出した。

 強く、速く、大地を蹴って。

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