黒獣と風刃

 黒曜の獣が大地を蹴って草原を駆ける。

 午後の明るい日差しを一身に浴び、全身に纏った黒曜石の刃を煌めかせる様は、幻想的と言ってもいいだろう。

 ただし、その獣が体高10メートル、体長20メートル弱の超巨大な化け物で、一歩ごとに大地を軽く揺らしているのでさえなければ、だが。


「おいおい、何のつもりだよ。急に背中向けて走り出したかと思ったら、今度はこっち向いて突っ込んでくるみたいだぜ?」

 トビアスは両手の剣を油断なく構えながらも、困惑したようにそう笑った。

 状況はというと、俺たちに宣戦布告するかのごとく遠吠えをした魔狼が、次の瞬間には頭をそっぽ向かせて走って行ってしまったというものだ。そして今まさにUターンしてこちらに戻ってきている。

 いや、しかし、本当に狙いが分からない。そもそも魔狼に思考力みたいなものがあるかどうかも知らないが、犬程度の知能があるんなら敵には噛みついたり引っかいたりしそうなものだが……。

 と、一直線に走ってきていた黒い狼が、不意にその体を屈ませた。直後、ドオンと爆発じみた音を轟かせ――

 ――魔狼の巨体が宙を舞った。


 ……跳んだ。あの象よりデカい図体で、全身に黒曜石なんていう余計なものまで付けて。

 まるで、跳べて当たり前だと言うかのように、軽々と魔狼は宙に舞う。

 遅れて俺たちの足を震動が掬う。これではまともに移動もできない、と気づいたところで、

 自分が置かれている窮地にようやく気が付いた。


 魔狼の巨体が飛び上がった際の揺れのせいで移動すらままならず、その状況で頭上から降ってくるのは何トンあるいは何十トンの魔狼の巨体。這いつくばって逃げたところで、進めて数メートルがせいぜいだろう。今の今まで一か所に固まっていたのだ、これでは全員は助からない。

 もう俺が右拳で止めるしかないと覚悟を決めながら、頭上を見上げる。左手で体を支えつつ、右拳をググッと握り込んだ、その時。

「カジナ殿ぉ、今はわしに任せてくれんかのぉ」

 声のした方を向くと、纏ったローブを風にはためかせて、ラウレンスが立って――否、浮いていた。

「……浮いてる」

「そりゃ風使いじゃからなぁ。それより、よろしいかな?」

「あ、はいっ! 任せます、けど……」

 けどやれるんですか、と続く言葉を俺は飲み込んだ。ラウレンスはしわだらけの顔にいたずらっ子のような笑みを浮かべ、頷く。何をする気か知らないが自信はあるみたいだし、これ以上食い下がるのも邪魔するだけだろう。俺は頷き返し、おとなしくラウレンスのやり方を見守ることにした。


 持っていた石はどこかにしまったのか、ラウレンスは空になった両手を天に掲げていた。その先にいるのは、高々と飛び上がりながら体を丸めて、鋭利な刃だらけの背中をこちらに向けている魔狼の姿だ。その巨大な影に向かって、ラウレンスは朗々と呼びかける。

「噛みつくでもなく、踏むでもなく、その巨体と刃とを武器としてわしらを殲滅せんとする様、狼のくせに大層な切れ者と見た!」

 そうなのだ。今更気付いたが、この魔狼の狙いは無数の刃で突き刺しつつ巨体の重量で圧殺するというもの。そんな攻撃を選べるのは、相手に対する自らの強みを認識しているが故だろう。先ほどの無意味に思えた後退からのUターンも、助走をつけて跳ぶためだったと知れば、なかなかに合理的だ。

 しかし、そうと知ってなお、ラウレンスは魔狼を笑う。

「だがのぉ、お主には一つ教えてやらねばならんようじゃ。それはな――」

 途端、何条もの緑の輝線が宙に走った。それは神の力が流れてゆくみち。光の線が空中に描き出した直径数メートルもの柱は、一瞬のうちに吹き荒れる風の奔流に姿を変えていた。

「風使いの前で飛び技を使うなど、愚の骨頂だということじゃあ!」

 ラウレンスを起点に斜め上に向けて吹き抜けていく疾風の束。その先には、今まさに放物線の頂点を超えて落下し始めた、空を半分覆うほど巨大な魔狼の背中。その背中に、ジェットエンジンもかくやという轟音を鳴り響かせ、荒れ狂う暴風の柱が突き刺さる。

 魔狼の落下が、止まった。

 ガロロロロォ……と怒りをにじませて魔狼が唸るが、空中で跳躍の勢いを打ち消された魔狼にはこれ以上打つ手はない。


 思わず唾を飲んだ。相手がひとたび地面を離れれば、例えそれが巨大な魔狼であろうとも、一切抵抗させることなく宙の一点に留め置くことができる。それがこの風使いの実力なのだと。

 この状況から抜け出すとすれば、推力を生み出して逃れるか、術者であるラウレンスを攻撃するか、風の流れを妨害するか、くらいしかない。

 それを理解しているのかどうか、魔狼は押し潰し攻撃のために丸めていた体の一部、尻尾だけをピンと伸ばした。

 本来ならば毛が密集していてふんわり柔らかそうなはずの狼の尻尾だが、今目の前にあるものはほとんど真逆の印象と言っても過言ではない。ハリネズミかヤマアラシかというほどに剣のような刃が生え並ぶ、凶悪な代物。その先端が、不意に赤い光を放った。

「グアゥ!」

 魔狼は短く吠え声をあげ、呼応するように尾の先端の光が一層強く輝いた。直後、赤い光は火花のように上下左右へと弾け、弧を描きながら俺たちを狙って飛来する。その数、十数個。

「トビアス、そっち半分は任せたぞい!」

「へいへい、お安い御用だぜまったく!」

 打てば響くような掛け合いと共に、ラウレンスは片腕を左へ差し向け、トビアスは右側へ正面を向ける。

 降り注ぐのは赤い光の尾を引いた黒曜石の刃。速度は俺の目でも追える程度だが、ほぼ同時に降ってくる刃はちょっとした弾幕だ。しかし、迎え撃つ二人には焦りの色は全くない。

 ほぼ直線の軌道になった光を宿した黒曜石の弾幕は、そのまま曲がりも止まりもせずに飛来。ギリギリまで引き付けたところで、トビアスの二刀が閃いた。

 金属音にも近い剣戟の音が間隙なく鳴り響く。双剣は縦横無尽に舞い、飛来した黒曜の刃全てを打ち落とし、弾き返し、叩き割っていた。


「もうちょっと何か仕掛けてくるかと思ったが、全然余裕だったな。そっちはどうだよジジイ」

 バトンか何かのようにくるくると双剣を回すほどの余裕を見せつけながら、トビアスは肩越しにラウレンスを振り返る。

 しかし、返ってきたのは不服そうな唸り声だった。

「うーむ、防ぐには防げたが……」

「おい、どうしたよ。怪我は……してねえか。ビビらせやがって、いつも通りじゃねえか」

 そう言って笑い飛ばそうとするトビアスだったが、その言葉を遮るように、ラウレンスは一点を指差した。

「ちょいと対処に手間取ってな、風の出力が狂って逃げられてしもうた」

 しわだらけのラウレンスの人差し指が示した先で、巨大魔狼は悠々と地面に降り立っていた。

 魔狼は着地するや否や、身を低くして猛然と突っ込んできた。

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