第5話

 そんなある日、ソニアの従姉が来て、これからどうするつもりなのか、今の収入でやっていけるのか、再婚の話はどうするのかと問いただした。


 二人は夜遅くまで話し合っていた。


 従姉が出て行った後、どういうわけかソニアはさほど迷いもなく、見えない力に操られたようにふらふらと、十三番目の石を装置に入れた。


 目の前に黒い鉄の扉があらわれた。

 エリとの約束を破るのか?

 たかが新しい刺激と気晴らしのために?

 しかし今、猛烈にそれが欲しい。

 そしてまだ使っていない扉はこれ一つなのだ。


 そっと扉を開いて踏み込んだ。

 そこは冷え冷えとした薄暗い館だった。

 腐臭が漂い、床の敷石にはおびただしい血が流れた跡があった。

 片隅には、白い骨が小山のように積み上げられ、あちこちに人間の頭蓋骨が転がっていた。


 おぞましい光景だったにもかかわらず、ソニアはなぜか何の驚きも感じなかった。ただ、底知れぬ悲しさを感じた。


 どこかでこれを予期していたような気がする。あるいはこの館を、以前にもどこかで見たことがあるかのようだ。いやそれとも、この荒廃した風景が比喩的に己の人生そのものだからか?


 不穏な静寂の中で、際限なく交わされる接吻のような、あるいは猫が皿を舐めているような、ひそやかな音がきこえてきた。


 その方向を見ると、部屋の奥にぼんやりと玉座らしきものが見えた。そこに黒い人影がうずくまっていた。


 全身漆黒の衣に包まれたそれは、確かに人のように見えた。

 しかしその背からは、巨大な二つの翼が生えている。

 翼はあたりの暗がりや影よりもひときわ黒く、あらゆる光を吸収しているようだった。


 その生き物は、何かを腕に抱え、音を立てて吸っていた。

 よく見ると、そいつの腕の中で人形のようにぐったりしているのは、死にかけた少女だった。


 ソニアが逃げ出そうとしたとき、怪物がこちらを向いた。

 無造作に娘を放り出し、血に濡れた口元を拭って立ち上がった。


 なんと、怪物はソニアのよく知る顔だった。

 子供の時分によく一緒に遊んでいた悪童仲間だ。

 一時は二人して学校をさぼったり、一緒にヒッチハイクや野宿をしていた近所の少年ではないか。しかし十八歳になったとき、二人が乗ったバイクごと崖から転落し、軽傷で済んだソニアを残して彼だけが死んだ……。


「アンジェロ! アンジェロじゃない。どうしたの? どうしてこんなところにいるの!」


 彼の姿は最後に見たときと少しも変わっていなかった。十八歳のままに見えた。髪は杏色に輝き、藍色の瞳は親しみと愛情をたたえ、やさしげな口元がなつかしい微笑みを形作った。


「ソニア……俺のソニア」


 ああ、この声も昔のままだ!


「やっと来てくれたね。もう俺を待たせないで」


 彼女は吸い寄せられるように、彼がさしのべた腕に向かって足を踏み出した。

 そのとき、まったく思いがけない方向、自分のすぐ足元で、かすれた叫び声がした。


「逃げて!」


 ソニアは振り向き、足元に這い寄っているものを見た。あやうく卒倒しそうになった。


 そこにいたのは一人の女――否、その残骸だ。彼女に残されていたのは右目と左腕だけ、両腿から下は切断され、右腕も肘から先がなかった。左目はえぐりとられ、赤黒い血が顔の半分を汚していた。


