小休止

 完全な暗闇の中で、私は目を覚ました。普段なら開けられている覗き穴が塞がっているということは、おそらく今は空の上だろう。

 そこまで考えると、体の芯から怒りが湧き上がってくるのを私は感じた。

「ねぇ、なんで逃げてるの? 殺していいって言ったのは嘘だったの!?」

 湧き出る感情のありったけを、私は目の前の暗闇へとぶつける。でも、返ってくるのはいつもと同じ、何も考えてないような低い声だった。

「無論、嘘ではない。だが、我々の使命は殺すこと。その達成が危ういと感じたがために、一時の後退を選んだまでだ」

 そんないつも通りすぎる声に、私は文句の一つでも言ってやりたい気分になる。けれど、それを言ったところでこのひとには通じないというか、影を殴っているような気分にしかなれない。

 だから代わりに、もう少し意味のあることを話すことにした。

「これまでもかみきなんて何人も殺してきたじゃない。今更あんなのに私たちが負けるとでも思ってるの?」

「否、あれはただの神憑きではない。奴も言っていたが、あれは相当に特殊な存在だ」

 その言葉に、思わず何も言えなくなるほどに驚いた。このいかにも偉そうで、実際その態度にふさわしいだけの力を持っている神が、よその神の産物を評価するなんて初めて聞いたからだ。

 そんな私の沈黙をどう受け取ったのか、神はいつもの調子に戻って言った。

「いや、案ずることはない、我が同志よ。いかに特殊とはいえ、所詮は我に遠く及ばぬ下位の神の産物。先の不明瞭な戦況ならいざ知らず、仕切り直して正面から向かえば我らに負ける道理はない」

 その声は、初めて会った時と何も変わらない。偉そうで、自信にあふれていて、使命のこと以外は何も考えていない。そんな、これまで出会ったどんな大人とも違う声に、私は改めて安堵を覚える。

「わかった」

 ただ一言、私は答える。それ以上の言葉は不要だ。

 そして神も変わらぬ口調で言う。

「そうか。ではしばし眠るがよい、我が同志よ。大いなる殺戮のためにな」

 物騒な、けれど耳に心地よい言葉を聞いて、私の意識は沈んでいく。

 そして私を包む岩石の球が地面を割り砕く音を遠くに聞きながら、私は眠りについた。


 ◆


「はぁー、マジで死ぬかと思ったぜ……」

「やれやれ、全くじゃ。あんなの、命がいくつあっても足りんぞ」

 口々にぼやきながら、トビアスとラウレンスが崩れるように腰を下ろす。

 私は傷だらけの二人に手を貸すべく駆け寄っていこうとした、のだが……こちらに気が付いた二人は顔を見合わせるなり、犬でも追い払うかのように揃って手の甲を差し向けてきた。さらに妙なことに、二人は揃いも揃って変な笑顔を浮かべている。

 そんないつもと違う二人の様子に眉をひそめていると、背後から足音が聞こえた。

「あの、さっきは助かりました。ありがとうございます」

 事もあろうに、私たちを救った少年は、丁寧に感謝を述べてきた。


「いえ、そんな! お礼を言うのはこちらです! 危ないところを助けていただき、本当になんとお礼を言えばよいか……」

 慌てて居住まいを正して私は言った。そう、言葉だけじゃ足りないくらいだ。

 本当に何もかも終わってしまうと思えたあの状況に、自分が下敷きにされる危険すら顧みず、立ち向かってくれた。

 そんな勇気ある少年は、黒い癖毛を掻きながら困ったように答えた。

「あ、いや、あれはそういうつもりじゃなかったっていうか、その、カジン・ケラトス……様? に言われたからそうしただけで……」

 ちらりと少年が横を見た。そこには宙に浮かぶ大人の頭くらい大きな目玉。カジン・ケラトスという名は聞いたことはなかったが、どうやら人間に友好的な神なのだろう。

 とりあえずは礼儀正しく振る舞うべきだと判断し、私は顔を伏せようとした。神々に対する敬意を示す姿勢だ。だが、目玉の神がそれを制した。

「いい、別に気にすることじゃねえ。こいつの肩慣らしを兼ねてデカブツに喧嘩売りに来ただけだ。結果的にお前らを救ったのかもしれねーが、それはこいつ――カジナの手柄だ。俺様は知ったこっちゃねーよ」

 口調と態度の割にいい人、もといいい神だなと思ったのも一瞬、私は重大なことに気が付いた。

 ――カジン・ケラトスとその力を借りし人間よ、次に我が前に姿を晒しし時が貴様らの最期だ。

 あの大地の神の捨て台詞。どう考えても今狙われているのはカジン・ケラトスとその神憑きである少年――カジナだ。

 今のうちに逃げれば砦まで生きて帰れる、と考えたのは本当だ。私たちが逃げたところで、この神と少年は文句ひとつ言わないだろうし、大して気にも留めないだろう。そんな予感があった。

 でも、命の恩人に背を向けて逃げ帰るなんてことは、私にはできなかった。

 そんな経験は、二度としたくないから。


「一つ、お願いがあります。……あなた方と共に、戦わせてください」


 ◆


 それは俺にとっては嬉しい申し出だった。

「おめーが決めろ。俺様はどっちでもいい」

 目玉の神様もそう言ってくれているなら、答えは決まったようなもんだった。

 なので、少しでもかっこよく見える答えを考えながら、俺は弓を背負った黒髪の少女を見た。

 理由としては簡単。戦うなら戦力が多いに越したことはないし、何よりこのとびっきりの美少女と少なくともあの神憑きを倒すまでは一緒にいられるからだ。すらりと伸びた肢体に艶やかな黒髪のポニーテール、顔は可愛いより綺麗という形容が似合う大人びた美しさで、そして何より目が――

