【1月刊試し読み】軍神皇帝の寵花

角川ルビー文庫

第1話




 光明の神に愛された地――。

 南方の小国・綸は、大陸中の国からそう呼ばれていた。

 多くの国が日照りや砂塵に苦しむなか、綸国には穏やかな陽光が溢れ、大地を潤す雨が降る。

 綸国を象徴するのが、漣の一族の所有する泉だった。

 泉の水はなぜか湧きでるばかりで尽きることがない。泉を守るのを生涯の使命として生きる漣の者たちは、光明の神の血族だと信じられていた。はるか昔、彼らから泉を奪おうとした皇帝は、疫病に見舞われて死んでしまったという。

 泉の水が湧き続けるのは、光明の神が綸国にとどまっておられる証拠。その慈愛はときに陽光となり、ときに雨となり、綸国にやさしく降りそそぐ。


 綸国は漣の一族なくしては成り立たない。

 代々の皇帝は、漣の娘を后に迎えるのが習わしとなっている。




      1


 その日、綸国の王宮の内苑には民がひしめいていた。

 冬空を鮮やかに染める龍舞。気が早い者たちは肩を組み合って歓びの歌を口ずさみ、子どもたちは吉祥飾りを手にしてはしゃぐ。

 伶藍は控えの間から内苑の様子を窺い、睫毛を伏せた。

 これから皇帝秀峰と漣の一族の娘が民の前で婚姻の誓いを立てる。

 二妃と三妃を娶ることしかしなかった秀峰がようやく一妃――すなわち后として漣の娘を迎えるのだ。誓いを立てたあとは王宮にて婚礼の儀が執り行われ、娘は生涯後宮で暮らす。きっと今日を境に娘の人生は変わっていくだろう。

 虚ろな眸で窓辺にたたずんでいると、玉來がやってきた。

 玉來は伶藍の育ての親でもあるし、漣の一族を束ねる女長でもある。

「いよいよじゃな、伶藍。良い后になれよ」

「婆さま……」

 この胸の内を明かすことができたらどんなに楽か。だけどとうに八十を越えている玉來に心配はかけられないし、控えの間には一族の者たちが多くいる。伶藍は曖昧にうなずくと窓辺を離れ、鏡の前に腰を下ろした。

 繊細な刺繍のほどこされた襦と長裙。透けるほどに薄い披帛は身じろぎするだけでふわりと揺れる。いつもは適当に束ねている髪も、今日は珠飾りと花飾りで彩られていた。

 鏡に映る自分の姿をじっと見つめながらため息をこぼす。

 これが『娘』なら、華やかな婚礼の衣装と美しく結われた髪に胸を躍らすこともしたかもしれない。だけど伶藍は『男子』だ。いくら漣の生まれでも本来は后に選ばれることはない。鏡が映す稀有な容姿――銀色の髪と紺青色の眸が沈鬱さに拍車をかける。

 大陸中を探してもこんな容姿で生まれたのは伶藍だけだろう。両親のどちらかが遠い異国の生まれで、どちらかが漣の生まれだと聞いている。だけどそれ以上のことを尋ねようとすると玉來は昔からぴたりと口を閉ざしてしまうので、伶藍は自分がこの世に生を受けた意味すら分からない。十八になったいまでもありのままを映す鏡は苦手だ。

 皆と同じ、黒い髪と黒い眸ならどんなによかったか。この容姿で生を受け、幼い頃に三度も天災を予見したせいで、伶藍の一生は決まってしまった。

 綸国皇帝に嫁ぎ、后として国を守る――。

『そなたはまさに光明の神の生まれ変わり。いずれ息子の妻になってほしい』

 幼い日の伶藍にひざまずき、深々と頭を垂れたのはいまは亡き先帝だ。

 伶藍はまだ五つ。妻の意味も知らなかった。

 首を傾げる伶藍を当時の漣の長が抱きあげ、その先はきっと先帝と長とで話し合ったのだろう。次の日から伶藍は娘用の服を着せられ、勝手に髪を切ることも、付き人なしで集落の外へ出ることも叶わなくなってしまった。

