光明の一矢

 再び、少年は敵に向かって駆けていく。

 行く手に聳え立つは岩山の如き超常の巨人。

 あれに並ぶほど巨大なものなど、私の知る限りでは森一番の大木くらいしかない。そして言うまでもないが大木は滅多なことでは動かない。

 だから、あれほどの物が動くというだけで、私は気圧されていた。

 だというのに、カジナという名の少年は迷う風もなくまた巨人の足元へと肉薄していく。


 確かに彼は神憑きで、私は弓の腕が優れているだけの人間だ。

 彼は巨人に対抗する力を持っていて、私は力を持っていない。

 だが、それだけの違いだろうか。

 もし私が神憑きで、巨人と渡り合えるだけの力を持っていたとして、果たして彼のように勇敢に後ろも見ずに駆け出せるだろうか。

 湧き上がる気持ちの正体は、自分でもよく分からない。



「あれはなんだ、壁か?」

 訝しむようなトビアスの声が聞こえた。その一声で内に向かいかけていた意識がハッと元に戻る。そうだ、今は戦闘の真っ只中。気を抜いていい道理はない。

 自分に言い聞かせると、私はトビアスの視線を追う。そして探すまでもなく壁とやらは見つかった。

 高さはせいぜい人間の倍。だが、幅は巨人自身の背丈ほどはあるだろう。

 そんな城壁のような岩の板がカジナの行く手、巨人との間に立ちはだかっていた。

「なぜあんなものを……?」

 自分の口をついて疑問が飛び出す。

 壁といえば防衛に使うもの。だがそれを展開したのは現状明らかに優位に立っている巨人の方だ。何より、半端な壁ではカジナは止められないのは巨人自身がよく知っているはずで……。