 女はひび割れた声で言った。


「そいつはあんたの男なんかじゃない。誰でもないし、誰にでもなれる。さっさと逃げな。走るんだよ、この間抜け!」


 女の言葉が脳裏に響いた瞬間、ソニアは呪縛から解かれたように死に物狂いで逃げ出した。


 背後で翼が開き、勢いよく宙を打つ音が聞こえた。ソニアは鉄の扉にとびついて、元の世界へと身を投げた。


 だが遅かった。すぐ後ろにせまった怪物が、ソニアの髪をわし掴みにした。


 彼女は一方の手で自分の髪を引き戻そうとし、もう一方の手でドア枠にしがみついた。


 扉は半ば閉じようとしている。


 彼女の身体は、もう自分の部屋の中にある。それなのにつかまれた髪だけはまだあちら側の世界にあって、どうしても振りほどくことができない。


 ソニアは脚をドア枠に突っ張って、テーブルに手を伸ばした。鋏の冷たい刃に指が触れた。彼女はそれをひっつかむと、つかまれた髪を乱雑に切り落とした。


 すると怪物の手が扉の隙間から飛び出し、彼女の足首を捕らえた。長いかぎ爪のついた手はすさまじい力を持ち、焼け石のように熱かった。


 ソニアはとっさにハサミを持ち直すと、怪物の手に切っ先を突き立てた。おぞましい感触とともに、黒い血が跳ね散った。


 皮膚に火傷と長い爪痕を残して、怪物の手が引っ込んだ。


 だが、扉を閉める直前に、ソニアは見てしまった。向こう側の世界から、アンジェロの傷ついたような、責めるような目がまっすぐに自分を見つめているのを――。


 彼女は魂が抜けたように扉の前にへたりこんだ。涙があふれ出して止めようもなく、ソニアは床に突っ伏して泣きじゃくった。だがそうしながらも震える手をのばして、十三番めの石を座金からとりのけた。


 どうしてそんなまともな行動ができたのか不思議なほどだ。なにしろ彼女は、すんでのところでもう一度扉を開き、怪物の足元に跪いて許しを請おうとしていたのだから。


 あれが本物のアンジェロでなくてもかまわない。ただ彼が生きているという幻想に浸り、彼の腕の中で死んでゆけたら……。


 ソニアはしっかりと箱の蓋を閉じ、手提げ袋に押し込んだ。不揃いに短くなった髪をスカーフで覆い、足首の傷を靴下で隠すと、鍵と財布をひっつかんで外に出た。


 このまま一人で、箱と一緒に部屋に座っていたら、衝動的に何をするかわからない。朝になったらバスに乗って、エリの骨董店に返しに行くつもりだった。


(あと四、五時間で夜が明ける。あともう少しよ。お願いソニア、ばかな真似しないで……!)


 静まり返った通りをあてもなく歩き、墓地の前まで来た時だった。柵の前のベンチに、子どもが一人ぽつんと座っているのが見えた。痩せた小さな女の子で、傍らに置かれたカバンの中から犬のぬいぐるみの頭が突き出ている。


 この子のことは従姉からきいたことがある。


(ああ、二十四時間ピザで働いてるウエイトレスの娘さんだわ。またお父さんのお墓に来ている)


 ソニアは足早に近づき、話しかけた。


「おじょうちゃん、もう真夜中よ。ここにいちゃだめよ。おうちに送って行ってあげましょうか」


「帰ってもママがいないんだもん」


「夜勤なのね? だったらなおさら、ちゃんとお留守番してないと……」


 そのとき、ソニアははっと自分が手にしている手さげ袋を見た。


(そうだ、ベビーシッターならいるじゃない。こんなところをほっつき歩いて変質者につかまるくらいなら、箱の中にいた方がよっぽど安全だわ。大丈夫、悪いことなんか起こるはずがない。まだ恋も欲望も知らない罪のない子どもだもの。この子が東西南北の男を食い尽くしたあげく飽きて十三番目の扉に手をつける? ありえないでしょ!)


 ソニアは彼女の隣に腰を下ろし、手さげの中から金の箱を取り出して蓋をひらいた。


「いいものをあげる。魔法の箱よ。夜ひとりぼっちで、さびしくなったら開けてみて」


 少女は興味を引かれたようだった。細い首を伸ばして箱の中をのぞきこんでいる。


「この石をどれかひとつ選んで、ここに嵌め込むと、精霊に会えるの。この空色の石は男の子、あんたと同じ年頃よ。ピンクの石はお姉さん。他はお兄さんかお父さんね。誰かが遊んでくれて、宿題をみてくれて、何か食べさせてくれるでしょう。でもいい、この透明の石だけは絶対に触っちゃだめ。これは何があってもここから動かさないで。約束してね。ちゃんと守れる?」


「……うん」


「いい子ね。さ、これを持って、もうおうちに帰りなさい」


 すると少女はカバンを肩にかけ、箱を小脇に抱えて、素直に立ち去った。


 そう、これは慈善だ。あのかわいそうな子に、ささやかな玩具を譲っただけ。


 しかしソニアの心の裏側で、もうひとつの声がささやく。


 どう言い訳したところで、自分はあれを持て余した挙句、年端のいかない少女に押し付けたのだ。あの享楽を、あの逃避を、そして恐るべき十三番目の扉を。


 あれを開いてもなお、彼女はこの世界に戻れるのだろうか? そして何を学ぶのだろうか……

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小箱の中の世界 みるくジェイク @MilkJake

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