 伶藍を男子だと知っているのは、漣の一族のなかでも王族のなかでもごく一部。五歳を境に娘として育てられたので、所作は自然と身についている。

 だからこそ、本当の自分が分からない。

 ただ、本当の自分など出せないまま、生きていかなければならないことは分かっている。

「伶藍よ」

 いつの間にかうつむいていたらしい。顔を上げた刹那、玉來の手で頬を挟まれる。

「浮かぬ顔をしてはならん。男の身で秀峰に嫁ぐと思うからつらくなるのじゃ。お前が嫁ぐのは綸国であって秀峰ではない。視えないものを映すその眸を綸国と綸国の民に捧げるのじゃ」

 何もかも見透かされていたことを知り、胸に熱いものがこみ上げた。

 それをぐっと呑み込み、揺れる眸を玉來に向ける。

「ですが、婆さま。私は未来を視ようと思って視ているわけではないのです。綸国を守ろうにもこの眸は二度と脅かすものを映さないかもしれません」

 伶藍が幼い頃に予見したのは、竜巻と洪水、そして砂嵐だ。

 泉のほとりで遊んでいるとき、いきなり頭のなかで突風が吹くような感覚がして、驚いて固唾を?んでいると、目の前にはないはずの光景――竜巻にさらわれる家屋や家畜が視え、わあわあと泣きながら玉來に伝えたのが最初の予見だ。

 伶藍の予見はすぐさま長を通じて皇帝に伝えられ、被害は最小限に食い止められたと聞いている。おかげで伶藍がいたからこそ国は救われたと信じている民が多いようだが、果たして本当にそうなのか。

「婆さまもご存じのように、私は十年以上何も視ていないのです。もしかして幼い頃に未来の風景が視えてしまったのは、偶然の産物ではないでしょうか」

「何を言っておる。視えないのは綸国が安泰だからであろう。この十年、天災らしきものは何もなかったではないか。中立国である綸国の立場を踏みにじり、攻め入ってくる国もない。お前は光明の神の生まれ変わり。婆はそう信じておる。集落を出て、国と民を守る后になることこそ、お前の役目であろう」

 玉來は満足そうに笑うと、伶藍の衣装をざっと直してから窓を振り仰ぐ。

「なぜ雨が降らぬ。伶藍が后になる日だというのに、神事が足りておらんのではないのか」

 綸国では光明の神の祝福があるとき、雨が降ると信じられている。

 だけど窓枠に切りとられているのは白くくすんだ冬の空で、雨雲は見当たらない。光明の神はこの婚姻を憂いているのかもしれないと思うと、少しだけ胸がすいた。もちろんそんなことは口にできず、玉來に叱責されている一族の者たちから目を逸らす。