 と、俺はそこで彼女の異変に気が付いた。凛とした印象を抱かせる切れ長の目、そこから覗く黒曜石のように美しい漆黒の瞳を、うっすらと涙の層が覆っていた。

 そうと気付いてしまったら、放っておくわけにはいかないだろう。

「力を貸してもらえるのは、俺としても大歓迎です。でも――」

 言葉と同時に、彼女の手を取り両手で包み込んだ。

「その前に、聞かせてください。あなたの話を」

「え、は、話って何の……?」

「そんな泣きそうな顔でお願いをされたら、誰だって気になりますよ。無理にとは言いませんけど、俺でいいなら事情を聞かせてください」

 言ってしまってから、なかなかやばいセリフを真顔で言い放ってしまったことに俺は気付いた。どこぞの騎士とかイケメンならともかく、とても平凡な一般人が言っていいセリフじゃない。

 しかし、俺の心の中など知る由もない少女はそれで説得されたのか、複雑な笑みを浮かべながらうつむいた。

「……分かりました。つまらない話ですけど、聞いてくれますか?」

 俺が頷くと、一つ大きく息を吸ってから、彼女は語り始めた。



 彼女の国には、神憑きを始めとするに対抗するための組織として、討伐隊というものがあるという。その討伐隊に弓の腕を買われて入った彼女は、そこで一人の男と出会った。男の名はサイラス。人並み外れた怪力と体力を持つサイラスは国でも指折りの戦士で、同時に高い知性とカリスマ性を備えた優秀な指揮官でもあったという。彼女はサイラスの下でいくつもの戦いに加わり、様々なことを教わって、成長していった。

「ちょうど歳の離れた妹や、あるいは娘のように思われていたのだと思います」

 そう話す彼女の口元は微笑んでいて、彼女自身にとっても彼は家族みたいなものだったと見えた。だが、その穏やかな表情は徐々に悲痛な色に染まる。

 ある日、彼女は一つの大きな任務に参加することとなった。それは大地の神ゴトス・ユエの神憑きの討伐。西の砦の長の一任で招集された精鋭の中にサイラスと共に加わることとなった彼女は、西の砦のさらに西、人間がほとんど寄り付かない荒野の向こう、人跡未踏の森の中で神憑きと対峙した。

 結果は、酷いものだった。一撃で主力の一人が重傷を負って戦闘不能、もう一人の主力であったサイラスも足に深手を負わされた。二人の主力を失っては、神憑き相手に勝機など皆無に等しい。

 そこからリーダーが取る行動といえば、想像に難くない。

「足を負傷したサイラスさんは、私たちに逃げろと言いました。『俺は足をやられたから逃げても追いつかれる。だから足止めしている間にお前らだけで逃げろ』って……」

 それが、俺が現れるほんの少し前の出来事だったという。


 それでも彼女は、気丈に振る舞っていた。

「慣れてはいたんです。戦場に出るっていうのがそういうことだってのは、分かっていたんです。……いつまでも引きずっていてはいけませんね」

 その痛みがどれだけのものか、知識はあっても記憶がない俺には計り知ることはできない。だから俺には返す言葉が無かった。

 代わりに、ひとつ訊いた。

「戦いたいっていうのは、かたきを討ちたいってことですか?」

 正直なところ、彼女の戦う動機が何であるかは俺にとってあまり重要ではなかった。ただ、美しい彼女が復讐心に駆られたあげく命を落とした、なんて展開は見たくない。もし彼女の動機が復讐であるなら、俺は彼女の助力を断ることも考えていた。

 けれど、彼女は縦にも横にも首を振らなかった。

「……敵、というのがあの神憑きのことなのでしたら、私の答えは否定です。私が討つべき敵、サイラスさんを死に追いやった原因は、私自身の弱さですから」

 儚げに微笑む彼女は、薄い薄いガラス板だった。

 ひとたび強い衝撃を受ければ修復不可能なまでに崩壊し、周りの全てをズタズタに切り裂いてしまいそうな、身がすくむほどの恐ろしさ。そしてその恐ろしさは鋭利な切っ先に宿る銀の光沢のように、思わず見とれるほどの美しさでもあった。次の瞬間には嘘のように消えたその破滅的な印象は、けれど俺の脳裏にはこれ以上なく刻み込まれていた。

 俺は心の中でため息をつくと、覚悟を決めた。もう、どうとでもなれ。

「……分かりました。じゃあ一緒に――っと、その前に。名前、教えてもらっても?」

「あっ、私としたことが。ええと……私の名前はイェーナです、カジナ様」

 イェーナ。とても綺麗な名前だ。

「では、イェーナさん。どうか俺に力を貸してください」

「はい、微力ながらお手伝いさせていただきます」

 そして俺たちは再び手を取り合った。



 そうして向かい合った俺たちの間に、灰色目玉の神の声が割り込んできた。

「ほう、どうやら話はまとまったらしいな」

 声のした方に振り向くと、巨大目玉と青年と老人が、まじまじとこっちを見つめていた。

「して、何の相談だったんじゃろうかのう? 長いこと見つめ合ったり手を握ったりしておったがのう」

「あー、なんだかイェーナが遠くに行っちまった気分だなぁ……」

 うん。めっちゃ茶化されてる感じ。

 どう反応したものかと俺が考えていると、握っていた手が結構な勢いで振りほどかれた。

「そ、そういう話じゃないです! まったく、こっちは真剣な話をですねえ!」

 そう言うなり、イェーナはすごい剣幕で詰め寄っていってしまった。

 ……なんだか、振られたような気分だ。

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