弐 夜話
春が過ぎ去ろうとしている。夜はまだ肌寒い。爪で引っ掻いたように細い月が南の空の真ん中にある。
庭に出たら、ぽつりと、時尾が
「斎藤さまも眠れねぇがよ?」
「別に」
「永倉さまと原田さま、やっぱり江戸に残られるそうです。倒幕派と今すぐ真っ向からぶつかってやんだって、お二人らしい決断だべし」
「会津へ向かう戦力は減ってしまった。永倉さんたちが来てくれれば心強かったのに」
「別々になったけんじょ、あきらめねぇで戦う思いは同じだなし」
近藤さんを中核とする新撰組は二、三日中に、会津藩との合流を目指して出立する。援軍を募って、今ようやく二百人を超したところだ。北上して最初の駐屯地、
永倉さんと原田さんは、江戸での抵抗を続けると決めた。二人に付いていった隊士もいる。半月前、殴られた日の夜、永倉さんに酒を差し出されて、お互い黙って飲んだ。その翌日に、永倉さんと原田さんは、従う者たちを連れて
湿った夜風に乗って、掘り返された土の匂いがする。五兵衛新田の屋敷のまわりは畑や田んぼだらけだ。
「斎藤さま、やっぱり皆さまは、沖田さまには何も言わずに行くのかし?」
「いや、会津に向かうことだけは、手紙で伝える。出立するときに」
沖田さんには会わずに行く。会いに行けば、今度こそ沖田さんは付いてきてしまうだろう。それは沖田さんの命を急速に縮めることになる。沖田さんには一日でもいいから長く生きてほしい。
「斎藤さまは、ご家族とも会わねぇのですか? せっかく江戸の近くにいるんだから、挨拶くらいしてがんしょ?」
「家族との縁は切った。生きてるか死んでるかわからない」
時尾がそっと笑う気配がある。
「斎藤さまには
「頼りないという意味か?」
「んでね、違ぇます。一人でいてもさすけねぇように見えて、一人にしたら壊れっつまいそうなところがあって、だから近藤さまや永倉さまも前と変わらず、斎藤さまを受け入れた。斎藤さまには、かわいがられる人徳があんだべし」
人徳だなんて、想像もできなかったことを言われて、オレは面食らった。間抜けな顔をしてしまったんだろう。時尾が、ころころと小さな声を立てて笑った。
女が笑う顔をちゃんと見たのは、いつ以来だろう?
母と姉を思い出した。色が白いところは、時尾も似ている。目が大きくて垂れているところも似ている。背丈は、時尾のほうがずっと小さい。鼻や口や
時尾は綺麗だ。奥羽の女は田舎者だが
「あんたの家族は、弟のほかには? 親は息災なのか?」
気まずいのをごまかしたくて訊いた。時尾は、穏やかに歌うような声で答えた。
「祖母は目が見えねぇけんじょ、お裁縫の達人で物知りです。母は、娘のわたしから見ても綺麗で凛としてっから、わたしもそだになりてぇと思います。弟はまだ十五歳なのに、家督を継いだ武士としての働きを求められているから、会津で頑張っています」
「弟が家督を継いだ? 父親は?」
「死にました。京都の
オレは思わず時尾を見た。時尾は泣いてはいなかった。静かに微笑んでいた。
「知らなかった」
「言えねかったのです。わたしは環を持つ者として、ただの
女のくせに、と言いたかった。死んだ父親だってきっと、娘に守ってもらおうなんて考えていなかった。環があろうがなかろうが、女は守られていればいい。安全な場所で待って、戦わなくていい。男が帰るための場所になるだけでいい。
そう言えるほど強い男は、この国にどれだけいるだろう? 時尾に何度も助けられたオレには、言う資格がない。言えば、また嘘を重ねることになる。
時尾が空を見た。つられて仰げば、星がまばゆい。月の形は、あれくらい細いのが好きだ。尖っていて冷たい。星に埋もれて消えそうなのに、呑まれることなくそこにある。
「わたしは、憎いから戦うのではねぇのです。父を殺した敵を憎んで父の仇を討つのが武士の子の務めだけんじょ、わたしはきちんと憎むことができねえ。ただ、会津を守らねばと思っています。会津には、決して曲げたり捨てたりできねぇ誇りがあるから」
「多くの者が、たぶん同じだ。憎いから斬るわけじゃない。刀や銃で戦うことでしか、違う誇りを持つ相手と対面できない。それだけだ」
「んだけっちょ、勝先生は刀も銃も使わずに、幕府と新政府の間の決着を付けっつまいました。薩摩と長州も敵同士だったのに、話し合って手を結んだと聞きました。わたしにできねぇことをできる人が、世の中にはいるんだべし」
「敵対勢力のことを感心した口振りで話すな。まわりに聞かれたら、よくない」
「はい。お気遣い、ありがとうごぜぇます」
笑顔を向けられて、はっとする。オレはいつの間に時尾を見つめていたんだろう? 空を見ていたはずが、どうして?
顔を背ける。頬に時尾の視線が触れている。気まずさに耐えきれない。
「休めるときは、早く休め」
時尾が寝泊まりする女中小屋のほうへ、
「んだなし、斎藤さまも早くお休みくなんしょ」
「ああ」
去ろうとする後ろ姿がふと立ち止まって、オレを振り返った。
「斎藤さまとお話しできて、気持ちが落ち着きました。ありがとうごぜぇます」
時尾はぺこりとお辞儀をして、また
細い背中を追い掛けたい衝動に駆られた。腕の中につかまえたら、その体はきっと柔らかいだろう。そんなことを考える自分を馬鹿だと思った。
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