 そのとき、大扉の向こうから女官の声がした。

「漣の皆さま、皇帝陛下のお支度が整いました。どうぞ広間のほうへお越しください」

 いよいよだ。王宮の三階の広間には、内苑に向かって張りだした露台がある。そこに秀峰と並んで民の前に立ち、生涯をともにすることを誓うのだ。

「伶藍よ。たとえお前が后になっても、婆は死ぬまでお前の婆じゃ。困ったことがあればすぐに婆に言え」

 厳しいことを告げつつも、本当は玉來の胸の内も複雑なのかもしれない。玉來の眸が潤んでいるのが分かり、伶藍の目頭も熱くなる。

「さあ、行くぞ」

「はい……」

 伶藍が立ちあがったのを機に女官たちが大扉を押し開く。

 廊下には王宮づとめの者たちがずらりと並んでいる。無言で頭を垂れる彼らの前を厳かに進み、広間へ向かう。伶藍と玉來の後ろには一族の者たちが列を成す。

 辿り着いた広間では、綸国の王族たちとともに秀峰が待っていた。

 秀峰は伶藍の五つ上。花溢れる綸国の皇帝らしく、落ち着いた風貌をしている。

「我が娘、伶藍をそなたに捧げよう」

 玉來の言葉を合図に、伶藍は秀峰に手を伸ばす。

 ここで秀峰が伶藍の手を取るはずなのだが、秀峰は伶藍の爪の先に触れただけだった。伶藍は誰にもそれを知られないよう、引き寄せられたふうを装って素早く秀峰の前に立つ。

「気に入らんな。男だと恥じらいも知らないのか」

 不機嫌そうな囁きが伶藍のこめかみをかすめる。

 男の身で男に嫁ぐ――それは伶藍にとっての憂鬱で、秀峰にとっての憂鬱は父帝が定めた男子を后として迎えなければならないこと。婚礼の打ち合わせで秀峰と顔を合わせることが増えてから、伶藍はそのことに気がついていた。

 漣の者の前ではやさしげな表情を作ることはあっても、眸は冷たいまま。まちがって伶藍の手が触れようものならすぐさま手を引き、さりげなく手巾で拭う。ほんの一時、二人きりになったことがあるのだが、そのときにかけられた言葉は生涯忘れられないだろう。

「亡き父に選ばれたからといってつけあがるなよ。俺はお前を美しいと思ったことはない。年寄りのように白い髪、毒々しい蒼い眸。これで未来が視えるなど立派な化け物だろうが」

 唇の動き、しかめられた眉根、どれも鮮やかに覚えている。

 息ができないほど胸が苦しくなり、「ならばどうして……」と喘ぐように訊いた。

「仕方がないだろう。父が定めたのはお前、民が望んでいるのもお前。光明の神の生まれ変わりだと信じられているお前を后にする以外、俺には道がない」

 薄々察してはいたが、言葉にされると胸を抉られた。

 亡き先帝もそう。玉來も秀峰もそう。そのままの伶藍を望んでいる者はどこにもいない。

「うまくやれよ。仲睦まじいように民に見られねば、政がやりにくくなる」

 秀峰は低い声音で囁くと、先に大窓を出て露台の中央に立つ。

「我が綸国の民たちよ、よくぞ集ってくれた。触れを出したのは他でもない、今日は我が后となる娘を紹介しよう。漣の一族の長、玉來の娘、伶藍だ」

 大窓を振り向いた秀峰が、来い、と目で合図する。

 伶藍は震える息を吐きだすと、長裙の裾を踏まないようにと気をつけながら露台へ向かった。

 秀峰のとなりに辿り着いた途端、大きな歓声が湧き起こる。もはや楽団の奏でる旋律も銅鑼の音も聞こえない。

 まるで檻だ。伶藍の知らない本当の伶藍が、祝福の声に閉じ込められる。

 たまらず後ずさりかけると、秀峰が沓の先で伶藍の踵を止めた。

「この秀峰、一妃伶藍を末永く慈しむことを光明の神に誓おう」

 もうどこへも戻れない。――眼下には「秀峰さま万歳! 伶藍さま万歳!」と叫びながら狂喜する民たちの姿。檻はいっそう堅牢なものとなり、伶藍を閉じ込める。

 大粒の涙がせり上がってきたが、気づいた民はひとりもいないだろう。



 伶藍のための宮――月花宮は、後宮のいちばん奥にある。

 さすがに他の妃といっしょには暮らせない。王宮とは回廊で繋がっているものの、他の妃が暮らす宮とは行き来できないようになっている。

「ここで結構です」

 伶藍は回廊の半ばで振り向くと、王宮からついてきた警護役の女官たちを帰した。

 彼女たちの後ろ姿が遠くなってからこっそりと息をつく。

 婚礼の儀を終え、半月。秀峰は伶藍を毛嫌いしているので、月花宮を訪れることはない。皮肉なことにこの宮が、伶藍にとっていちばん心安らげる場所になっていた。

 月花宮は一日も早く伶藍を輿入れさせたかった先帝が十年も前に造らせたものらしい。子どもができないのは分かっているので宮自体はこじんまりとしているが、その分、他の妃が暮らす宮よりも庭が広い。

