倫理
倫理1 反社会的行為の許容・序
4月19日づけの産経新聞朝刊コラム。曽野綾子氏が「一番のがんは学芸員」などと宣った山本地方創生担当大臣(これを載せるころには元がついているはずだが)について言及する中で、ある一文が目についた。
「しかし少し気にくわない言葉を口にしたからと言って、すぐ非難する社会風潮に、私はついていけない。人間社会にはいろいろな人がいて、様々な個性がある。それらの個々に違った行動の選択が(それが直接、殺人や破壊などを勧めていない限り)自由に表現されていいはずだ。いや、人は殺人の行為さえも、それが架空なら好きなので、純文学は売れなくても、推理小説は売れるのが原則だ」
このコラムの見出しは「大人の言葉遣い わからぬ幼稚」だがどっちが幼稚なのだとか、極右保守勢力の言説はまさに殺人や破壊を勧めているから問題なのだとか、直接的に勧めなくたって問題はあるとか言いたいことは山ほどだが、あくまでミステリに関わる内容についてのみ言及しよう。
ある種の反社会的、反道徳的表現を正当化するとき、たまにミステリが引き合いに出される。ミステリはメインストリームとして「人殺し」という反道徳的な行為を描き、なおかつポーの時代から栄華を誇ってきた。反道徳的表現を正当化したい人々にとって、ミステリは反道徳的表現が許容されることを示した格好の例なのである。
しかしそんな彼らが正当化したがる反道徳的表現というのは、マイノリティに対する差別的言説、女性に対する強姦をポルノとして消費する表現が大半であって、一ミステリファンとしては同一視されるのは我慢ならないところがある。というより端的に言って反吐が出る。ニヤニヤ笑いながら「俺たち兄弟だろう?」と言って肩を組もうとしてくる赤の他人のようなもので、その顔を一発ぶん殴ってやりたい気分である。
これまでの稿ではミステリにおける「人殺し」の作法、すなわち物語中における殺す側の論理を語ってきたが、ここで「人殺し」を享受する側と描く側、つまり物語外の作法も語るべき時なのかもしれない。本来であれば『文芸創作の倫理』としてまったく別の評論を立てるべき内容でもあるが、これだけはさくっと言ってしまおう。
なぜミステリにおける人殺しは許容されるのか。これには主に二つの理由が絡んでくる。
ひとつは「人殺し」が反社会的行為であるという前提の存在。
いまひとつはミステリの基本的な性質が「人殺し」を賛美しにくいということ。
本来であればこの二つについても本稿で説明してしまうつもりだったが、どうも長くなりすぎてしまうので別稿を設けることにしよう。ここでは曽野綾子氏の言葉への反駁で閉じるとする。
「悪いことを一切言えなくなったら、むしろこの世界がどんなに硬直して、幼稚で殺伐なものになるか、自明のことなのだが、」
曽野氏はそんなことをぬけぬけと言ってのけるが、これは差別主義者の典型的言い訳である。今まで悪いことを平然と言えてきたのは、その言説によって傷ついてきた人たちをまさに彼女のような人たちが黙殺してきたからである。言うなれば被差別者たちの「表現の自由」――そう、差別主義者たちが愛してやまない噂のそれを、ほかならぬ「表現の自由」を溺愛する差別主義者たちこそが奪ってきたからだ。
ひとつしかない玩具を奪う保育園児じゃあるまいに。自己の「悪いことを言う」自由だけを認め、他者の「その悪い言説を批判する自由」を認めないのか。誰が幼稚なのかは言うまでもない。
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