9(エピソード完)

「陽彦くんたちのこと、よろしくね」

 黒曜石オブシディアンの両眼に優しさをたたえて、ささやくように彼女が言った。


「あなたはそれでいいの?」

 自然と胸に浮かぶ言葉を、そのまま投げかける。 

「いつか分かるよ。信じてる」

 どうして――その疑問は飲み込んだ。

 彼女が本心から、そう言ってくれているのだけは分かったから。


「私のこと、時々思い出してね」

「うん。あなたのこと、きっと忘れたりしない」

「ありがとう。大好きだよ」

「私も、あなたのことが好き」

 くも隙間すきまからぱあっとのぞく、夏の太陽みたいな笑顔だった。

 私も同じ顔で応える。夢の中の私にはそれができた。

「またね」と手を振ると、世界が光の水面みなもへと、泡のように浮かんでいった。


 ※※※


 まぶたをそっと開く。薄汚れた白の天井/黄ばんだ壁紙/少ない家具――本土に戻ってきたワイルドハントに与えられる、プレハブ寮の小さな個室。


 あの日から私は、新しい夢を見るようになった。

 幸せなことも、胸が苦しくなることもある。

 陽彦たちと一緒に戦っていることもあれば、ここではないどこか暖かい世界で、穏やかに暮らしていることもあった。


 深雪あの子と話すのは特に好きだ。

 私は私でありたい。けれど、あの子から奪いたくない。

 私はわがままを貫いたまま、あの子に許されたい。

 あれはきっと、私の心が見たがっている都合のいい夢なのだろう。


 それでいいのだと思った。

 たぶんそれが、この厳冬の世界フィンブルヴェトで生きるということなのだから。


 コン、コン――ノックの音。今日からまた遠征が始まる。

 ドアの外にいるのは、陽彦か、聖二か、愛海……は、まだ寝ているだろうか。


「少し待って」

 そう返事をして、鏡に向かって微笑ほほえんでみた。

 現実の私は気持ちの表現が得意じゃないので、こうやって練習をする。

『あなたたちが好き』と、ちゃんと伝えられるように。


「私が死なせないから」

 私が深雪わたしである理由――その勇気の呪文モージョーを、そっと呟く。


 口のはしを上げて、ほんの少しだけ自分を好きになれたら。

 ドアノブを回して、「おはよう」と告げながら、外に一歩を踏み出した。

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