 時折庭を眺めつつ回廊を進んでいると、宮の前で侍従たちが出迎えているのが見えた。

「お帰りなさいませ、伶藍さま」

 宮付きの侍従はすべて玉來が吟味した漣の女たちだ。伶藍の本当の性別も知っている。年かさのある者ばかりなのは、まちがいが起きぬようにと玉來が気をまわした結果だろう。

 皆に労いの言葉をかけようとしたとき、列の端から小柄な少年が飛びだした。

「伶藍さま、お帰りなさい」

「ああ、凛明。ただいま戻りました」

 伶藍は微笑み、十一になったばかりの凛明の頭を撫でる。

「伶藍さま、今日はごちそうですよ。王宮の厨房からお魚が届いたんです。たっぷりの菜といっしょに蒸しました。いつものようにお庭の露台にお運びすればよろしいですか?」

「ええ、お願いします」

 凛明は「かしこまりました」と元気よく返すと、厨房のある宮の東へ駆けていく。

「これ、お出迎えがまだ終わっておりませんよ」

 侍従長が咎めたものの、凛明の耳には届かなかったらしい。あっという間に小さくなっていく背中を見送りながら苦笑する。

 凛明は宮付きの侍従のなかで唯一の男子で、玉來の曾孫にあたる。

 本来は皇子以外の男子が後宮で暮らすことはできないのだが、后本人が男子なのだからややこしい。女性に着替えの世話などされるのがどうにも受け入れられず、ひとりでいいから男子を宮に入れてほしいと秀峰に頼み、「子どもなら男子でもよい」という特約を得た。

 月花宮に戻るとほっとするのは、凛明がいるからかもしれない。伶藍はあらためて侍従たちに労いの言葉をかけると、自分の房へ入った。

 婚礼の儀を終えてから何かと気忙しい日々が続いている。

 他国の使者が祝いの品を持ってしょっちゅう王宮にやってくるのだ。ただの使者なら高官が応対するものの、王族がやってきたときは、秀峰と伶藍が応対しなければならない。相変わらず秀峰はろくに口を利くこともしないので、側にいるだけで気疲れしてしまう。

 伶藍はため息をつきながら髪飾りを外した。次に宮廷服を脱ぎ、ほんの少し刺繍がほどこされただけの長衣に袖を通す。これは漣の一族の普段着で、冬のいまはこの上に上衣を着て肩掛けを羽織る。

 最後に長い髪をざっくり束ね直していると、凛明がやってきた。

「伶藍さま。夕餉のお支度が整いました。どうぞ露台にいらしてください」

「ありがとう。すぐに行きます」

 石敷きの廊下を抜けた先にある露台は、伶藍の気に入りの場所だ。

 庭を見渡すことができるので、少しくらい寒くてもここで食事をとるようにしている。侍従たちは水をついだり、魚を取り分けたりしながら、今日一日の出来事を話してくれる。

「少し風が出てきたみたいですね。房に戻られますか?」

 どの器も空になったのを頃合いに凛明が尋ねた。

 空はじょじょに藍色を深めていて、宵から夜へ近づこうとしている。

 房に戻って床につくと、すぐに明日がやってくる。明日はまた華美な宮廷服をまとい、后として王宮へ出向かなければいけない。ほんの一時でいい、憂鬱を遠ざけたかった。

「少し庭を散歩してからにいたします。凛明も皆も下がってよいですよ」

「かしこまりました」

 去っていく侍従たちを見送ってから、伶藍は回遊路に踏みだした。

 月花宮の庭は漣の一族が暮らす泉のほとりを模していて、いたるところに水池がある。

 一際大きな中央の水池は、切りだした大石をくり抜いて地中に埋めたものだ。どの水池にも漣の集落から運ばせた泉の水を満たしてある。水池の周りには十年の歳月をかけて茂った樹々が枝葉を広げていて、しきりに葉擦れの音を立てている。

 夏の夕べならきっと心地いいだろうな。そんなことを思いながら回遊路を歩いていると、少し先の茂みで白いものがぴょんと飛びはねた。

 何だろう、そう大きくない動物だ。

(兎……かな?)