 私と同じ疑問を抱えているのか、カジナが少し首を傾げるのが見えた。

 だがそれでも壊して進むのが相手への最短経路。警戒しつつ、カジナは拳を振りかぶる。


「……いや、ありゃ罠か」

 ラウレンスがぽつりと呟いたのと、カジナの拳が壁に命中したのはほぼ同時だった。

 湖の薄氷に石を投じるように、壁はあっという間に砕けて崩壊していく。走る亀裂は上下左右に伸びていき、

 否、あれはもはや地面ではなかったのだ。

 巧妙に隠された壁とひと続きの板が、壁の手前数歩分を覆っていた。それが砕けて顕わになるのは堀のように抉られた横長の窪み。その暗闇の中へとカジナは転落していく。

 壁と同時に作られた大がかりな落とし穴。それが巨人の仕掛けた罠だった。


「なっ……カジナ様っ!?」

 見えなくなった少年の姿に、私は思わず叫んでいた。だが、落とし穴の中から彼が戻ってくる気配はない。

 それどころか、穴の中からは白い光が漏れ出てきていた。どうやら巨人は落とし穴に落とすだけでは満足せず、まだ何かを仕掛けているようだった。

 ギリギリと弓が軋む。そうと気付いた時にはもう私の手は矢をつがえていた。

 たわんでいた弓が元に戻り、その復元力で矢が押し出される。ビシュッと空気を裂いて飛んだ矢は寸分違わず巨人の胴目掛けて飛び――激しい音だけを残して弾かれた。

 そう。そうなのだ。

 いくら私が怒り狂おうとも、私の非力な腕ではあの岩に穴一つ開けることすら叶わない。

 体は訓練によって刷り込まれた通りに次の矢を矢筒から抜き出していた。だがその矢をつがえる気は起きなかった。

 どうせ、私にできることなんて……



 それから程なくして、穴の中から届く光は急激に収まっていった。

「ははっ、やっと諦めたみたいだね。じゃあコロそうか」

 無邪気な子供の声で巨人は言う。その声と共に、カジナが落ちた穴から一つの物体がせり上がってきた。

 真四角な箱。大きさは人間一人が十分に収まるくらい。その箱は同じく岩でできた台座の上に鎮座していた。

 箱は台座によって地上より少し高く押し上げられ、静止した。


 粗削りの石の板を六枚張り合わせたような、飾りも何もないただの箱。

 あの箱の中にカジナは囚われているのだろう。

 だが、そのこと自体が異常だった。トビアスも同じ考えに至ったのか、眉間にしわを寄せて言う。

「これまで通りなら、カジナ殿は自力でぶち破ってきそうだが……。身動きを封じられてんのか?」

「あるいはカジナ様でも破れないほどに頑丈な作りになっているか、でしょうか」

 そうして話している間にも、巨人は早々に箱に近付いていく。まるで私たちのことなど初めから存在していないかのように。

「性急じゃな」

 そう言ったのはラウレンスだった。

「どういうことだジイさん」

「カジナ殿が完全に出て来られんなら、奴はあれほど急ぐ必要がないじゃろ? じゃが実際は、ほれ、あの通り」

 ラウレンスが顎で指した先で、巨人は右足を浮かせ始めていた。あの足で巨人は箱もろともカジナを踏み潰すつもりなのだろう。

 もはや猶予は十秒とない。

 確かに巨人は焦っているようだった。だが、それならカジナはなぜ出てこない?

「カジナ様は一体何を!?」

 思わず声を荒げてしまう。

 あの足が上がって振り下ろされた時には、あの少年は、私を助けてくれた少年は死んでしまうかもしれないというのに。

 また私は命の恩人が死にゆくのを黙って見ているしかないのか。

 そんな思いは二度としなくないと思ったのに。

 結局、私には何もできない……?


 ――分かんなくなった時は、相手になったつもりで考えてみるんだ。


 不意に、耳元で優しくて低い声が囁いた、気がした。

 それはもう二度と聞けないはずの声。いや、これもおそらくは幻聴の類いだろう。

 だってこれは、私たちを逃がすために一人死地に残って果てた私たちの指揮官、私の父にして兄である人、サイラスの声だから。


 溢れそうになる涙を堪えながら、言われるままに顔を上げる。そこにあの人の姿は、ない。

 それでも、あの人の残してくれたものは私の中にある。

 そう、まだだ。まだ考える時間はある。

 巨人の能力、カジナの力、私に出来ること、そして。

 ――任せましたよ。

 力いっぱい瞼を閉じて視野から涙を絞り出し、明瞭になった世界の中で、私は弓を引いた。

 カジナは動けないのではない、待っているのだ。私の合図を。


 つがえた矢の鏃の先で、巨人の足が地面に向かって動き始める。

 その瞬間に全身全霊を注ぎ込む。

 両手を通して、引き絞った弓に、そしてつがえた矢に、ひとつの決意だけを込める。

 誓ったのだ。今度こそ助けてみせると。


 放たれた矢は風を切り、緩やかな弧を描いて、巨人の脛の中心に命中。

 岩塊に弾かれた矢は鋭い音を響かせた。


 ◆


 光の全く届かない完全な闇。その中で、俺は右拳を握り込んだまま待ち構えていた。

 来ないかもしれないと思っていたそれは、しかしこの暗黒の中までしっかりと届いた。


 カァン、と音が響いた。

 遮る岩越しにもはっきりと聞こえたその音は、まさに闇を裂いて行く手を照らす一筋の光。

 俺は音の聞こえた方向――真上に向かって拳を振りかぶる。

「そこだぁ!!」

 俺を囲んでいた箱はその瞬間に割れ砕けながら、しかし破片の大部分は一瞬その場に留まって光の届かない空間を僅かながら維持する。合図さえなければ、俺も瞬時に攻撃の方向を決めることは出来なかっただろう。

 だが、俺には頭上から振り下ろされる巨岩の塊が見えていた。

 ならば、後はもう全力でぶち抜くだけだ。


 全力で打ち出した右拳が、俺を押し潰さんと降り注ぐ巨岩に勢いよく命中した。

 先程のような押し負ける前提の攻撃ではない。俺を殺すべく放たれた、全力の一撃。

 その一撃を、俺の拳が真正面から迎え撃った。


 爆発にも似た轟音が全身を打ち震わせ、俺を囲っていた箱の残骸が瞬時に消し飛ぶ。

 そして、頭上、視界を埋め尽くすほど巨大な足裏に、縦横無尽に亀裂が走っていく。

「あ、うそ――?」

 結末を察したかのように、少女のような声が零れ、掻き消えた。


 直後、跡形もなく砕けた巨人の脚は噴水のように天高く吹き飛び、灰色の荒野に瓦礫の雨が降り注いだ。

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