 二妃と三妃が暮らす宮にも樹々の茂った庭があるので、兎が棲んでいても不思議はない。

「出ておいで。焼いて食べたりなんてしないから」

 呼びかけながら、がさごそと叢を移動しているらしい音を追いかける。

 間近なところで兎を見てみたい――明日を忘れるための戯れのようなものだった。

 だけど兎はなかなか姿を現さない。次第に足音らしいものも葉擦れの音にまぎれ、分からなくなってしまった。

 どこかで息をひそめているのかもしれないし、とっくに月花宮の庭から出ていったのかもしれない。うろうろと捜しまわっているうちに、王宮に繋がる回廊が見えてきた。

 陽が沈んだあとに皇帝の妻が後宮を出るのは、はしたないことになっている。

 仕方なく宮に引き返そうとしたとき、目の前の叢ががさりと揺れた。「あっ」と声を上げた伶藍の眸に、くるんと巻いた尻尾が映る。

「…………?」

 兎の尻尾は、巻くほどに長いものだっただろうか。

 伶藍が瞬いているうちに尻尾の持ち主は次の叢に飛び込み、草を揺らしながら逃げていく。

「待って、そっちに行ってはいけない――」

 兎が逃げていった先は、王宮の内苑に続いている。

 内苑には日夜を問わず警護役がいるし、武官や兵士も出入りする。乱暴者に「おっ、うまそうな兎だな」と首根っこを掴まれて、丸焼きにされてしまうかもしれない。兎の肉は結構なごちそうだ。

 だけど兎ではない伶藍が内苑に入るには、門を抜ける必要がある。

 互い違いに並んだ門で、後宮側には女官が、内苑側には兵士が立っている。

「通してください。兎を捜しています」

 守衛の女官に告げると、当然だが怪訝な顔をされた。

「兎ですか? そのようなものはここを通っておりませんが」

「あちらの叢から内苑に入ったのです。すぐに宮に戻りますから通してください」

 強めの口調で言うと、女官は叱責されたと思ったようだ。はっと息を?んでから慌てた様子で門扉を開く。なんだか申し訳なくなったが、一刻も早く捜してやりたい気持ちのほうが上まわった。「ありがとう」と頭を下げてから小走りに門を駆け抜ける。

 内苑ではすでにかがりに火が入っていた。

 昼間ほどではないものの、高官たちが行き来していて、漣の普段着で歩きまわるには気が引ける。伶藍は暗がりに逃げ込むと、肩掛けを頬かむりの形に巻きつけた。銀髪さえ隠してしまえば格好が格好なので、下働きの者にしか見えないだろう。

(よし、うまく化けられた)

 ふふふと笑みをこぼしつつ歩いていると、官吏らしい男性が茂みの前でしゃがんでいるのが見えた。

 おいで、とでも言うように伸ばされた男の腕。もしやと思って注視していると、ほどなくして白毛の動物が男の腕に抱かれる。

 あの兎だ。伶藍は笑みを広げて男に駆け寄った。

「よかった。それは私が捜していた兎です」

「――――」

 ふいに真横に来られて驚いたらしい。男は兎を抱いたままさっと立ちあがると、射貫くような眼差しを向けてくる。

 予期せぬまま厚みのある長躯と対峙してしまい、思わず後ずさる。

 この体つきは文人ではなく武人のものだ。それに強そうな短髪と濃い睫毛。平坦な顔立ちをしている綸国の者とはどこか違う。男が放つ野性味に圧倒され、まるで伶藍こそが食べられる寸前の兎のように固まった。 

「す、すみません、その兎を捜していたので……」

 喘ぐように言いながらようやく気づく。男の装いは綸国の官吏のものではなかった。

 騎馬の民が好むような上衣と下衣をまとい、首に砂塵避けの長布を巻いている。

 ほどよく雨が降る綸国で、砂塵避けの長布を使う者はまずいない。伶藍が釘づけになっていると、男は長布のたるみを引きあげ、顔の半分を隠す。

 きっと他国の使者だ。察してうろたえた。

 后らしい格好もしていないし、女官も侍従も連れていない。

 いや、后だと気づかれなければいいのか。銀髪は隠しているのであとは眸だけ。頭をこんがらかせたまま、顔ごと眸を地に伏せる。

 かがり火から遠い樹の下だ。たぶんこの眸も黒色に見えるはず――。

 うつむく首根に力を入れたのも束の間、頭上から降ってきた男の言葉で呆気なく顔を上げてしまう。

「おもしろい。綸国ではこの動物のことを兎と呼ぶのだな」

「えっ?」

 男の双眸から先ほどの強さが消えている。からかうような言いまわしと、かすかな笑みをたたえた目許。どちらにも興味を覚え、おずおずと男の腕のなかを覗き込む。

「俺の国ではこの動物のことを猫と呼ぶ」

「あっ――」

 確かにそれは猫だった。まだ幼い白猫で、兎らしい長い耳はどこにも見当たらない。捜しているときに一瞬見えた尻尾はいま、小さな体に添ってたたまれている。

「ね、猫……猫だったのですね。ああいえ、綸国でも猫のことは猫と呼んでいます。飛びはねるようにして駆けていたので、私はてっきり兎かと――」

「怪我をしているからだろう。見ろ、この足を」

 男が子猫を抱き直す。血で汚れた右足が見え、「あっ」と声が出た。

 柵か何かに引っかけてしまったのだろうか。おかしなふうに曲がってもいて、子猫はべそでもかくように細く鳴く。

「なんてこと……」

 伶藍がしつこく追いかけるような真似をしたから、子猫は痛む足で必死に逃げていたのだろう。ようやく身を隠せる場所を見つけたところで、男に抱かれた――。

「足が折れては狩りなどできまい。いずれ獣の餌となるだけだ。静かな場所で死なせてやれ」

 男は言いながら茂みへ分け入る。

 子猫を暗がりに放置しようとしているのだと分かり、慌てて男の上衣を引っ掴む。

「みすみす死なせるのですか? とんでもない。私にその猫を預からせてください。手当てをいたします」

 助けられるかどうかは分からないが、助けたい。人として当たり前だろうと思うのに、男にはなかった感情らしい。

「この猫を助けるのか?」

 男は驚いたように振り向くと、腕のなかの子猫に目を落とす。

「そうか。豊かな国は違うのだな」

 何がどう違うというのだろう。瞬きながら男を見つめていると、まるで荷でも預けるようにひょいと子猫を渡された。「わっ」と声を上げて慌てて抱きとめる。

「助けられるなら助けてやれ。その幼い猫にとって、お前に拾われたのが運命の分かれ道になるとよいな」

 子猫はまだ抗う気力を残していたようだ。伶藍の腕のなかでむずがるような仕草をしてみせる。収まりがいいように抱き直しているうちに男は背を向け、歩きだす。

「あのっ――」

 遠ざかる背中に声をかけたとき、内苑の中央広場でこちらを注視している一団に気がついた。

 かがり火はいくつもあれど、彼らの顔までは判別できない。きっと男と伶藍のやりとりが終わるのを待っていたのだろう。男は伶藍を振り向くことなく歩んでいき、彼らもまた頭を下げて男を迎える。

 男に対する態度が恭しい。使者ではなくて王族だったのだろうか。だけど砂塵避けの長布を使うような国はどこも遠方で、綸国と交易はないと聞いている。

 腑に落ちないまま一団を眺めていると、後ろから「伶藍さま!」と呼ばれた。

 角灯を掲げた凛明を先頭に、宮付きの侍従たちが駆けてくる。

「宮を出るときは伝えてください。お庭のどこにもお姿がないから慌てたじゃないですか」

「ごめんなさい。兎……いえ、猫を追いかけていて、つい」

 首を竦めつつ腕のなかの子猫を見せる。

「可哀そうなことに足を怪我しているのです。宮に戻ったら泉の水と薬草を用意してください。すぐに手当てをいたします」

「かしこまりました」

 駆け足で後宮に引き返すなか、伶藍はそれとなく振り向いた。

 一団はすでに内苑を出たようで、静かな夜の風景があるだけだった。

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